村の外から来た男
ミレス村には、月に一度だけ「市」が立つ。
と言っても、広場に台がいくつか並ぶだけの小さなものだ。村人同士が野菜や卵や編み物を交換して、たまに隣村から誰かが来る。それだけの市だった。
その日は、違った。
朝から村の子供たちが騒いでいた。広場に、見たことのない幌馬車が停まっていたからだ。
「行商人だって!」
エルナが俺の家まで走ってきて、そのまま俺の腕を引いた。稽古が休みの日で助かった。エルナの引く力は、この一年でまた強くなっていた。
行商人は、ロドと名乗った。
三十代半ばくらいの、よく日に焼けた男だった。細身だが、荷を担ぐ腕は太い。喋りは軽く、目は軽くなかった。広げた敷物の上に、村では見ない品物が並んでいた。
金属の調理器具。ガラスの小瓶。染料。砥石。紙。
(紙だ)
俺は思わず一歩、寄った。この村で紙はほとんど見ない。記録はだいたい木の板か、教会の帳面だ。前世で毎日浴びるほど文字に囲まれていた人間としては、紙の束というのは、それだけで少し落ち着かない気持ちになる。
「坊主、紙が気になるか」
ロドが目ざとく言った。
「王都の職人が漉いたやつだ。字を書くなら一番いい。まあ、この村じゃ売れんがね」
「王都から来たんですか」
「王都からってわけじゃない。あちこち回って、その中に王都もある。シルバークロスな」
シルバークロス。王都の名前。設定上の知識としては知っていた。誰かの口から音として聞いたのは、初めてだった。
昼を過ぎると、市は村の社交場になった。
大人たちはロドを囲んで、外の話を聞きたがった。ロドも慣れたもので、茶を一杯もらうたびに、話をひとつ置いていく。俺とエルナは、樽の陰に座ってそれを聞いていた。
「王都はいま、景気がいい。冒険者ギルドの本部が改築されてな。依頼の板が三枚から五枚に増えた」
「ギルドって、誰でも入れるの?」
子供の誰かが聞いた。
「十二からだ。登録すりゃFランクの札をもらえる。そっから上がってくのさ。E、D、C……Bまで行けば食っていける。Aなら人に自慢できる。Sは──まあ、生きてる伝説ってやつだ」
(Sランク)
俺は樽の陰で、少しだけ爺さんの顔を思い浮かべた。この村の山の上に、その「生きてる伝説」だった人が座って茶を飲んでいることを、ロドは知らないだろう。
「魔物って、ほんとにいるの?」
別の子供が聞いた。ロドは笑って、それから少しだけ声を落とした。
「いるさ。だが、こんな辺境の村までは滅多に来ん。街道筋には兵も出てる。安心しな」
そこで、ロドは付け足した。
「──ただ、東の森はちっと妙だな」
東の森、という言葉に、大人たちの空気が少し変わった。
ミレス村の東には、深い森がある。村人は薪拾いと山菜採りで浅いところまでしか入らない。奥は昔から「入るな」と言われている場所だった。
「妙って、何がだい」
「角兎が増えてる。この街道を来る途中、三度見た。普段は一度も見やしないのに」
「角兎なんて、獣だろう。魔物のうちに入るのかい」
「入るさ。魔素を食う獣は全部魔物だ。角兎は魔物の中で一番弱い。弱いが──」
ロドは茶を飲み干した。
「弱いのが増える時ってのは、だいたい、弱いのを食ってた強いのが、別の何かに場所を取られてる時だ」
大人たちは笑い話にして流した。ロドもそれ以上は言わず、染料の売り込みに戻った。
俺は、流せなかった。
(生態系の玉突き。上流で何かが変わると、下流に数字で出る)
前世で、システムの障害はいつもそうやって見つかった。誰も見ていない上流の変更が、関係なさそうな下流の数値を揺らす。数値の揺れは、原因より先に届く警報だった。
夕方、市が終わる頃、意外なものを見た。
ロドが幌馬車の陰で、父と話していた。
ガイは腕を組んで、ロドの話を聞いていた。世間話の距離ではなかった。二人の間には、初対面の人間同士にはない省略があった。言葉が少ないのに、話が進んでいる。そういう間合いだった。
ロドが何かを言い、ガイが短く答え、ロドが笑って、それから真顔になって頷いた。
最後にガイが言った一言だけ、風向きの加減で聞こえた。
「──森の件、ギルドに上げておいてくれ」
ロドは片手を上げて応えた。
(父さんは、ロドを知っている。そしてギルドに「上げる」経路も知っている)
元冒険者だとは聞いていた。だが、引退した農夫の口から出る言葉としては、ずいぶん現役の匂いがした。
夜、夕食の席で、俺は聞いてみた。
「ロドさんと、知り合いなの」
ガイの箸が、一瞬だけ止まった。
「昔な」
「冒険者のころ?」
「そうだ」
「東の森の話、してた」
ガイは俺を見た。怒っている目ではなかった。測っている目だった。どこまで話すかを測る、大人の目。
「角兎が増えてるらしい。念のため、ギルドに報告してもらう。それだけだ」
「それだけ?」
「今はな」
アリスが「はい、この話はおしまい」と言って、俺の皿に芋を足した。話を切るのが上手い母だった。
布団に入ってから、俺は今日一日を整理した。
王都。ギルド。ランク。紙。外の世界には、この村にない仕組みがたくさんある。十二歳になれば、ギルドに登録できる。あと四年ちょっとだ。
そして、東の森。
(角兎が増えている。父さんはそれを「報告する」と判断した。笑い話にしなかった大人が、少なくとも一人いる)
窓の外で、春の風が木を揺らしていた。東の森は、ここから見えない。見えないものの気配を、俺は初めて意識した。
世界の地図が、少しだけ広がった日だった。
広がった地図の端に、小さく、影が差していた。
(次回)
第十五話「東の森の異変」
稽古の朝、アレンは山の魔素の流れがいつもと違うことに気づく。グレン爺さんに伝えると、老剣士は笑わなかった。「気づいたことを、軽く見るな」。そして稽古の帰り道、三人は初めて、それと出会う。




