初めての獲物
角兎は、あの日から三度、村の縁に現れた。
一度目は畑の柵の外。二度目は水車小屋の裏。三度目は、村の子供らが遊ぶ原っぱのすぐ近くだった。怪我人は出ていない。だが三度目のあと、大人たちの見回りは夜も回るようになった。ロドに頼んだギルドへの報告は、返事が来るまで早くても半月かかるという話だった。
(外の助けが来るまでは、現場でしのぐしかない、ということだ)
そして稽古の朝、グレン爺さんは俺とエルナを前に立たせて、こう言った。
「次は、お前たちがやれ」
エルナが息を呑んだ。俺も呑んだ。
「俺がそばに立つ。危なくなれば、俺が終わらせる。だが、最初から俺をあてにするな」
「……どうして、あたしたちなんですか」
エルナが聞いた。爺さんは短く答えた。
「いずれ、俺がいない日が来るからだ」
その場で、段取りが決められた。
「エルナ。仕留めるのはお前だ。お前の踏み込みは、もうあの兎に届く」
「はい」
「アレン。お前は当てようとするな。お前の仕事は、兎の足を半拍止めることだ」
「止める……魔素で、ですか」
「お前が風を送れるのは知っている。あれと同じ要領で、形のない圧だけをぶつけろ。倒せなくていい。驚かせて、半拍作れ。エルナはその半拍で入る」
役割が、はっきり分かれていた。仕留める者。止める者。見届ける者。
(要件が明確だ。誰が何をやるか決まっているだけで、こんなに気が楽になるものか)
エルナが俺を見て、少しだけ笑った。
「あんたが止めて、あたしが打つんだって」
「そうなるな」
「初めてだね。二人で組むの」
言われて、気づいた。七か月あまり、同じ稽古場に通っていたのに、俺たちはいつも並んでいるだけで、組んだことは一度もなかった。
三日後の夕方、それは来た。
見張りの大人が角兎を見たと知らせに走り、爺さんは俺とエルナを連れて村の東の縁に立った。畑の柵から少し離れた、丈の低い草地。爺さんは杖を持ったまま、俺たちの三歩後ろに下がった。三歩は、遠かった。守られている距離ではなく、任されている距離だった。
茂みが、揺れた。
灰色の体。斜めに生えた角。赤い目。あの日と同じ、痩せた角兎だった。
心臓がすぐに速くなった。体の中の魔素が、心拍につられて乱れかける。俺は雪の日に覚えたやり方で、それを放っておいた。探さない。確認しない。もとからある流れに、戻ってもらう。
隣で、エルナの呼吸が変わるのがわかった。速く、浅く。木剣を握る手の甲が白い。
「エルナ」
小声で呼んだ。
「稽古と同じだ。走って、打つだけ」
「……うん」
返事の声は小さかった。ただ、握り直した木剣の先は、もう揺れていなかった。
角兎が、前脚で地面を掻いた。
エルナが出た。速かった。速すぎた。
焦りの乗った踏み込みは、いつもの踏み込みより硬くて、音がした。角兎は音に跳ねて、横へ飛んだ。俺は慌てて魔素を放った。圧は兎のいた場所を通り過ぎて、草だけを揺らした。
(外した。動いてから撃ったんじゃ、遅い)
エルナの二の太刀も空を切った。角兎は距離を取り直して、赤い目でこちらを睨んだ。逃げない。やはり、逃げない。
爺さんは、動かなかった。声だけが飛んだ。
「慌てるな。獲物は一つ。お前たちは二人だ」
二人だ、の一言が、妙に腹に落ちた。
俺は思い出していた。エルナとの七本目を。見えたものは、もう過去だ。動いてから追いかけても、間に合わない。なら――先に、置いておけばいい。
「エルナ。もう一回、まっすぐ行けるか」
「行けるけど、また跳ばれるよ」
「跳ばせていい。跳んだ先に、俺が置いとく」
エルナは一瞬だけ俺の顔を見て、頷いた。説明は、それ以上要らなかった。組むというのはこういうことか、と思った。
