アリスの薬草籠
母さんの朝は、俺の稽古より早い。
夜明け前に起きて、竈に火を入れ、朝食を仕込み、それから薬草の選り分けを始める。角兎の件があってから、村の薬師の婆さんのところには傷薬の注文が増えていて、下ごしらえの大半は、見習いである母さんの仕事になっていた。
その日、俺は稽古が休みで、朝から母さんの籠持ちだった。
「南の丘を回るわよ。東はだめって、父さんに言われているでしょう」
「わかってる」
「言ってみただけ。あなた、顔に『東が気になります』って書いてあるんだもの」
母さんは笑って、俺の首に手ぬぐいを掛けた。籠は背負い式で、俺の背中には少し大きい。それでも持つと言ったのは俺だ。薬草採りに同行する話は、角兎の晩に決まっていた。
(俺の目の使い道が増えるかどうか、今日は検証の日だ)
南の丘は、朝露でまだ濡れていた。
母さんの歩き方は、稽古の山道とは別物だった。速くない。そのかわり、止まる場所が正確だった。何もない草むらに見える場所でしゃがみ、葉を二、三枚めくって、目当ての草だけを摘む。
「これが血止め草。葉の裏に白い筋が三本。似た草で筋が四本のがあるけど、あれは効かないどころか、かぶれるの」
「三本が正、四本が偽物」
「そう。あと、根元から折らないこと。上の三節だけ。そうすれば、ひと月でまた採れるから」
摘み方にまで決まりがあるのか、と思った。獲ったものは食う、と爺さんは言った。母さんの決まりは、それと同じ種類の礼儀に聞こえた。採ったぶんだけ、残す。
俺は言われたとおりに摘みながら、いつもの感覚を、足元に向けてみた。
土の中にも、魔素はあった。
知ってはいた。ただ、これまで真面目に「読んだ」ことはなかった。稽古で使うのは自分の体の中の流れで、外を読むときも、空気中ばかり見ていた。土の中の魔素は、空気中より重くて、遅い。動かない湖の底みたいな層が、地面の下にずっと続いている。
そして、その底は、平らではなかった。
「母さん。血止め草が生えてる場所って、決まってるの」
「婆さま直伝の場所帳があるの。丘の南斜面に三か所、川沿いに二か所。何十年もそこで採ってきたのよ」
「その五か所って、共通点ある?」
「水はけがよくて、朝日が当たって……あとは、婆さまいわく『土のいい場所』ね。土のよさは、見てもわからないけれど」
(見てもわからない。だが、読めばわかるかもしれない)
さっきから、足の裏の下で、土の魔素の濃さが場所によって違うのがわかっていた。血止め草の群生地の真上に立つと、底の層が少しだけ盛り上がる。濃いというより、偏っている。地下水が集まる場所に水脈があるように、土の魔素にも、溜まる筋があるらしかった。
試しに、その筋を追ってみた。
丘を斜めに横切って、場所帳にない方向へ、筋は続いていた。
「母さん、ちょっとだけ寄り道していい?」
「あら。どこへ」
「たぶん、六か所目」
筋の先は、丘の裏手の窪地だった。
倒木が一本横たわっていて、その根の周りだけ、下草の色が濃い。近づいて、葉をめくった。白い筋が、三本。
血止め草だった。それも、場所帳の群生地より株が大きい。窪地いっぱいに、数え切れないほど生えていた。
母さんは、しばらく黙っていた。しゃがんで、葉を確かめて、根元の土を指でつまんで、匂いを嗅いだ。それから俺を見上げた。
「アレン。どうやって見つけたの」
「土の中の魔素に、偏りがあって。血止め草の場所は全部、偏りの上にあったから。筋をたどったら、ここに出た」
嘘はつかなかった。母さん相手に隠す気は、もともとない。魔素が見えることも、風を送れることも、母さんはとっくに知っている。
