第七話 黄泉の舞台から飛び降りる
吐き気を催すほどの浮遊感に襲われた数秒後、わたしは固い地面の上に背中から着地した。
横を見ると、頭から墜落した邪岐が呻き声を上げている。
「邪岐さん! あなた、勝手にわたしの貞操を交渉材料にしないでよ! どうしてくれるの?」
「大声を出すな。頭に響くだろう。フン、安心しろ。貴様の貞操が危険にさらされることは皆無だと我様が保証しよう。我様があの空、黄泉の天に戻ることは今後一切ないだろうからな」
「邪岐さんがそうでも、わたしは……」
わたしは、何だろう。
「貴様は、また黄泉の天へ戻ると? 『連れ戻す』と、そう言っていたな。だが、本当に貴様は、あのイカレた世界に帰りたいと思っているのか?」
言い返そうにも、言葉が出てこない。
すずりが連れて行かれたことを祝福し、我がことのように歓喜していた桂木先生、興奮して拍手喝采のクラスメイト、無理に笑顔を作ってみせたすずりのお母さん。そして、『神様』を使って人々の信仰心を簒奪した権力者、改竄に気付いていても知らないフリを続ける人々。
こんなの、狂ってる。
黄泉の天という世界は、狂いすぎてなお、狂い終えていない。今もなお、狂い続けている。
「でも、じゃあ、どこに行けば良いの? 高天の地が、みんなの言っているような楽園だっていうの?」
「……それは見ればわかる。付いてこい」
そう言って大股で歩き出した邪岐を追いかけている内に、わたしはあることに気が付いた。
時計を持ってきていないため正確な時間は分からないが、今は大体午後1時から午後3時の間くらいだろう。だというのに、暗すぎる。まるで日没まであと数分かのような暗さだ。しかも、寒い。今日は7月22日。夏真っ盛りだというのに、まるでこれでは初冬だ。
黄泉の天では快晴だったけれど、ここでは曇っているのだろうか、と何となしに頭上を見上げて、わたしは硬直した。
「なに、あれ……」
頭上、というより、見渡す限り、本来なら空が見えたであろう空間に、巨大な円盤のような物体が浮かんでいた。
「なにって、さっきまで我様たちがいた黄泉の天だ。まぁ、これまで暮らしていた世界を外側から客観的に見るというのは衝撃的な体験なのだろうだがな」
呆けたように上を向きながら歩いていたわたしは、立ち止まった邪岐の背中にぶつかって顎を強く打つことになった。
「見えてきたぞ。ここが、貴様らが憧れてきた、高天の地だ」
小高い丘から、その全貌とは言わないまでも、目の前に広がる街の大部分を視覚に入れることができた。
黄泉の天を下から見上げた時のような衝撃はない。むしろ、見慣れた光景にホッと胸をなで下ろしさえしそうなほど、平凡な街並みに思えた。けれど、何かが、おかしい。
目を凝らして見ると、真っ白な仮面を付けた人間が街を行き来している。それも、一人や二人ではない。全員が、そのような奇怪な格好で外出していた。
「邪岐さん、あの人たちは、一体何?」
「ワーカーだ。貴様ら黄泉の天の連中に神様の子孫だと祭りあげられた奴らは、この高天の地で、奴隷のようにこき使われているのだ」
確かに、白い仮面を被った人々の中には、片腕を持たない人や、足を引きずるようにして歩く人の姿があった。
「高天の地が楽園だなんて話、一寸だって信じてはいなかったけれど、祝福されながら出立した人の扱いが奴隷だなんて、信じられない……。神様の子孫ってのは、結局、何なの」
「貴様が疑っていた通り、黄泉の天で語られている神様の子孫なんてものは、でっち上げられた嘘だ。概念としての『神様』に子孫が存在するはずもないのだからな。だが、何故そのような嘘を黄泉の天の権力者どもが作りだしたのかという話は、まず高天の地について語らねばなるまい。歩きながら話すか。っと、その前に、貴様もこれを」
そう言ってマントをまさぐっていた邪岐が取り出したのは、高天の地のワーカーが被っているものと同じ、真っ白な仮面だった。
