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魔素と俺と、好奇心

 一歳になった。


 なんというか、感慨深い。前世を含めれば三十六歳だが、この身体としては一歳だ。誕生日はこの世界では「生誕祭」と呼ぶらしく、村の人たちが集まって小さな宴会になった。アリスが焼いた丸いパンが甘くておいしかった。


 それより俺が喜んだのは、ようやく立って歩けるようになったことだ。


 ハイハイから直立歩行へ。人類の進化を一人で追体験した気分だが、あれは本当につらかった。何度転んでもくじけない赤子の精神力は、俺の前世のメンタルより強い気がする。


(いや、俺の場合は転んでも悔しいだけだから、案外へこたれないのかもしれないな)


 歩けるようになった俺がまず向かったのは、庭だった。


 外の空気を、全身で感じたかった。


 魔素、という言葉を知ったのは、ガイからだ。


 ある夜、俺がじっと空中を見つめていたら、ガイが気づいた。


「……アレン、何を見てる」


 俺は答えられない。まだ一歳だ。喋れない。「あー」とか「うー」とかしか言えない。


 ガイはしゃがんで俺の目線に合わせた。傷だらけの手が、静かに俺の頭に乗せられた。


「魔素が見えるか」


 その一言で、俺はピンときた。


(これが魔素か! 名前があるんだ)


 俺はぶんぶん頷いた。赤ちゃんらしく体ごと揺らして頷いた。ガイは少し目を細めた。笑顔とも困り顔とも取れる、複雑な表情だった。


「そうか」


 それだけ言って、ガイは立ち上がった。


 多くを語らない人だ。でも、俺にはなんとなく伝わった。この人は魔法に関わった過去を持っていて、それについて複雑な思いがある。それだけのことが、たった一言と一つの表情から滲み出ていた。


(元冒険者、という話だったな)


 アリスとガイの会話を聞き続けた八か月で、それくらいは把握していた。ガイはかつて冒険者だったが、今は農家をしている。理由はまだわからない。


 俺の魔素への好奇心は、もはや趣味を超えていた。


 視えるんだ、これが。


 空気中を漂う細かい粒子のような何か。肉眼で見えるわけではなく、なんというか「感じる」という方が正確だ。意識を向けると、その流れがわかる。木の近くは濃い。雨上がりは多い。人の体内にも流れている。


 特に興味深かったのは、ガイの体だ。


 ガイが畑仕事をしているとき、その体内の魔素が微妙に脈動しているのがわかった。意識的に使っているわけではなさそうだが、体が自然に魔素を循環させている。まるで血液の循環のように、それは規則正しかった。


(体内に取り込んで、循環させる。これが基礎なのか?)


 俺は試みた。


 うまくいくわけがないと半分思いながら、でもやらずにはいられなかった。意識を内側に向ける。体の外から漂ってくる魔素を、皮膚の内側へ引き込むイメージ。


 吸い込む。


 ほんの少し、動いた。


 体の中に何かが入ってきた感覚があった。熱くも冷たくもなく、でも確かに「別の何か」が体内に入った。気持ち悪いわけではない。むしろ、清涼飲料水を飲んだ時のような、さっぱりした感覚があった。


(入った!)


 俺は思わずそのまま転んだ。集中しすぎて足元がおろそかになった。一歳なんだから仕方ない。


 エルナとは毎日のように会った。


 彼女の家と俺の家は隣同士なので、庭に出ればほぼ顔を合わせる。エルナはとにかく活発で、引っ張って、走って、よく転んだ。俺も転んだ。互いに転びながら笑い合う日々だった。


 ある日、エルナが不思議なことをした。


 一緒に庭で遊んでいると、エルナが急に真剣な顔になった。一歳の子供の「真剣な顔」というのは愛嬌があって笑えるのだが、彼女は本当に何かに集中していた。


 そして、彼女の周りで風が吹いた。


 庭に風なんてなかった。穏やかな曇り空で、木の葉も揺れていなかった。でも確かに、エルナの足元から風が生まれた。土埃が少し舞い上がり、エルナの髪がふわりと揺れた。


 エルナはきょとんとした顔で俺を見た。


「いま、なんかした?」


 そう言ってきた。一歳の語彙とは思えない問いかけだったが、子供というのは案外言葉が出るものだ。


 俺は頷いた。


(おまえがやったんだ、すごいな)


 そう伝えたいが言葉がない。俺は精一杯の表情で頷き続けた。エルナはまたきょとんとして、それから笑った。


「えへへ」


 無邪気な笑顔だった。


 この子は、俺より先に魔法を使った。一歳で、自然に。この世界の子供というのは、適性がある属性に感応することがあるらしい。エルナは風の適性を持っているのだろう。


(俺は?)


 わからない。まだ何も発現していない。でも魔素を感じる力はある。それで十分だと思った。今は観察を続ける。


 二歳になると、少し言葉が出るようになった。


「まそ」「かぜ」「おとう」「かあか」「えるな」


 エルナは俺が自分の名前を呼ぶたびに跳ね上がって喜んだ。毎回喜んだ。飽きないやつだと思ったが、それが少し嬉しかった。


 ある夕方、アリスが庭で薬草の世話をしているとき、俺はひとり縁台に座って空を見ていた。夕焼けが赤くて、きれいだった。


 俺は静かに、内側に意識を向けた。


 魔素を取り込む。循環させる。


 できるようになっていた。一か月以上、毎日繰り返したら、気がついたらできていた。子供の身体は意外と素直だった。大人より先入観がない分、感覚を掴みやすいのかもしれない。


 体内を流れる魔素の感触に、俺は目を細めた。


(まだ何もできない。でも、この感覚は確かだ)


 その日の夜、ガイが俺の隣に座った。


 珍しかった。いつもアリスが寝かしつけるのに、今日はガイだった。


「アレン」


 俺は「うん」と言った。


「お前、魔素を循環させているな」


 俺はびくっとした。気づかれていた。


「二歳でそれができる子供を、俺は見たことがない」


 ガイは天井を見上げた。感情のわかりにくい顔だったが、声はわずかに柔らかかった。


「俺は昔、冒険者だった。パーティを組んで、王都の近くまで行ったこともある。でも、もうやめた」


 俺は黙っていた。聞いていた。


「お前にどうしろとは言わない。ただ」


 ガイは俺を見た。


「才能があるのに、もったいないとは思うな。どこへでも行け」


 それだけ言って、ガイは俺の毛布を直して立ち上がった。


(不器用なやつだな、おとう)


 俺はそう思いながら、笑った。


 どこへでも行け、か。


(わかった。行ってやる)


 アレン・ミラー、二歳。


 この世界の魔法の、最初の一歩を踏み出した夜だった。

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