春の兆しと、問い
雪が解け始めたのは、三月の終わりだった。
最初は気のせいかと思った。山道の端の雪が、前日よりわずかに引いている。踏んでみると、固さが違う。足がずぶりと入る場所がある。霜の音が変わった。ざ、ではなく、ぐ、になった。
春の始まりというのは、なくなるものの話から始まる。
爺さんは何も言わなかった。いつも通り来いと言い、いつも通り稽古をした。
その日の稽古は、ひとつのことを繰り返すだけだった。
魔素を体の末端まで送る練習。指先まで、足の爪先まで、意識を行き渡らせる。聞こえるものを全部聞こえたままにして、見えるものを全部見えたままにして、その上で内側に集中する。外を遮断するのではなく、外を含んだまま内側に向く。それが今、俺にとって最も難しいことだった。
エルナは隣でやはり体を動かしていた。最近は剣の素振りが増えた。爺さんが何かを教えているのかどうか、俺にはわからない。エルナは聞かれなければ話さない。
「あんた最近、むずかしい顔してる」
エルナが素振りを止めずに言った。
「そうか」
「なんか考えてんでしょ」
「稽古中だから」
「違う顔」
(外から見てわかるほど顔に出ているのか)
それは少し困った。感情が顔に出るのは前世でも苦手だった。出ていないつもりで出ている、というのは昔からだった気がする。
「稽古に集中しろ」
「してるよ」
エルナは素振りを続けた。俺も目を閉じた。
昼の休憩に、爺さんが水を飲んでいた。
岩に背を預けて、遠くを見ていた。山の向こうの空だった。曇りだが、白い薄い雲で、嫌な天気ではなかった。
「お前に、ひとつ聞く」
突然だった。爺さんはこういう入り方をすることがある。前置きなしに、核心から入る。
「なんですか」
「なんのために、強くなりたい」
俺は答えなかった。
答えられなかった、というのが正しい。
「……」
爺さんは追わなかった。水を飲んで、岩に目を戻した。
「考えておけ」
それだけだった。
稽古が終わって、山を下りながら、俺はその問いを繰り返した。
なんのために、強くなりたいのか。
前世のシステムエンジニアとしての癖が出た。問いを分解しようとした。「強くなる」とは何か。「なりたい」という動機の源は何か。「ために」は目的を問うているのか手段を問うているのか。
分解すると、逆に答えが遠くなった。
(これは要件定義が難しいやつだ)
仕様書に書けない要件というのがある。「使いやすいシステム」とか「安心して使えるもの」とか。言葉にはなるが、定義ができない。測定できない。何をもって達成とするかわからない。
今の問いは、それに似ていた。
翌日も、問いは残った。
家で朝飯を食べながら考えた。山道を歩きながら考えた。稽古をしながら、頭の端っこで考え続けた。
思いついた答えをいくつか並べた。
——生き残るため。
それは事実だが、理由としては弱い。生きるためだけなら、強くなる必要はそれほどない。ミレス村で農夫として生きることもできる。父のガイはそうしている。
——エルナを守るため。
エルナのことは大切だと思う。ただ、それが動機かと言われると、少し違う気がした。エルナは守られることを望んでいるかどうかもわからない。今の稽古はエルナ自身が選んでいる。
——自分の力を知りたいから。
これは少し近い気がした。前世から引き継いだ記憶の中に、「ちゃんと終わらせられなかった」という感覚がある。仕事も、人との関係も、何かを成し遂げる前に終わった。だから今度は、何かをちゃんと見届けたい。自分がどこまでいけるかを、ちゃんと見たい。
(でもそれも、全部ではない気がする)
二日目の夕方、爺さんに呼ばれた。
「考えたか」
「考えました。まだ答えが出ていません」
「そうか」
爺さんは岩に腰を下ろした。俺も隣に座った。
「出なくていい、今は」
「え」
「問いというのは、持ち続けるものだ。答えが出たら終わりじゃない。答えが変わる。変わり続ける」
「ということは、答えを探すのが目的ではなくて」