「ここでは、人に個が認められていない。誰であろうと、一つの労働力としてしか存在することを許されていない。だから、どいつもこいつも、のっぺらぼうみたいなナリをしている。黄泉の天においては、神の個が排除されているように、ここでは人の個が抹消されているというわけだ」
個性の抹消、抑圧、排斥。
暗くて、寒くて、何も聞こえてこない。
歴史や伝承が無味乾燥だった黄泉の天に対して、世界そのものが無機寒愴な高天の地。
ここは、楽園などではない。地獄だ。
「高天の地の連中は、世界を広げたがっている」
わたしが付いてきているかどうかも確認せずにズカズカと歩いている邪岐は、独り言のように語り始めた。
「貴様も見ただろう。空を覆うように存在する黄泉の天を。あんなものがあるせいで、高天の地には太陽の光がほとんど届かない。そうなれば、育つものも育たない。だから、黄泉の天の陰に隠れないところまで、土地を横に広げようと試みているというわけだ」
「そのためのワーカー?」
「そうだ。だが、高天の地にいる労働者だけでは、とても足りない。そこで、だ。高天の指導者は黄泉の天に人員を要請した。高額の見返りをちらつかせてな。そこで生まれたのが、神様の子孫だ」
「それって、つまり、高天の地が人身売買を持ちかけて、それに応じた黄泉の天がその事実を人々に悟らせないために、信仰心を利用した神様の子孫なんてシステムを作りだしたってこと?」
「フン。その通り。神様の子孫は、黄泉の天の権力者たちが金のために作りだした虚構に過ぎん」
そんなことのために、わたしの親友は、日常から引き剥がされなければならなかったのか。
そんな理由で、すずりと過ごすはずだった夏休みを滅茶苦茶にされたのか。
「うんざりだ」
わたしではなく、邪岐が吐き捨てるように言った。
「上に行っても下に行っても、どっちにしたって地獄だ。権力者の利益のために、人々が支配されている。だからな、つらら。我様は新たな世界を創りたい。信仰心が操作されることなく、個性を自由に表現できるような世界を。そのために、巫女が、貴様が必要なのだ」
足を止め、邪岐はわたしを見た。
仮面越しでも分かる、彼の決意に満ちた眼差しを一身に受けて、わたしは圧倒された。
「邪岐さんの神としての能力って……」
「ああ、言っていなかったな。世界の創造だ。高天の地も黄泉の天も、我様が創った。すまないな、こんなどうしようもない世界になって。悪いと思っている」
わたしが何も答えられずにいると、邪岐は再び歩き出した。
数十メートル歩いたところで、邪岐は目の前に聳え立つマンションのエントランスへと足を踏み入れ、慣れた様子で階段を上っていった。
「ここ、邪岐さんの家?」
「違う。馴染みの家だ。アイツなら剣麻すずりの行方を知っているだろう。邪美という名でな。ああそう、愛宕を創った親だといえば分かりやすいか」
あの変態女の親……。
極力関わり合いになりたくないけれど、すずりに関する情報を持っている可能性があるとなれば、避けるべきではないだろう。
それにしても、ここ数日、神に縁がありすぎる気がする。まぁ、行動を共にしているからだろうけど。
「邪美、我様だ。ここを開けろ」
三階の角に位置する部屋の前に立った邪岐はインターホンを押した。
数秒後、ドアが勢いよく開き、一人の女性に迎え入れられた。
もっとも、白い仮面にフードを被った状態だったので、声を聞くまで性別は判然としなかった。一見して得られる情報といえば、愛宕同様、緑色の垂飾が首に掛っていることくらいだ。このアクセサリー、神なら皆持っているのだろうか。
「いらっしゃい。お久しぶりですね、邪岐」
「フン。久闊を叙する前に、貴様には文句を言わねばなるまい。貴様の子、愛宕には散々な目に遭わされた。一体どういう教育をしたらあんな凶暴で変態な神ができあがるというのか。大体――」