エルナが構え直した。角兎の赤い目が、エルナに集まった。
その間に、俺は魔素を練った。放つのではなく、置く。兎の逃げ道は、さっきの一度で見えている。エルナがまっすぐ来れば、こいつは右の茂みへ跳ぶ。
エルナが出た。
今度の踏み込みは、静かだった。乾いた地面の上を、風が低く走った。
角兎が跳んだ。右へ。
そこに、俺の圧があった。
見えない壁にぶつかったように、灰色の体が空中でわずかに詰まった。半拍。作れたのは本当にそれだけだった。
その半拍の中に、エルナがいた。
風が鳴った。踏み込みに乗った木剣が角兎の首筋に入り、乾いた音がして、灰色の体は草の上に落ちた。二度跳ねて、それきり動かなくなった。
静かだった。
エルナは振り抜いた姿勢のまま、動かない角兎を見下ろしていた。肩だけが上下していた。
「……死んだ?」
「死んだ」
自分の声が、思ったより平らに出た。平らに出たことに、あとから驚いた。前世を入れても、命を獲る場に立ったのはこれが初めてだ。怖くないわけがない。ただ、怖さより先に、ちゃんと終わらせられてよかった、という気持ちの方が立っていた。
爺さんが歩いてきて、片膝をついて検分し、短く言った。
「いい一撃だ。苦しませていない」
それから爺さんは、俺たちを順に見た。
「アレン。二度目の圧は、なぜ当たった」
「跳ぶ先が、わかっていたので。追いかけるのをやめて、先に置きました」
「エルナ。二度目の踏み込みは、なぜ静かだった」
「……アレンが置いてくれるって、わかってたから。あたしは走るだけでいいって」
爺さんは少し間を置いて、頷いた。
「忘れるな。一人でやれることを増やすのが稽古だ。だが、二人でしかやれんことは、稽古の外で見つかる」
帰り際、爺さんは角兎を担ぎ上げて言った。
「これは食う。獲ったものは食う。それが、獲った側の礼儀だ」
角兎の肉は、思ったよりまともな味がした。
ガイが淡々と捌き、アリスが香草を効かせて煮た。エルナも呼ばれて、その晩は四人と一人分の食卓になった。エルナは最初、匙が進まなかった。アリスに「あなたが獲ってくれたのよ。ちゃんと食べてあげて」と言われてから、ようやく食べた。食べ終わる頃には、いつもの顔に戻っていた。
「次も、あたしが仕留めるから」
「次があるのか」
「あるでしょ、たぶん。……ない方がいいけど」
最後だけ小さい声だった。強がりと本音の配分が、エルナらしかった。
寝る前、俺は台所で、アリスが薬草を束ねているのを見た。角兎の件があってから、傷薬の注文が増えているらしい。明日から森の手前の群生地を回るのだと言う。
「アレンも来る? あなたの魔素の目、薬草探しにも役に立つと思うのだけど」
母は、こともなげにそう言った。
(俺の目の使い道が、また一つ増えるかもしれない)
布団に入って、今日の半拍を思い返した。
俺の圧は、兎を倒していない。倒したのはエルナの一撃だ。それでいい、と思っている自分がいた。俺の魔素は道を作り、エルナはその道を走った。一人の完成形はあの日の爺さんに見た。二人の形は、今日初めて、自分たちの手で作った。
(担当が分かれているのに、成果物は一つ。前世で言う、いい仕事の条件だ)
初めての獲物は、腹の中で、明日の力になる。
窓の外の東の森は、今夜も黙っていた。まだ、終わりではない。それでも今日のところは、半拍分だけ、前に出た。
(次回)
第十七話「アリスの薬草籠」
薬草採りに同行することになったアレン。土の魔素の偏りを追ううちに、誰も知らない群生地を見つけてしまう。籠いっぱいの薬草と、薬師見習いの母がこの仕事を選んだ、小さな理由の話。




