名前をもらう日
爺さんの小屋に呼ばれたのは、父さんと山へ行った四日後の朝だった。
今日は円も引かれていない。木剣もない。戸口に立った爺さんは、俺を見て、それから後ろのエルナを見た。
「二人とも入れ」
「あたしも?」
「聞く資格はある。ただし、ここで聞いたことは、ここから出すな」
エルナは目を丸くして、俺を見た。俺も、同じ顔をしていたと思う。
小屋の中は、いつもの乾いた木と古い紙の匂いがした。机の上に、黒い布の包みが置かれている。爺さんは丸椅子に腰を下ろし、膝の上で手を開いた。
「ガイから聞いたな」
「……はい。少しだけ」
「あいつの話の続きは、あいつがする。俺の番は、これだ」
爺さんは、包みの結び目に指をかけた。
布の中から出てきたのは、茶色く変色した紙の束だった。端が擦り切れ、何度も折られた跡がある。
「王国剣士団にいた頃、書庫で写した。誰にも見せたことはない」
爺さんは一枚を引き抜き、俺の前に滑らせた。古い字で、短い行が並んでいる。
読めたのは、最初の一行だけだった。
統合適性。
「六つの属性すべてを、生まれつき内包する者。千年のあいだに、記録に残るのは数えるほどだ」
喉が、ひゅっと鳴った。
「水晶球は、ひとつの色にしか染まらん。火なら赤、水なら青。六つが同時に流れ込めば、どの色にも決まらず、何も映さん。ベルトの言った『適性なし』は、お前の中身ではなく、道具の限界を読んだ結果だ」
爺さんは、そこでいったん言葉を切った。
「お前の適性は、なしではない。六つ、全部だ」
小屋の中が、しんとした。
窓の外で、鳥が一羽、鳴いて飛んでいった。その羽音まで聞こえた。
正直に言えば、嬉しさより先に来たのは、静けさだった。
八年間、胸の底に沈んでいた「適性なし」という言葉が、音もなく溶けていく。溶けた跡に、何が残るのか、まだ分からなかった。
(……長かった、な)
障害票を八年越しに閉じたような気分だった。原因は、仕様ではなく、測定器の対応範囲外。よくある話だ。よくある話なのに、目の奥が熱くなった。
握りたくなった。この名前を、両手で掴んで、胸に押し込んで、二度と離したくなかった。
掌の入口が、きゅっと狭くなる。
息を吐いた。握らない。置く。
「……はい」
出てきた声は、自分でも驚くほど静かだった。
「それだけか」
「はい。……今は、それだけで。名前を、もらいました。育てるのは、これからなので」
爺さんは、しばらく俺を見ていた。それから、ほんの少しだけ、目尻の皺を深くした。
「ガイが、お前を『落ち着いた子だ』と言っとったが。落ち着いとるのではない。握らんようにしとるだけだな」
「……見抜かれてますね」
「三十年、人を見てきた」
「ねえ」
横で、エルナが小さく手を上げた。
「あたし、前から思ってたことがある」
「何だ」
「アレンの魔素ってさ、触ると、あたしの風がちょっと変わるの。軽くなったり、強くなったり。ずっと不思議だったんだけど」
指を立てて、小さな風を起こした。紙束の端が、ひらりと揺れる。
「いま、アレンのそばで出すと……ほら。曲がり方が、さっきと違う。これって、そういうこと?」
「そういうことだ」
爺さんは頷いた。
「六つの癖を持つ魔素は、近くの癖に呼ばれて、寄る。お前の風が変わるのは、アレンの魔素が、風に寄っとるからだ。お前が『感じる』と言っていたのも、たぶん、同じ根だ」
「へえ……」
エルナは感心したように呟き、それから、なぜかちょっと胸を張った。
「じゃあ、あたし、ずっと特等席にいたんだ」
「何の話だ」
「アレンの、すごいとこ。一番近くで見てた」
返す言葉に困って、俺は視線を逸らした。耳が熱い。
爺さんは何も言わず、咳払いをひとつして、紙束を畳んだ。
爺さんは、少し迷うように顎を撫でた。
「ひとつ、聞いてもいいですか」
俺は、思い切って口を開いた。
「六つ全部、というのは……強いんですか。それとも」
「強い、とは限らん」
返事は、即座だった。
「器が大きいというだけだ。大きな器は、満たすのに時間がかかる。そして、中身が揺れやすい。ひとつの属性を磨いた者は、その属性では、お前より遥かに上手くやるだろう」
「……はい」
「ガイの火を見ただろう。弱い火を十年磨いて、あれほど安定している。お前が六つを同時に扱えるようになるまで、あの安定を六回、積み直すことになる」
六回。
(工数、六倍か)
前世の癖で、口の中で呟いた。見積もりは、いつだって甘く出るものだ。甘く出した見積もりで泣いたことを、体が覚えている。
けれど、不思議と、怖くはなかった。積み直す先に、積む楽しさがある気がした。
「だから、焦るな。……そう言うと、お前は焦らんのだろうがな」
「はい。たぶん」
エルナが小さく噴き出した。
「ここからが、大事な話だ」
爺さんの声が、一段、低くなった。