邪岐は玄関に入るやいなや、恨み辛みをぶつけ始めたが、邪美と呼ばれた女性はそれに取り合わず、わたしの前へとやってきた。
「あなたが、つららちゃんですか?」
今のわたしは、仮面を外している。だから、顔見知りだったならば、わたしがつららであると判断することは難しくないだろう。けれどそれは、顔見知りである場合に限った話だ。
いや、もしも、わたしの名前と特徴を、誰かから聞いていれば、予想がつくのではなかろうか。だとすれば。
「すずりを、剣麻すずりを知っていますか!? 身長はええと、丁度あなたくらいで、髪はツーサイドアップで、すごく可愛くて、喋り方が特徴的で。もしどこにいるのか知ってたら教えてほしいです」
「剣麻すずり? 知っているかもしれないし、知らないかもしれません。居場所もまた、知っているかもしれないし、知らないかもしれません」
「あの、もったいぶらずに、教えてください!」
苛立ちを覚えたわたしは、どこか楽しんでいるような邪美に詰め寄った。
対する彼女は、近付いてきたわたしの手を取り、逆に距離を詰めてきた。
「ごめんなさい。でも、剣麻すずりがどのような人物なのか、もっと細かく教えてもらわないと、わたくしも回答に困ります。なので、どんな風に可愛かったのか、具体的に教えてくれますか?」
わたしと邪美の間には、もう詰めるほどの距離はなく、もし仮面がなかったら、彼女の声と吐息がわたしの鼓膜を震わせていただろう。
「どんな風って」
なるほど、さすがは愛宕の母だ。どのように可愛かったかで、少女を記憶しているらしい。
でも、何か不思議だ。違和感、というほどでもないが、無視するには大きすぎる何かを感じた。
「ほら、言ってみてください。どこが、どう可愛いのか。顔ですか? 表情ですか? 声ですか? それとも、体ですか?」
この神、本当はすずりのことを全く知らないのに、美少女かどうか確認するために知っているかもしれないフリをしている可能性がある。あの愛宕の母だ。十分あり得る。だから、この神にすずりの情報を開示するのは憚られた。けれどわたしは、藁だろうと薔薇だろうと、掴む心づもりだった。
「まず、目が可愛いです。常時キラキラと輝いていて、目を合わせると眩しくって仕方がない。それでも、逸らしたいと思うどころか、吸い込まれるようで離すことができなくなります。二つ目は、眉が可愛いです。目がずっと大きく見開いた状態なのに対して、眉はせわしなく動き回ってて、見ていて面白いです。特に、困り眉になった時なんかは最高で、寝顔との合わせ技を食らった日には、どうにかなりそうでした。三つ目は、口が可愛いです。小さいくせに、ハンバーガーにかぶり付くときは大口を開けたりして。それで、一口じゃ収まらないから、口の周りをケチャップだらけにするのがたまらなく愛おしいです。四つ目は耳が――」
「わ、わ、分かりました。もう、十分、十分です」
そう言って邪美は黙りこくってしまった。
どんな表情をしているのか分からなかったが、きっとわたしが開示した情報をもとに思い出している最中なのだろう。
わたしたちを他所にブツブツと不平を漏らし続けていた邪岐がようやく靴を脱ごうとした時、インターホンを鳴らす音が響いた。
黙り込んでいた邪美がすかさずドアを開けると、そこには一人の女性が立っていた。
今度は、声を聞かずとも、性別は分かる。なぜなら、彼女は仮面もフードも被っていなかったから。
白髪でストレートのロングヘアが柔和な表情とマッチしており、天女という比喩がぴったりだ。さらに、愛宕や邪美と同じように首から垂飾をぶら下げていることから、神の一人だと予想がつく。
そして彼女はこう言った。
「いらっしゃい。お久しぶりですね、邪岐」
先ほど邪美が言ったのと同じセリフを、彼女は言った。




