東の森の異変
気づいたのは、稽古に向かう山道の途中だった。
夜明け前の空気の中で、いつものように魔素を感じながら歩いていた。木の近くは濃く、開けた場所は薄い。七年半かけて体に馴染んだ、この山の「いつもの濃度」がある。
その朝は、違った。
東側だけ、流れが速かった。
濃い薄いではない。速さだった。普段の魔素は、湖の水面みたいにゆったり漂っている。それが東の方角だけ、川になっていた。ゆるい川だが、確かに流れている。どこかへ向かって。あるいは、どこかから押されて。
俺は足を止めて、しばらくそれを感じていた。
(計測器があれば数字にできるのに)
ないものねだりだった。この世界の計測器は、俺の体だけだ。
稽古場に着いて、俺は最初にそれを報告した。
「爺さん。東の魔素が、流れてます」
グレン爺さんは、岩に腰掛けたまま俺を見た。
「流れている、とは」
「いつもは漂ってるだけなのに、今朝は東側だけ、ゆっくり動いてます。川みたいに」
「いつからだ」
「気づいたのは今朝です。でも──」
俺は少し考えた。正確に言うべきだった。
「三日前から、少し変な感じはありました。今朝ほどはっきりじゃなかったので、気のせいにしてました」
爺さんは、笑わなかった。
茶化しもしなかった。黙って立ち上がり、東の空を見た。長いこと見ていた。それから言った。
「気づいたことを、軽く見るな」
「はい」
「『気のせい』は、便利な言葉だ。考えなくて済む。だが、お前のそれは道具だ。道具が鳴ったら、鳴った理由を考えろ」
(警報を握りつぶすな、ということだ。まったくもって、正論だった)
前世の障害対応で、何度も見た光景だった。小さなアラートを「よくあるやつ」で流して、三日後に大きく燃える。あの朝のアラートを拾っていれば、と会議室で頭を下げる誰か。俺はもう、あの誰かになりたくなかった。
「今日の稽古は、短くする」
爺さんはそう言って、俺とエルナに素振りだけをやらせた。自分はその間、何度か東を見た。
エルナが小声で聞いてきた。
「なんかあったの?」
「東の森の魔素が変。市の日にロドさんが言ってた話、覚えてるか」
「角兎が増えてるってやつ?」
「うん。関係あるかはわからないけど」
エルナは素振りの手を止めずに、ふうん、と言った。それから、少しだけ真面目な声になった。
「あたしも今朝、ちょっとだけ思った。風の匂いがいつもと違うって。気のせいだと思ってたけど」
(エルナも拾っていた。感じ方は違うが、同じ何かを)
二つの独立した計測器が、同じ方向を指している。誤検知の線は、薄くなった。
稽古の帰り道だった。
いつもの下り道ではなく、爺さんは東寄りの道を選んだ。「送っていく」と言ったが、送るだけの道順ではなかった。確かめに行く道順だった。俺とエルナは黙ってついて歩いた。
村の東外れ、森の縁に出る手前で、爺さんの足が止まった。
「止まれ」
声は静かだった。静かなまま、重かった。
俺は止まった。エルナも止まった。
森の縁の茂みが、揺れた。
出てきたのは、兎だった。
ただし、大きかった。中型犬くらいある。毛は灰色がかっていて、額から短い角が一本、斜めに生えていた。目が赤い。草食の目ではなかった。
(角兎)
初めて見た。話に聞くのと、目の前にいるのとでは、情報量がまるで違った。心臓が速くなるのが自分でわかった。体の中の魔素が、心拍につられて乱れた。
角兎はこちらに気づいて、前脚を掻いた。
威嚇だった。逃げる素振りがなかった。ロドの言葉を思い出した。魔物の中で一番弱い。弱いが、増える時は──。
「動くな。二人とも、息だけしていろ」
爺さんが、半歩前に出た。
その半歩は、音がしなかった。
角兎が跳んだ。
速かった。エルナの踏み込みより速いものを、俺は初めて見た。灰色の弾丸が地面すれすれを一直線に、爺さんの膝を狙って飛んだ。
爺さんは、杖を持ち上げもしなかったように見えた。
見えたのは、結果だけだった。
乾いた音がひとつ。角兎は地面に落ちて、動かなくなっていた。杖の先が、いつのまにか振り抜かれた位置にあった。始まりと終わりだけがあって、途中がなかった。
(──今の、体の中)
俺は見ていた。目ではなく、いつもの感覚で。杖が動くその一瞬だけ、爺さんの体の中の魔素が、足から背中へ、背中から腕へ、一本の線になって通った。無駄な枝分かれが、ひとつもなかった。俺が七か月かけて「一歩」でやっと出せたものを、この人は呼吸のように使った。
これが、灰の剣聖。
三十年、数字が低いまま生き残った人の、生き残り方だった。
爺さんは角兎を検分して、短く言った。
「痩せている」
「痩せてる……ですか」
「食うものが森にない、ということだ。だから縁まで出てくる」
エルナが恐る恐る覗き込んだ。
「森の中で、何かがこの子たちのご飯を食べちゃってるってこと?」
「か、この兎どもの住む場所を、何かが奪ったか」
爺さんは立ち上がって、森の奥を見た。
「どちらにせよ、森の奥の話だ。お前たちが入る場所じゃない。──いいな」
最後の一言は、俺に向いていた。俺の性分は、もう見抜かれているらしかった。
「入りません」
「入るなよ」
「入りません」
二度言わされた。信用の残高が知れた。
村に戻ると、爺さんはそのまま俺の家に寄って、ガイと短く話した。戸口で二言三言、それだけだった。ガイは頷いて、爺さんは山へ帰っていった。
夕食の席で、ガイが言った。
「しばらく、東の森に近づくな。稽古の行き帰りも、いつもの道を使え」
「うん」
「エルナにも言っておけ」
「もう知ってる。一緒にいたから」
ガイは少し眉を動かして、それから何も言わなかった。アリスが「物騒ねえ」と言いながら、俺の皿にまた芋を足した。心配の量が、芋の量に出る母だった。
夜、布団の中で、俺は今日の三つを並べた。
魔素の流れ。痩せた角兎。爺さんの一撃。
三つ目だけ、種類が違った。あれは異変ではなく、答えの方だった。体の中の魔素を、一本の線で通す。あの完成形を見てしまった以上、俺の稽古は今日から意味が変わる。目指す場所に、初めて実物の座標が入った。
(そして、異変の方は、まだ始まりだ)
警報は鳴った。大人たちは動き始めた。子供の俺にできることは、道具の精度を上げておくことだけだ。
東の窓の外で、森は黙っていた。
黙っている、ということまで、今夜は情報に思えた。
いつも読んでくださって、ありがとうございます。
十五話にして、ようやく「魔物」が画面に出てきました。とはいえ本作はのんびり成長譚なので、いきなり戦争は始まりません。アレンの計測器としての目と、爺さんの「途中のない一撃」を書けたのが、今回のお気に入りです。
森の奥に何がいるのかは、もう少し先で。感想・評価、いつも励みになっています。よければ一言だけでも。
(次回)
第十六話「初めての獲物」
角兎はその後も、村の縁に現れた。グレン爺さんは決めた。「次は、お前たちがやれ」。初めての実戦訓練。エルナの風と、アレンの見えない手。子供二人の役割分担が、そこで生まれる。




