一年の宿題
宿題を出されてから、四十日が過ぎた。
春はいつのまにか終わっていた。山は一気に緑を吹いて、朝のうちに登っても下生えの葉が夜露を抱えている。膝から下はすぐに濡れる。日が高くなれば、木陰にいても汗が引かない。夏が、もう坂の下まで来ていた。
音のしない一歩を、山道で十歩。
結論から言えば、まだ四歩だった。
稽古場の平らな土の上なら、五歩か六歩は続く。けれど山道は別物だ。石がある。根がある。斜面がある。同じ歩幅で歩けない場所では、体の中の糸がすぐに揺れる。三歩目までは行く。四歩目で、たいてい終わる。
(四十日で三歩から四歩。残り三百日で六歩積む計算だな)
朝の山道で、自分の足跡を振り返るのが日課になっていた。濡れた土は正直だ、と爺さんは言う。今朝も正直な跡が並んでいた。浅い、浅い、浅い、深い。四歩目で、俺は必ず押しつけている。
なぜ四歩目なのかが、分からなかった。
石があるからでも、坂が急になるからでもない。平らなところでも、四歩目で崩れる。体のどこが揺れているのか、自分では掴めない。掴めないものは直せない。毎朝きっちり同じ場所で転ぶのに、転ぶ理由だけが見えない。
「アレンー!」
下の方から声がした。振り向くと、朝の斜面を、エルナが走って上がってくる。走って、である。この坂を。木剣を肩に担いで、髪を揺らして、あいつは俺のいる所まで一息に来た。
「おはよ。今日、何歩?」
「四歩」
「昨日も四歩じゃん」
「うるさい」
エルナは笑って、俺の足跡を覗き込んだ。しゃがんで、指で跡の縁をなぞる。最近こいつは、俺の足跡を読むのが妙にうまくなった。
「ここ、右がまた深い」
「……分かってる」
「分かってるのに、直んないんだ」
まったくその通りだったので、返す言葉がなかった。
稽古場に着くと、爺さんはもう庭にいた。
「走れ」
挨拶より先に、それが飛んでくる。エルナは「はいっ」と返事をして、荷物を放り出して、山を回る道へ駆けていった。爺さんがエルナに課しているのは、いまだにほとんど走り込みだ。剣を持たせるのは十日に一度あるかないか。
俺は素振りに入りながら、走っていくエルナの背中を見ていた。
そして、気づいた。
風が、変わっていた。
あいつが走ると、体のまわりに薄く風が起きる。無意識に漏れているやつだ。前は、その風がひどく揺れていた。上り坂で息が上がると膨らみ、下りで気が抜けると縮む。楽しいと強くなり、悔しいと荒れる。エルナの風は、いつだってエルナの気分の形をしていた。
それが今朝は、同じ太さで続いている。
坂を上がっても、下っても、変わらない。膨らまない。荒れない。ただ、細く、ずっと。
父さんの火と、同じ形だった。
「爺さん」
「なんだ」
「エルナの風、変わりました」
爺さんは素振りの数を数えるのをやめずに、庭の向こうへ目をやった。
「気づいたか」
「いつからですか」
「十日ほど前からだ。本人は知らん」
知らん、と俺は胸の中で繰り返した。
「教えないんですか」
「教えたら、確かめに行く。確かめに行けば、揺れる」
雪の日に、俺が身をもって覚えたことだった。できているものを見に行くと、できなくなる。爺さんは同じ罠に、今度はエルナを近づけないようにしている。
「あれはな、続ける方を先に覚えた」
「先に、というのは」
「強くする方は、あとでいい。強い風は誰でも一度は出せる。二刻出し続けられる者はほとんどおらん」
走り込みばかりだと、エルナはよくふくれていた。剣を教えてもらえないと。俺だってどこかで、そう思っていた。あれは剣に上がるまでの前段だと。
違った。走り込みは、風の稽古だったのだ。息が上がっても揺らさない体を、あいつは坂を上りながら作らされていた。
(要件は、最初から別のところにあったわけか)
この爺さん、教える手順に一切の無駄がない。
昼前に、俺はもう一度、山道に出た。
爺さんが「行ってこい」と言ったからだ。宿題は稽古場ではなく山道で、と最初に指定されている。指定した以上、時間を割り当てるのも師匠の仕事らしかった。
エルナも走り込みの区切りがついて、ついてきた。
「見ててやろうか」
「別に、いい」
「なんで」
「見られてると、意識するから」
「ふうん」
エルナは道の脇の岩に腰かけて、勝手に見物する構えになった。追い払う理由もないので、放っておいた。
歩いた。
一歩目。音が抜ける。二歩目、続く。三歩目、まだある。四歩目──泥が鳴った。
もう一度。同じところで、同じように鳴った。
三度目も、四度目も。四歩目で、俺の中の糸が、確かに一度だけ跳ねる。跳ねる理由が分からないまま、俺はその跳ねを何度も味わった。
