灰色の剣
朝から、雨だった。
春の雨は音が細かい。屋根を打つというより、屋根を撫でる。畑には恵みの雨でも、稽古には障りだ。それでも俺は蓑を着て山道を登った。雨で稽古が休みにならないことは、去年の秋にもう学んでいる。場所が小屋の中に変わるだけだ。
エルナは今日は休みだった。弟が熱を出して、母親の手伝いで家に残るらしい。朝、家の前を通りかかったら、二階の窓が開いて「爺さまによろしく!」と怒鳴られた。病人の横であの声量である。あの調子なら、弟はたぶん大丈夫だ。
(欠員一名。今日は俺一人の回か)
小屋に着くと、爺さんは囲炉裏に火を入れていた。
「来たか」
「来ました」
「藁で足を拭け。床を濡らすな」
挨拶は、それで全部だった。
雨の日の稽古は、手入れから始まる。
素振りでささくれた木剣を小刀で削り、油を薄く引く。道具の手入れは体の手入れと同じだ、と爺さんは言う。半年通って、最近ようやく、爺さんの分の道具も任せてもらえるようになった。信用の増え方が目に見える数少ない場面なので、俺はこの作業が割と好きだった。
囲炉裏の火が爆ぜる。屋根の上で雨の音が続く。手だけが動いて、口は動かない。そういう時間も稽古のうちらしい。
「アレン。刃を見ずに削れるか」
「……無理です。見ないと、削りすぎます」
「俺は目を閉じても削れる。手が覚えているからだ。稽古とはそういうものだ。頭が忘れても、手と足が覚えているところまでやる」
削る、という一つの動きの中にも段位があるらしかった。木剣一本にも奥がある。奥があると知ってしまうと、雨の日の退屈な作業が、急に退屈でなくなるから不思議だ。
壁の剣は、今日もそこにあった。
鞘のない、むき出しの刀身。刃はところどころ深く欠けて、全体が灰色に曇っている。この小屋に通い始めた最初の日から、ずっと気になっていた。雨の日に爺さんが昔の話をしてくれたときも、この剣のことだけは、一度も話に出なかった。
木剣を削る手を止めて、聞いてみた。
「爺さん。あの剣は、手入れしないんですか」
爺さんはすぐには答えなかった。削りかけの木片を置いて、囲炉裏の火を一度見て、それから壁を見た。
「……気になるか」
「最初の日から、ずっと」
爺さんは立ち上がって、壁からそれを下ろした。両手だった。実際の重さよりも、ずっと丁寧な手つきに見えた。
「王国剣士団にいた頃の剣だ。三十年、これ一本だった」
囲炉裏の火に、刃がかざされた。近くで見ると、欠けは思ったより深い。欠けの底に、骨のような色の地金が見えている。三十年ぶんの研ぎ減りで、刃の幅そのものも薄くなっていた。
「三十年って……剣士団にいた間、ずっとですか。剣って、そんなに保つものなんですか」
「保たせるんだ。手入れと、当て方でな。いい剣士の剣は長生きする。剣の傷み方を見れば、持ち主の腕は大体わかる」
「じゃあ、その欠け方は──」
言いかけて、やめた。その欠け方は、腕でどうにかなる相手ではなかった、ということになる。三十年保たせた剣が、一度の任務でこうなる。それがどういう相手なのか、七歳の想像力では底が見えなかった。
「最後の任務で、こうなった」
爺さんは、俺が呑み込んだ問いに、半分だけ答える形でそう言った。
「……何と打ち合ったら、そうなるんですか」
「言わん」
即答だった。ただ、突き放す声ではなかった。言わないと決めている、という声だった。
「研げば、直るんですか」
「直る。腕のいい研ぎ師なら、欠けごと落として使える剣に戻す。細くはなるがな」
「なのに、研がない」
「研がん」
爺さんは刃を火にかざしたまま、少しだけ間を置いた。
「前に、後悔はあると言ったな」
「はい。何かは言わない、とも」
「これは、その後悔の置き場だ」
置き場、と俺は胸の中で繰り返した。
(消すんじゃなくて、置いておくのか)
父さんの火を思い出していた。強い火は出せないから、続く火にした。爺さんの剣は、直せるのに、直さない。形は逆だが、同じことをしている気がした。自分の中のいちばん重いものに、ちゃんと置き場を作っている。俺が頭の棚の奥に置いた仮説とは重さが違いすぎるが、しまい方は同じだった。捨てない。ただ、今は使わない。
「いつか全部話す日が来るかもしれん。来んかもしれん。どちらでも、お前の稽古には関係がない」
「はい」
「だが、これだけは覚えておけ」
爺さんは剣を壁に戻しながら言った。
「強くなれば、守れるものが増える。守れるものが増えれば、守り損ねるものも増える。それでも強くなるのかと、自分に聞く日がいつか来る。……その日のために、答えを育てておけ」
春の初めに保留にした問いが、また少しだけ重くなった。なんのために強くなりたいのか。答えはまだ出ていない。ただ、問いの置き場だけは、もう俺の中にある。