「ひとつ。今は、今までどおりやれ。六つを同時に動かすのは、体が持たん。大人の熟練者でも、ひとつ操って疲れる。お前の体が耐えられるのは、まだ先だ。焦って手を出せば、壊れる」
「はい」
「ふたつ。この名前は、村の外へ出すな。統合適性の者は、貴重だ。貴重なものは、欲しがる者が現れる。王都にも、学院にも、そういう目をした連中はおる」
爺さんの視線が、一瞬、壁の掛け金に動いた。そこにあったはずの刃こぼれの剣は、今も爺さんの腰にある。
「俺がそうだった。……いや、これは今はいい」
言いかけて、やめた。八話のときと同じだった。また、何かが言いかけて止まった。
「みっつ。ガイとアリスには、俺たちから話す。あの二人は、お前の親だ。知る権利がある」
「父さんは……知っていた、んですよね」
「勘づいとった。名前までは知らん。今日、教える」
父さんが、八年、名前のない温かさを胸に置いていたこと。それを今日、爺さんが、ひとつの言葉にして返す。
父さんがどんな顔をするのか、想像がつかなかった。想像がつかないまま、少し胸が詰まった。
「エルナ」
「は、はい」
「お前も、他言無用だ。破れば、アレンが困る」
「破らない」
エルナは即答した。顎に力が入っている。
「あたし、口は軽いけど、足は止まらないし、約束は破らない」
「理屈になっとらん」
「なってるよ!」
爺さんの口の端が、また、ほんの少し上がった。
帰り道、村へ降りる坂で、エルナは珍しくゆっくり歩いた。
「アレンさ」
「ん」
「怖くない? 急に、そんなすごい名前もらって」
考えてみた。握らずに、置いて、眺める。
「怖いかどうかは、まだ分からない。でも、軽くなった」
「軽く?」
「ずっと、持ってたんだよ。『ない』ってやつを。持ってるのも重かったけど、ないことにされてるのも、重かった」
「……うん」
「その重さが、今日、ひとつ減った。で、代わりに、育てる分の重さが載った。でも、そっちは嫌じゃない」
エルナは立ち止まって、俺の顔を覗き込んだ。茶色い髪が、風に揺れた。
「あたしさ、あんたがすごくても、すごくなくても、追いかけるよ」
「うん」
「でも、すごいほうが、追いかけがいがあるね」
言い方が、あまりにエルナらしくて、俺は笑ってしまった。
「何よ」
「いや。ありがとう」
「どういたしまして!」
走り出した背中を、俺は追いかけた。足運びは、音を消して。風が、すぐ隣を通っていった。
夕飯の席は、いつもと変わらなかった。
母さんが煮込みを取り分け、父さんが黙って食べ、俺は焦がした根菜をこっそり避ける。けれど、母さんの手が、俺の皿に伸びるたび、ほんの少しだけ長く止まった。
父さんは、一度も目を合わせなかった。合わせないまま、食後に、湯呑みを俺の前に置いた。
薬草茶だった。母さんがよく淹れる、少し苦い茶。
「飲め。今日は、いつもより濃い」
「……ありがとう」
飲むと、舌の奥が痺れるほど苦かった。苦いのに、胸の真ん中が、じんわり温かくなった。
夕飯のあと、居間に父さんと母さんが並んで座っていた。
爺さんが訪ねてきたのは、日が落ちてからだった。俺は部屋に戻るよう言われて、戸の隙間から、低い声の気配だけを聞いた。
内容までは分からない。ただ、一度だけ、母さんが息を呑む音がした。それから、長い沈黙。その後、父さんの、短い声が聞こえた。
「……そうか。やはり、そうか」
それだけだった。
布団の中で、掌をかざした。
真ん中が、温かい。握らない、持っているだけの入口だった。
これまでと、何も変わっていない。名前をもらっても、手の温かさは同じだった。強くなったわけでも、魔法が撃てるようになったわけでもない。
今日の発見は、それだった。
名前は、終点ではなかった。八年探していた答えをもらっても、やることは、昨日と同じ。呼吸して、足を運んで、握らずに置く。
ただ、置く先が、わかった。それだけで、世界の見え方が、少しだけ変わっていた。
窓の外で、夜の風が鳴った。
隣の部屋で、母さんの小さな声と、父さんの低い声が、いつまでも続いている。
その音を聞きながら、目を閉じた。
(次回)
第四十四話「秘密の稽古」
名前を知ってから、アレンの稽古は少しだけ変わる。グレンが課す新しい課題は、「六つの癖を、混ぜずに、聴き分けること」。アリスは息子に薬草茶を淹れながら、自分の知らなかった八年を静かに問う。
ここまで長い道のりに付き合ってくださって、本当にありがとうございます。玲鈴です。「適性なし」と言われたアレンが、ようやく自分の名前をもらいました。この回を、読んでくださるあなたと迎えられたことが嬉しいです。
もしよければ、ここまでの感想と、一番好きだった場面を教えてください。ブックマークや評価で応援していただけたら、続きを書く大きな力になります。
次回からは、名前をもらったアレンの新しい稽古が始まります。