「アレン」
岩の上から、エルナが言った。
「あんた、四歩目で顎が上がってる」
「顎?」
「うん。三歩目までは下向いてんのに、四歩目でちょっと上がる。……たぶん、数えてるからじゃない?」
足が、止まった。
数えている。
その通りだった。俺は歩きながら、頭の中でずっと数を数えていた。いち、に、さん。そして四つ目で──あと六歩、と考えていた。十歩まであといくつか、を勘定していた。
勘定した瞬間に、意識が足の裏から離れる。離れた分だけ、糸が揺れる。
(数えるという処理が、そもそも余計な負荷だったのか)
できたかどうかを確かめに行くのはやめられた。なのに、あといくつ残っているかを数えるのは、やめていなかった。同じ罠の、裏返しの入口だ。
だが、困った。数えなければ、十歩続いたかどうかを、誰が知る。
答えは、岩の上に座っていた。
「エルナ」
「なに」
「数えてくれ」
エルナは目を丸くして、それから、にやりと笑った。
「なにそれ。あたしに頼るの?」
「頼る」
「素直だと調子狂うんだけど」
文句を言いながら、あいつは岩から飛び降りて、道の脇に並んだ。
「言っとくけど、声には出さないぞ。数えた結果だけ、あとで教えろ」
「はいはい。分かってる」
分かってる、の言い方が、本当に分かっている言い方だった。俺の稽古のややこしさを、こいつはもう俺と同じくらい知っている。
歩いた。
今度は、数えなかった。足の裏と、土と、体の中の糸だけを置いた。一歩を過去にして、次を置く。過去は追いかけない。未来は勘定しない。あるのは、今踏んでいる一歩だけ。
いつ終わったのかも分からないまま、俺は道の途中で立ち止まっていた。
振り返ると、エルナが両手で口を押さえていた。
「……いくつだった」
手が、離れた。
「五歩。今の、五歩続いた」
五歩。
昨日まで四歩だったものが、五歩になった。数を数えるのをやめただけで、一歩伸びた。
俺は自分の足跡を見に行った。浅い跡が、五つ並んでいた。縁が崩れていない。置いた跡が、五つ。
その隣に、エルナの足跡があった。俺が歩くのに合わせて、あいつも並んで歩いていたのだ。数えるために。
(一人でやる稽古だと思ってた)
思い込みだった。宿題は俺に出されたもので、歩くのは俺の足だ。それは変わらない。ただ、数えるのを人に預けていいとは、俺は一度も考えなかった。
八歳の生誕祭の日に、手のひらを合わせた。いつか一緒に村の外へ、と。あれは遠い先の話だと思っていたが、そうではないのかもしれない。
一緒に行くというのは、こういうことの積み重ねなのだ。俺が数えられない分を、隣のやつが数える。
「エルナ」
「ん」
「……助かった」
「ふふん。もっと言って」
「調子に乗るな」
夕方、稽古場に戻って報告した。爺さんは五歩と聞いても、眉一つ動かさなかった。
「数えるのをやめたか」
「はい。……エルナに預けました」
「そうか」
爺さんは湯を沸かす手を止めずに、それだけ言った。褒めもしないし、驚きもしない。この人はいつも、俺が着く場所に先回りして待っている。
「爺さん。最初から分かってましたよね」
「何がだ」
「俺が、数えるのをやめられないって」
爺さんは湯呑みに湯を注いで、ようやくこちらを見た。
「十歩と言ったのは、そのためだ。三歩と言えば、お前は数えずに歩けた」
背筋が、すっと冷えた。
十歩という数は、届かせるための目標ではなかった。数を数えさせて、その癖を自分で見つけさせるための、罠だったのだ。
「……性格が悪い」
「師匠とはそういうものだ」
爺さんは湯呑みを傾けて、少しだけ、笑ったように見えた。
夜、布団の中で、今日を並べた。
揺れなくなったエルナの風。四歩目の顎。五つ並んだ浅い跡。並んで歩いた、隣の足跡。
あと五歩。半分まで来た。残りの半分の方が、たぶん重い。
それでも、今日で一つ分かったことがある。強くなるための道は、一人で歩くものだと、俺はずっと思っていた。前世で三十五年、そう思って生きて、そのまま机で死んだ。
この体は、まだ八歳だ。そして隣には、俺の歩数を数えてくれるやつがいる。
(引き継ぎ相手のいる仕事は、たぶん、途中で倒れない)
窓の外で、夏の虫が鳴きはじめていた。明日も山に登る。足を運んで、数えずに歩く。
五歩を、いつか十歩に。
(次回)
第二十二話「流れの中で」
夏の盛り、爺さんは稽古の場を川へ移した。水の中では、ごまかした足運びは一歩たりとも通らない。足元を洗う流れと格闘するアレンは、その水に触れる魔素が、山の土のそれとは違う手触りをしていることに気づく。