母さんは、驚き方が静かな人だ。この時も、大声は出さなかった。ただ、俺の頭に手を置いて、ひとこと言った。
「あなたのそれは、傷を治す方にも使えるのねえ」
その言い方が、妙に胸に残った。
(そうか。俺は今まで、この目を『戦う準備』の側でしか数えてなかった)
昼は、窪地の倒木に並んで座って、母さんの握り飯を食べた。
籠はもう半分埋まっていた。傷薬の材料としては上等すぎるほどで、婆さまがどんな顔をするか楽しみだと母さんは笑った。それから、ふっと風の抜けるような間があって、母さんは手を止めた。
「母さんがね、薬師になりたいって思ったの、あなたの父さんのせいなのよ」
「父さんの?」
「まだ夫婦になる前。父さんが冒険者だった頃にね、ひどい怪我をして、この村に運び込まれてきたことがあったの。顔を切って、血だらけで。母さんはその頃、ただの村娘で、何もできなくて」
右頬の古傷の話だ、とすぐにわかった。俺は握り飯を持ったまま、黙って聞いた。
「婆さまが三日三晩つきっきりで治したの。母さんはお湯を沸かして、薬草を潰す係。それだけ。でもね、三日目の朝に父さんの熱が下がったとき、思ったの。ああ、戦えなくても、人はここまで戻せるんだって」
「それで、弟子入りしたの」
「そう。父さんが目を覚ます前にはもう決めてた。……怪我の理由は、聞いてないわ。今もね。父さんが話したくなったら話すでしょ」
母さんはそこで話を畳んで、俺の口の端についた米粒を取った。
(聞いてないのか。あの傷のいきさつは、母さんにも非公開なのか)
ガイ・ミラーという男の沈黙は、思ったより深い。ただ、今日わかったこともある。父さんの傷が、母さんの出発点だったこと。壊れた誰かを戻す仕事を、母さんは自分で選んだこと。
帰り道、籠は行きの倍の重さだった。
肩に食い込む紐の痛みごと、悪くない気分だった。丘を下りながら、母さんは場所帳に六か所目を書き足す算段をしていた。窪地の群生地は当分、村の傷薬を支えるだろう。角兎の件がどう転ぶにせよ、薬は多くて困らない。
「アレン。今日のこと、婆さまには『アレンが見つけた』って言うわね」
「魔素のことも?」
「そこは『鼻が利く子』にしておくわ。……あなたのその力、母さんは詳しくないけれど、たぶん、しまい方も大事だと思うから」
軽い口調のままで、母さんはそう言った。
(公開範囲の設定までしてくれるのか)
薬草の匂いのする母は、俺が思っているより、ずっといろいろ見えている人なのかもしれなかった。
夕食の席で、六か所目の話を聞いたガイは、短く「そうか」と言った。
それだけだったが、芋の煮付けを俺の皿に足したのは、その晩は父さんの方だった。
布団に入って、俺は今日の発見を並べた。
土の魔素には筋がある。筋の上に、薬草は育つ。俺の目は、仕留める半拍を作るためだけの道具じゃない。誰かの傷を戻す側でも、ちゃんと働く。
三歳の夏、熱を出したエルナに涼しい風を送った夜のことを、久しぶりに思い出した。あれが原点だったはずだ。稽古と角兎の日々で、少し忘れかけていた。
(戦う準備と、戻す準備。両方持てるなら、両方持てばいい)
窓の外で、春の夜風が薬草の干し束を揺らしていた。台所には、母さんが明日も選り分ける葉の匂いが残っている。
その匂いの出発点が父さんの傷だったことを、俺はもう知っている。
家の中の地図も、今日、少しだけ広がった。
(次回)
第十八話「父さんの炎」
薪割りと炭焼きの日、アレンは初めて、父の火を間近で見る。大きくない炎を、揺らさず保ち続ける技術。弱いと言われた火の、本当の使い方。そして火を見ていたアレンの中に、ひとつの仮説が生まれる。




