初めての一本
春の山は、音が増える。
雪の下で黙っていた沢が喋り始め、鳥が戻り、朝の稽古場にも土の匂いが立つようになった。俺は相変わらず、立って、歩いて、魔素を感じていた。三つのことを七か月続けて、ようやく三つが一つになりかけている。そんな時期だった。
その朝、グレン爺さんは岩の上にいなかった。
開けた場所の真ん中に立って、木剣を二本、地面に突き立てていた。
「今日は打ち合え」
俺とエルナは、顔を見合わせた。
木剣は使い込まれていた。柄の部分だけ色が濃くなっていて、誰かが長く握った跡があった。爺さんが作ったのか、爺さんの弟子が使ったのか。聞ける空気ではなかった。
「一本先取。当てるのは胴と肩だけ。頭と顔は狙うな。狙ったら、その場で終わりだ」
「はい」
「はい!」
エルナの返事の方が大きかった。木剣を受け取った時から、目の色が変わっていた。楽しみで仕方がない、という顔だった。俺は正直、そこまでの気持ちになれなかった。
(勝てる要素が見当たらない)
エルナは村一番の速さを持っていて、この七か月、走り込みと素振りを重ねてきた。俺がやってきたのは立つことと歩くことだ。要件が違いすぎる。徒競走の練習をしてきた人間と、姿勢矯正をしてきた人間が、いきなり試合をする。そういう構図だった。
「構え」
爺さんの声で、俺たちは向かい合った。
一本目は、何が起きたのかわからなかった。
エルナの姿が右にぶれた、と思った瞬間、左の肩に軽い衝撃が来ていた。
「一本」
爺さんが言った。エルナが木剣を引いて、にっと笑った。
「アレン、いま見えてなかったでしょ」
「見えてなかった」
「素直だね」
二本目は、少し見えた。見えただけだった。エルナの踏み込みが速すぎて、俺の木剣は空気を守った。胴に一本。
三本目。今度は考えた。エルナは初動で右に振ってから左に来る癖がある。二本ともそうだった。だから左を待った。
エルナは、まっすぐ来た。
胴に一本。
(読みを外された、というより、読んでいる間に来た)
前世の感覚で言うなら、処理速度の問題だった。俺の分析は間違っていない。ただ、分析が終わる頃には入力が変わっている。設計は正しくても、実行時間が要件を満たしていない。リアルタイム処理に、俺の頭は向いていなかった。
四本目の前に、爺さんが口を開いた。
「アレン。お前は見てから動いている」
「見ないと動けません」
「見えたものは、もう過去だ」
(過去のデータで現在を打とうとしている、ということか。それは確かに、間に合わない)
「では、どうすれば」
「考えるな、とは言わん。お前は考える生き物だ。だが、考えは足に置いておけ」
「足に」
「頭で考えて、頭で動くな。考えたことは、稽古の中で足に沈めてある。信じて、任せろ」
わかるような、わからないような話だった。ただ、七か月前に聞いていたら全くわからなかっただろうことは、わかった。
四本目、五本目、六本目。
全部エルナが取った。
それでも、少しずつ変わっていくものがあった。四本目、俺は初めてエルナの初動に反応できた。五本目、木剣同士が初めて当たった。乾いた音が山に響いて、エルナの目が少し見開かれた。六本目、俺は半歩、前に出られた。
負け続けているのに、手応えは増えていた。
(進捗はある。勝敗という指標に出ないだけで)
エルナは、六本目が終わった時には笑っていなかった。真剣な顔で木剣を構え直していた。遊びの顔が消えて、稽古の顔になっていた。それは、俺が相手として数えられ始めた、ということでもあった。
「次で最後にする」
爺さんが言った。
「日が高くなる。七本目」
七本目の前に、俺は一度、目を閉じた。
息を、腹に入れた。
考えるのをやめようとして、やめられなくて、そのことも含めて放っておいた。雪の三日間で覚えたやり方だった。探しに行かない。確認しに行かない。もとからそこにあるものに、気づくだけ。
体の中を、魔素が流れていた。
いつも通り、背中から、腰へ、足へ。
目を開けた。
エルナが来た。
速かった。今日一番速かった。右にぶれて、まっすぐ来る。見えていた。見えたものは過去だ。だから俺は見た結果を待たずに、足を出した。
運ぶ。押すんじゃない。乗せる。
音がしなかった。
俺の一歩は、自分でも驚くほど静かに前へ出て、エルナの剣筋の内側に入った。世界がゆっくりになった、わけではない。ただ、足が地面に乗る感触と、背中からの流れと、木剣を持つ手が、初めて同じ拍子の上にいた。
俺の木剣が、エルナの袖をかすめた。
その半瞬あと、エルナの木剣が俺の胴に当たった。
「一本。エルナ」
爺さんの声がした。
七本目も、負けた。
「今のだ」
爺さんは、そう続けた。
「アレン。今の一歩を覚えておけ。当たらなかったことは忘れていい」
「……はい」
「エルナ」
「はい」
「最後の一本、なぜ当てられた」
エルナは少し考えてから、答えた。
「わかんないです。体が勝手に」
「それでいい。だが、袖を取られたことは忘れるな。次はもっと深く入られる」
「はい」
爺さんは木剣を回収して、いつもの岩に戻った。
「今日は終わりだ。二人とも、水を飲め」
帰り道、エルナは珍しく静かだった。
山道を半分ほど下りたところで、ようやく口を開いた。
「最後の、あれ」
「うん」
「風みたいだった」
前にも言われた言葉だった。稽古の途中で俺の魔素の流れを感じた時、エルナは同じことを言った。
「怖かった、ちょっとだけ」
「怖い?」
「袖、触られたとき。あ、届くんだ、って思った。今まで、届かれる気がしてなかったから」
エルナはそこで、いつもの顔に戻って笑った。
「でも七本ぜんぶ、あたしの勝ちだからね」
「知ってる」
「次も勝つから」
「次は袖じゃ済まさない」
言ってから、少し驚いた。そういう言葉が自分から出るとは思っていなかった。エルナは目を丸くして、それから声を出して笑った。
「言うようになったじゃん」
夜、布団の中で、俺は七本目の一歩を思い返した。
考えを足に置く。信じて任せる。爺さんの言葉は、まだ半分もわかっていない。ただ、あの一歩の瞬間、俺は確かに何も考えていなかった。七か月分の稽古が、俺の代わりに動いた。
(書いたコードが、手を離れて動く瞬間に似ていた)
設計して、書いて、テストして、あとは実行を見守る。実行中に手を入れることはできない。信じられるものを、実行の前にどれだけ積んだか。それだけが結果に出る。
負けた。七本、全部負けた。
なのに、天井を見ている俺は、少し笑っていた。
(一本、取りたいな)
勝敗という指標が、初めて自分のものになった夜だった。
(次回)
第十四話「村の外から来た男」
春の市の日、ミレス村に行商人がやってきた。荷馬車には見たことのない道具と、外の世界の匂い。王都、ギルド、そして「東の森で角兎が増えている」という噂話。アレンの世界の地図が、少しだけ広がる。




