雪の日と、初めての失敗
雪が降り始めたのは、夜中だった。
朝に目が覚めると、窓の外が白かった。音が、なかった。村の音も、山の音も、全部雪が飲み込んでいた。空気まで違う種類になったみたいだった。
その日、爺さんは来なかった。
昼過ぎに使いが来て、「三日は休む」と書かれた紙を置いていった。それだけだった。
二日目の午前、俺は部屋の中で魔素の練習をした。
目を閉じて、息を整えて、体の中の流れを感じる。それはもう、少しずつできるようになっていた。外で立っているよりも、部屋の中で動かない方が、かえってやりやすいことも最近わかってきていた。外には風があり、寒さがあり、エルナの視線があった。静かな部屋の方が、集中という意味では有利だった。
最初の十分は、うまくいった。
いつものように流れを感じて、いつものように集中して、いつものように——
(あれ)
止まった。
流れが、なかった。
もう一度やった。
目を閉じる。息を整える。意識を内側に向ける。
何もない。
じんわりとした感覚があるだけで、流れがわからなかった。昨日まで確かにあったものが、跡形もなかった。まるで昨日まで使えていたツールが、今日になって起動しなくなったみたいだった。
(バグだ)
前世の言葉が出てきた。
(確かに動いていたのに、今日は動かない。環境は変えていない。手順も変えていない。なのに出力が変わった。こういう場合、原因は大抵三つだ——外部環境の変化、内部状態の変化、それか手順の思い込み)
俺は目を開けた。部屋の天井を見た。雪の重さで、屋根がたまに軋んだ。
もう一度、もう一度、と繰り返した。
十回やって、十回失敗した。
何も感じなかった。いや、「何も感じない」は正確ではない。感じてはいるが、それが正しいのかどうかわからなかった。うまくいっていた時の感覚を「基準」として持ち出してきて、それと今を比べようとすると、うまくいっていた時の感覚の方がどんどん曖昧になった。
思い出そうとすると、思い出せば思い出すほど遠くなった。
(記憶の中の動作を再現しようとしている。それが問題か)
爺さんの言葉が頭をよぎった。
「昨日の一歩は、出そうとして出たか」
出そうとして、出なかった。出ようとするのをやめた瞬間に、出た。
じゃあ今回も、やめればいいのか。
やめようとして、やめようとしている俺がいた。やめることさえ、しようとしている。
昼飯を食べた。
母のアリスが鍋を作っていた。根菜と干し肉で、悪くなかった。部屋から出るまで、食欲があるかどうか自分でもわからなかったが、食べ始めると腹が減っていたことに気づいた。
「なんか顔が暗いね」
「そうか」
「稽古できなくて暇なの?」
「暇というか」
うまく言えなかった。
(できていたことができなくなった、というのは、外から見ると怠けているように見えるかもしれない。怠けではないが、そう見えても仕方ない状況だ)
「できなくなったことがある」
「へえ」
アリスは鍋をかき回した。
「できなくなったことは、またできるようになるから大丈夫だよ」
「なんでそう言い切れる」
「できていたことは、消えないから」
根拠のない話だった。感情的な確信しかなかった。でも俺は、なぜか少し楽になった。
三日目の朝。
雪はまだ降っていた。前日より弱くなっていたが、やむ気配もなかった。
俺はまた部屋で試みた。
今度は、やり方を変えた。
感じようとするのをやめた。流れを探すのをやめた。うまくいっていた時の感覚を思い出すのも、やめた。目を閉じて、ただ、座った。何も考えないようにしようとして、それもやめた。
ただ、息をした。
雪の重みで、屋根がまた軋んだ。
どこかで鳥が鳴いた。窓の向こう、遠い木の上だった。
五分ほどして、気づいた。
あった。
流れが、あった。
最初に感じたときのような、ドラマチックなものではなかった。何かが開いた、とか、世界が変わった、とかではなかった。ただ、あった。当たり前にそこにある、という感じだった。探しに行かなくても、もとからそこにあったものに気がついた、という感じ。
(消えていたんじゃなかった)
俺は少し、息を吐いた。
(見ようとしていた目の方が、ぼやけていただけだ)
プログラムで言うなら、バグはコードではなく、デバッグのやり方にあった。確認のための処理が多すぎて、本来の処理に干渉していた。
翌日、雪が止んだ。
爺さんから使いが来た。「明日来い」と書いてあった。
俺は返事を持たせて、そのままエルナの家に寄った。
「三日、どうしてた?」
「家の手伝い。弟の面倒見て、あとは走れるとこを走ってた」
「家の中を?」
「外を。雪の中も走れるよ」
(そういう発想がなかった。雪は障害だと思っていた。走るための条件として)
「アレンは?」
「部屋で練習してた。途中でできなくなって、二日悩んで、最終日に少し戻ってきた」
「できなくなるって、そういうことあるんだね」
「あるらしい。知らなかった」
「怖くなかった?」
俺は少し考えた。
「怖かった」
正直に言った。
「できていたことが理由もなく消えると思ったら、何が安定しているのかわからなくなった。全部が砂の上に立っているみたいな気がした。足元を固めようとすると、砂がずるずると動く」
「でも戻ってきた」
「戻ってきた」
「よかった」
エルナはそれだけ言った。「頑張ったね」でも「それは大変だったね」でもなかった。「よかった」だけだった。
俺も何も足さなかった。
家に帰ると、縁側でガイが縄を編んでいた。冬でも手が動いていた。
「明日から稽古か」
「うん」
「寒いな」
「うん」
ガイは縄を編む手を止めなかった。指が慣れていて、見なくても動いていた。
「三日、どうしてた」
「部屋で練習。うまくいかなかった」
「そうか」
「うまくいかない理由がわからなかった」
「わかったか、今は」
「少し」
ガイは頷いた。縄を編み続けた。
「わからない間は、無駄じゃないぞ」
「何が」
「悩んだ時間が」
(どういう意味だ)
「すぐ答えが出るより、しばらく答えが出ない方が、後でちゃんとわかる。そういうことがある」
「経験から?」
「そう」
それ以上は言わなかった。
その夜、布団の中で俺は考えた。
できていたことができなくなった三日間。焦って、繰り返して、失敗して、最終日にようやく戻ってきた。
戻ってきた時の感触は、最初にできた時より、少しだけ確かだった気がした。
(同じ場所に戻ったのではなく、少し深い場所に降りたのかもしれない)
わからないが、そんな気がした。失うことを一度経験したから、今持っているものの輪郭がはっきりした。そういう言い方が正しいのかどうかもわからないが。
外は静かだった。雪が終わって、風もなかった。
明日から、また稽古が始まる。
(次回)
第十二話「春の兆しと、問い」
雪が解け始めた頃、グレン爺さんがアレンに一つだけ問いを投げた。「お前は何のために強くなりたいのか」。アレンはすぐに答えられなかった。その問いが、数日間、頭の中に残り続けた。