「持っていること、が大事なんだ」
(問いを、持つ)
俺はその言い方を、少しの間、頭の中で転がした。
エンジニアの仕事で、似たことがあった気がする。
プロジェクトの初期に、「このシステムは何のために作るのか」という問いを持ち続けているかどうか、それが長期的な品質に関わる。最初に考えたことを途中で忘れると、どこかでずれていく。問いを持ち続けていると、判断の根拠が変わらない。
同じことを、爺さんは別の文脈で言っているのかもしれない。
「強くなる理由がはっきりしているやつは、折れやすい」
爺さんが続けた。
「なぜですか」
「理由が達成されたとき、あるいは理由がなくなったとき、止まる。理由のためにやっていたから、理由がなければ前に進めない」
「答えがない方が、続く?」
「問いがある、という方が正確だ。問いがあるうちは、進む理由がある」
俺は黙って聞いた。
爺さんはそこで止まって、また遠くを見た。雪解けの山に、夕方の光が斜めに当たっていた。白い場所と、土が出てきた場所が、まだら模様を作っていた。
「お前は、自分のことをよく考えるだろう」
「そうかもしれません」
「頭で理解しようとする。それは悪くない。ただ、考えた結果をそのまま信じすぎるな」
「どういう意味ですか」
「考えた答えは、今の自分が出せる答えだ。半年後の自分は、違うことを思うかもしれない。正しいかどうかより、問い続けているかどうかを大事にしろ」
帰り道、エルナが隣にいた。
珍しく黙っていた。山道を並んで歩いて、しばらく何も言わなかった。
「なんか爺さんに言われた?」
「ちょっとな」
「むずかしい話?」
「むずかしいというか……定義できない話」
エルナは「ふーん」と言って、道の横の雪を踏んだ。ぐ、という音がした。
「あたしはね」
「うん」
「強くなりたい理由、あるよ。あんたを追いかけたいから」
俺は少し、止まった。
「追いかける?」
「あんたはたぶん、遠くまで行くでしょ。見えなくなる前に、ついていきたい」
(それは、どういう意味の追いかけ方だ)
聞こうとしたが、エルナはもう走り始めていた。
「先に帰る!」
「おい」
返事はなかった。背中が遠くなった。
俺は残った道を一人で歩いた。
エルナの言葉は、頭の中で少し変な形で残った。
追いかける、という言い方が、理由として成立しているのかどうか、うまく判断できなかった。でも、不思議とそれは、俺が並べた答えのどれよりも、まともな気がした。
自分のためではなく、誰かとの距離を理由にする。それは合理的な根拠ではないが、折れにくい気がした。爺さんの言っていた「理由がなくなると止まる」には、なりにくい。追いかける相手が動き続けている限り、こちらも動き続けることになる。
(なるほど、とは言えないが、何かそういうことがある気がする)
家が見えてきた。窓に明かりが入っていた。
夜、布団に入って、今日の問いをもう一度確認した。
なんのために、強くなりたいのか。
まだ答えは出ていなかった。
ただ、問いの質感が、昨日と少し変わった気がした。昨日は重かった。今日は、少し軽い。重さの種類が変わった、と言う方が正確かもしれない。
(問いを持つ、か)
システムエンジニアとして十二年働いて、答えのない問いとはたくさん向き合ってきた。なぜこの機能が必要なのか、なぜこのシステムを作るのか、誰のためのものなのか。顧客ですら答えを持っていないことがある。それでも、問いを持っていると判断がブレない。
あのころは「問いを持つこと」の意味を言語化できていなかったが、体感としてはあったのかもしれない。
外から風が来て、軒先で何かが揺れた。
春の音だと思った。冬の音よりも、少し柔らかかった。
(次回)
第十三話「初めての一本」
春になり、グレン爺さんが初めて木剣での打ち合いを許した。相手はエルナ。村一番の速さを持つ幼馴染に、アレンは一本も取れない。それでも最後の一合で、足運びと魔素の流れが、ほんの一瞬だけ重なった。