昼を過ぎて、雨が上がった。
爺さんは戸を開けて空を確かめると、「庭に出ろ」と言った。
雨上がりの庭は、土が水を含んで鈍く光っていた。踏めば沈む。沈めば残る。稽古の足場としては最悪に見えた。
「歩け。いつもの足運びだ」
「この土で、ですか」
「濡れた土は正直だ。ごまかした一歩は、全部跡に残る」
(足跡が全部、記録として残るわけか。ごまかしの利かない試験だ)
歩いた。一往復目は、ひどいものだった。踏むたびに泥が鳴り、足跡は深く、縁が崩れた。重さを「移して」いる証拠だ。移すな、運べ。半年言われ続けて、まだこれだった。
二往復、三往復。泥の音を聞きながら、少しずつ体を思い出させていった。焦って探しに行かないこと。体の中の糸を、揺らさないこと。父さんの、定規で引いたような一本の糸。あの太さのまま、足の裏まで通す。
四往復目で、泥の音が少し小さくなった。五往復目、足跡の縁が崩れなくなってきた。方向じゃない。深さだ。深さが揃ってきている。乾いた稽古場では見えなかった自分の癖が、泥の上では全部数字みたいに読めた。右足の跡が、いつも左より深い。爺さんに言われる前に、自分で気づけたのは初めてだった。
ふっと、音が消えた。
一歩目。地面と足の裏の間から、音だけが抜け落ちる、あの感覚。いつもなら、そこで終わりだった。「できた」と思った瞬間に糸が揺れて、二歩目はただの一歩に戻る。
今日は、続いた。
確認しに行かなかったからだと思う。雪の日に覚えたやり方で、一歩目を放っておいた。過去になったものを、追いかけなかった。
二歩目も、消えた。
三歩目で、戻った。泥を踏む普通の音が、妙に大きく聞こえた。
振り返ると、濡れた土に俺の足跡が並んでいた。深い跡の列の中に、二つ分だけ、浅い跡があった。形はちゃんと残っているのに、縁が崩れていない。押しつけた跡ではなく、置いた跡だった。
縁側から見ていた爺さんが言った。
「二歩目が、消えたな」
「はい。……初めてです」
「自分で見えていたか」
「見えました。糸を揺らさずにいられたのが、二歩でした」
爺さんは頷いた。褒め言葉はなかった。そのかわり、こう言った。
「三歩を焦るな。二歩できたものは、いずれ十歩できる」
帰り道、泥の山道に自分の足跡を残しながら歩いた。ほとんどは深い跡だった。それでも時々、浅い跡が混じるようになっていた。
エルナの家の前を通ると、また二階の窓が開いた。弟の熱は下がったらしい。今日の稽古の中身を話したら、案の定「ずるい!」と言われた。壁の剣の話は、しなかった。あれは爺さんが、たまたま俺一人の日に見せてくれたものだ。話していいかどうかは、持ち主が決めることだった。
「次の稽古、あたし絶対行くから。……あとさ、もうすぐあんたの生誕祭でしょ。八歳の」
「ん。そういえば、そうだった」
「そういえば、じゃないでしょ。八歳のは、ちゃんとやるんだから」
呆れた声に送られて、家に帰った。夕食の席で、母さんも同じ話をしていた。八歳の生誕祭は、この村では少しだけ特別の扱いらしい。適性を得た子供が、村の一員として一段上がる歳なのだという。適性なしの俺の扱いがどうなるのかは、聞きそびれた。
父さんは黙って芋を食っていたが、生誕祭という言葉のところで、一瞬だけ箸が止まった気がした。
夜、布団の中で、今日を並べた。
灰色の剣。後悔の置き場。二歩続いた、音のしない一歩。
爺さんの問いには、まだ答えられない。ただ、今日わかったことがある。強い人たちはみんな、重いものを捨てずに、置き場を作って持ち歩いている。父さんの火も、爺さんの剣も、たぶん、母さんの薬草の匂いも。
(俺も、そういう持ち方を覚えていくんだろう。前世という、いちばん重い荷物ごと)
窓の外は、また細かい雨に戻っていた。屋根を撫でる音を聞きながら、俺は浅い足跡の感触を、足の裏で思い出していた。
二歩。まだ、たった二歩。
それでも昨日までは、一歩だった。
(次回)
第二十話「八歳と、約束」
アレン、八歳の生誕祭。村の小さな祝いの日、エルナとの間にひとつの約束が生まれる。いつか一緒に、村の外へ。そして爺さんが静かに告げる――「来年から、剣を教える」。第一章、締めくくりの回。
ここまで読んでくださって、ありがとうございます。
第十九話は、爺さんの過去がほんの少しだけ形になる回でした。研げば直る剣を、あえて研がない。強い人ほど、重いものを捨てずに置き場を作って持ち歩いているのだと思います。
次回は第二十話「八歳と、約束」。第一章の締めくくりです。
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