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俺は死んで、やり直すことになった

この作品は、ごく普通の、どこにでもいる会社員が死んで、異世界に転生する話です。

チートな才能も、最初からはありません。記憶と、ちょっとした意地だけが武器です。

のんびり読んでいただけたら嬉しいです。

 死ぬ瞬間というのは、意外と静かだった。


 深夜の会社から出て、タクシーを捕まえようとしていた。十一月の夜気が頬を刺す。コンビニの明かりが眩しかった。次の瞬間、胸の中央に重石を乗せられたような圧迫感が走り、俺──坂本健吾は膝をついた。


 アスファルトが冷たかった。


(あ、これ死ぬな)


 そんなことを、驚くほど冷静に思った。心臓が痛いというよりは、ただ止まろうとしているのがわかった。倒れる直前に、明日のリリース作業をどうするかを考えていた。我ながら呆れる。


 そして、意識が消えた。


 三十五年の人生が終わった。


 気がついたら、俺は泣いていた。


 泣きたいわけではなかった。何が起きているのかを把握しようとしていたのだが、身体が勝手に泣いていた。正確には「鳴いていた」という方が近い。ウギャア、ウギャア、という情けない音が、自分の喉から出ていた。


 視界はぼやけていた。光と影の区別がやっとつく程度で、輪郭が掴めない。


(……何だ、これ)


 頭は動いた。思考はクリアだった。記憶もある。坂本健吾として生きた三十五年間の記憶が、完全に残っていた。だが身体が言うことを聞かない。手を動かそうとしても指先がぷるぷると震えるだけで、力が入らない。足に至っては存在を確認するのが精一杯だった。


 大きな手が俺を持ち上げた。


 温かかった。


「元気な子だ」


 男の声が上から降ってきた。言葉の意味は理解できた。だがイントネーションが微妙に違う。音の高低のパターンが日本語とは異なる。……それでも意味が入ってくるということは、俺の脳がこの言語に対応しているということだ。


(転生、か)


 こうなってくると俺の中の「エンジニアの血」が働き始める。状況を整理しろ。感情は後でいい。まず事実を確認しろ。


 事実その一:俺は死んだ。

 事実その二:俺は今、赤ちゃんだ。

 事実その三:前世の記憶は残っている。

 事実その四:ここは日本ではない。


 以上を総合すると。


(異世界転生、だな)


 俺はもう一度、ウギャアと泣いた。今度はちょっと自分の意志が入っていた。


 最初の数週間は地獄だった。


 赤ちゃんの身体というのは本当に何もできない。意識だけ大人の元社会人が宿っていても、身体は生まれたての人間そのものだ。ミルクを与えられ、おむつを替えられ、一日の大半を眠って過ごすだけの存在。やることが何もない。


 できることは、観察だけだった。


 視界が少しずつ鮮明になってきた生後一か月ほどから、俺は徹底的に周囲を観察した。俺を世話してくれる人間が二人いた。


 一人は、大きな男だ。がっしりした体格で、日焼けした肌と、右頬に古い傷跡がある。短い黒髪。目元は俺に似ている気がした。父親だろう。「ガイ」と呼ばれていた。笑顔が少ないが、俺を抱く手はいつも丁寧だった。


 もう一人は、母親だ。「アリス」と呼ばれる、優しい顔をした女性。茶色の髪と、やわらかい目をしている。薬草の匂いがする。この世界の医療に関わる仕事をしているのかもしれない。


 二人は「アレン」と俺を呼んだ。


(アレン・ミラー、か。俺の名前)


 悪くない名前だと思った。


 家の中を目で観察すると、電気は通っていない。照明はランタンだ。窓の外に見えるのは畑と木々。近世ヨーロッパ風の家屋。まあ、異世界ファンタジーの典型的な風景だった。


 決定的な発見は、生後三か月ごろだった。


 父のガイが夜、窓の外に向かって何か呟いた。その手の平に、ぼんやりと光が灯った。


 炎だった。


 手の平サイズの小さな炎が、数秒間だけ浮かんでいた。ガイはそれを見てため息をついてから、パッと消した。


(魔法だ)


 俺の心拍数が上がった。体の小さい今の俺では、それが全身に伝わった。


 これは本物の魔法だ。単なる手品ではない。周囲の空気が一瞬変質するのを感じた。正確には「感じた」というより「察知した」という方が正しい。赤ちゃんの俺の感覚器官は未熟だが、その変化は確かに知覚できた。何か細かいものが、ガイの掌に集まり、熱を帯びた。


(この世界には、魔法が存在する)


 それだけで、俺の頭は猛烈に動き始めた。


 何が燃料になっているのか。大気中の何かを取り込んでいるのか。それとも体内のエネルギーを変換しているのか。物理現象として説明可能なものなのか、それとも全く異なる理屈で動いているのか。


 エンジニアの習性とは、要するに「仕組みを理解したい」という欲求だ。俺は生後三か月にして、この世界の魔法の解析を始めた。


 生後五か月ごろから、俺は「それ」を感じるようになった。


 最初は気のせいかと思った。だが何度体験しても同じ感覚があった。


 空気の中に、何かある。


 目には見えない。耳にも聞こえない。だが確かに存在する、細かい何かが、俺の周りを漂っている。特に自然の近く──木の傍や、雨が降った後──に、それが多い気がした。


 その「何か」は、ガイが魔法を使った時に動いた。ガイの掌に向かって、流れ込んでいった。


(これが、魔法の燃料か)


 俺は赤ちゃんの体で、意識を集中させた。


 感じる。漂っている。取り込めるか? 俺は意識の焦点を絞り込んだ。まるでプログラムのデバッグ作業に似ていた。一つの変数に注目して、その動きを追う。


 そして──ほんの少しだけ、その「何か」が揺れた。


 俺に反応した。


(これは、いける)


 赤ちゃんの俺は満面の笑みを浮かべたが、誰にもその意味はわからなかっただろう。


 生後八か月。俺はついに、外を見た。


 アリスに抱きかかえられて、家の外に出た。春のような暖かい日差しだった。青い空に白い雲。遠くに山脈が見える。村はこじんまりとしていて、石造りと木造の家が十数軒並んでいる。畑が広がっている。


(田舎だな)


 心の中で笑った。前世でも地方出身だったが、それ以上の田舎だ。


 その時、隣家の庭から声が聞こえた。


「あっ、アリスさん! アレンが外に出てる!」


 元気な声だった。子供の声だ。


 つたない足取りで走ってきたのは、俺と同じくらい小さな女の子だった。まだ一歳前後だろう。赤ちゃんと言ってもいいが、俺よりは少しだけ動けている。茶色い髪がふわふわとして、目は緑色をしていた。


 その子が俺の目の前に来て、顔をのぞき込んだ。


「アレン! わたし、エルナ!」


 自己紹介だった。しかも堂々とした自己紹介だった。


 俺は思わず笑った。笑う、というか、赤ちゃんの俺には笑顔しか表現手段がなかったのだが、それでも心から笑った。


(幼馴染か)


 元社会人の俺には、友達と呼べる存在がほとんどいなかった。仕事仲間はいた。上司も部下もいた。だが「友達」と呼べる人間は、気がつけばいなくなっていた。忙しすぎて、何もかも後回しにしていたから。


 緑の目をした女の子は、俺の手を掴んでぶんぶんと振った。小さな手だった。力が強かった。


「アレン! いっしょに遊ぼ!」


 俺の手が引っ張られた。


 アリスが「まだ歩けないのよ」と笑いながら言った。エルナは「じゃあわたしがひっぱる!」と答えた。


(頼もしいな)


 そんなことを、三十五歳の意識を持った赤ちゃんは思った。


 その夜、俺は天井を見上げながら考えた。


 異世界に転生した。魔法が存在する。前世の記憶がある。


 この先、俺はどう生きるべきか。


 前世では、仕事しかしなかった。それが死ぬ直前まで後悔にならなかったのは、仕事が好きだったからだ。好きだったから走り続けた。そしてその果てに死んだ。


(次は、もっと人間らしく生きろということか)


 自分でも笑えた。


 この世界には魔法がある。そしてどうやら、俺にもその「何か」を感じる素質がある気がする。前世の知識と論理的思考を持ったまま、ゼロから学び直せるなら──。


(悪くないな)


 俺はそう結論した。


 ガイとアリスの子として、田舎の村で生まれ直した。エルナという幼馴染がいる。魔法という未知の学問がある。


 俺の二度目の人生が、静かに始まろうとしていた。


 どうせやるなら、今度こそ、後悔なくやってやる。


 アレン・ミラー、生後八か月。元社会人の本気が、静かに火を点した。

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