第六話 熱汗三斗
邪岐が愛宕と呼んだその人物、いや、神物? は名前的に女性だろうか。
燃えるように赤い長髪で顔の大半を隠してはいるが、露出の多い服装に包まれた豊満な体つきからも女性だと窺える。谷間の上には首に掛けられている緑色の垂飾が位置しており、色々な意味で見る者の目を引くことだろう。
「ン~~? ア~ンタみたいなおっさん知らないけど。アタシ様~に何の用?」
聞く人を眠気に誘うようなゆったりとした声音で、愛宕は答えた。
「フン。覚えてなくても別に構わんが、ここを通してほしくてな。なに、礼ならする。高天の地にいる貴様の母にもよろしく言っといてやるから。だからそこから退け」
「ちょっと邪岐さん、それが人にものを頼む態度――」
傲岸な物言いをたしなめようとした瞬間、わたしは前方に立っていた邪岐に首根っこを掴まれ、空中へと放り投げられた。
「なにをっ」
空中に浮いた状態のまま、わたしは見た。
一秒前に邪岐とわたしが立っていた場所に、大蛇のような火柱が地面と水平方向に発射されている様子を。
もし、邪岐が投げ飛ばしてくれていなかったら、わたしは今頃、丸焦げになっていたことだろう。
「おいおいおいおいおいおい。どうなってる?」
戦慄しているのは、どうやらわたしだけではないみたいだ。
わたしを投げたあとに無理矢理回避した邪岐は、体勢を崩して地面に伏したまま青ざめている。
「邪岐さん、あれって」
「ああ。アイツの能力は炎を自在に操るっていう戦闘向きの代物だ。……だが何故使った? お、おい! 愛宕! 貴様の母、邪美はいつから巫女持ちになった?」
「シ~ラナイ。巫女持ち? それが今何の関係があるの? どうでもいいでしょ? ア~ンタを排除するのは変わらないんだからね」
さながら指揮者のように両手を構えた状態でこちらを睨み付けている愛宕は、ゆったりと答えた。
「これはマズいな。非常にマズい。おい貴様、固まるのは危険だ。二手に分かれるぞ」
そう言って邪岐はわたしから離れるように走り出した。
「えっ。一人でどうしろと?」
あんな異能の使い手に立ち向かう術なんてわたしは持ち合わせていない。
取りあえず近くの木の陰に身を隠したけれど、あの火柱をもろに食らえば、この木はわたしを守ってはくれないだろう。
しばらくの間、縮こまっていたが、炎がわたしに牙を向いてくることはなかった。
不思議に思って木陰から邪岐が走り去った方向を覗いてみると、蛇、否、竜と呼んでも差し支えない炎の渦が、邪岐の背中を追走していた。
「うわ。邪岐さん、大丈夫かな……」
そんな他人事みたいなセリフを吐いてみたけれど、わたしに余裕ぶれるほどの余裕はなかった。なぜなら、竜を引き連れた邪岐が、こちらに全力疾走してきているからだ。
「悪い悪い悪い悪い悪い悪い悪い悪い悪い! 貴様も走れ! 喰われるぞ!」
「ちょっと! 二手に分かれるって言ったのは邪岐さんでしょ!」
併走する邪岐にわたしは非難の声を上げた。
走りながら喋ろうとすると、なぜだがいつもより声量が大きくなる気がした。
「だから悪いって言っているだろう! 二手に分かれたのはアイツの攻撃を分散させるためだ。だってのに、アイツ、我様だけを狙ってきやがる! 我様のことを覚えていないなんて嘘だろう! 恨みが込められすぎだ!」
「だからってわたしと合流しても何も変わらないよ! ってあれ?」
後ろを振り向くと、炎の渦はいつの間にか跡形もなく消え去っていた。
ようやく呼吸を整えるタイミングを獲得した邪岐は、膝に手をつきながら悪態を吐いている。
「クソ、何だってんだ全く。当初の計画が完全に破綻した。どうしたものか」
当初の計画とやらが、あの傲慢な要求で門を通してもらうことだとしたら、いよいよわたしはこの男を信じることができないかもしれない。
汗をダラダラ流しながら、ブツブツ不平を漏らしている現在の邪岐に、初めて会った時のような威厳は一欠片も感じられない。無理矢理好意的に捉えようとすれば、この状態の邪岐にはいくらか親近感が芽生える気がしないでもないけれど。
「でも、何で攻撃を止めたんだろう」
少し離れた位置に立っている愛宕を窺うと、こちらを睨み付けてはいるものの、再び火柱を噴射させてくる様子はなかった。
「ん? そうか。そうだ。そうだったな。ああ。フン。我様こそアイツのことを忘れていた。貴様、我様の前に立って愛宕のいる方向へ歩いてみろ」
「は? そんなことしたらわたしに火柱が直撃するじゃん。まさか、神ともあろうお方が、女子高生を盾にするおつもりですか?」
抵抗するわたしを無視して、邪岐はわたしの肩を掴んだまま歩みを進めた。
「フン。我様たち神ってのは、聖典の『神様』のように聖人君子ってわけではない。だが安心しろ。アイツは、愛宕は、女に対しては、特に少女に対してはまさしく聖人だ。いや、聖人というより……、まあいい」
何を言っているのか分からなかったが、わたしがどれだけ近付いても、愛宕は攻撃してこなかった。それどころか、先ほど邪岐に向けていた敵意剥き出しの表情が和らいでいるようにも見えた。
「ア~ラ、お嬢さん。こんな所に何の用? ここはアナ~タみたいな娘が来ていい場所じゃないのよ?」
甘ったるい猫なで声で、愛宕は言った。
優しい声色とは裏腹に、わたしのことを射止めるように凝視する彼女の目は、猫なんて可愛いものではない。さながら獲物を狙う蛇のようだった。
「大丈夫だ、落ち着け。貴様が危害を加えられることはない」
背後でわたしの肩を持っている邪岐は小声で耳打ちした。
「そんなこと言っても、今にも食べられそうなんだけど! これ以上近付くのは良くない気が……」
「丸焦げになるよりかは遙かにマシだろう。いいか、聞け。アイツは貴様なら突破できる」
この男は急に何を言い出すのだ。
何の変哲もない女子高生であるわたしが、炎を自在に操る神を突破できるわけがない。
近付いて分かったが、愛宕の身長は女性にしては、というか、人間にしては(人間ではないのだけれど)かなり高い。わたしより頭一つ分高い邪岐と比べても、比べる必要がないくらいには差異がはっきりしている。仮に炎の能力が使えないほどの近距離戦になったところで、体格差でわたしの敗北は目に見えているだろう。
今の私は、首をもたげた蛇に睨まれた蛙状態だ。
「いいか? 愛宕はな、若い女が大好きなんだ。だから貴様にアイツの牙が向くことはない。そこで、だ。我様たちが門を通れるように貴様が説得しろ」
「ア~ナタ、お名前は何て言うの? 年齢は? 高校生? 中学生? それとも、そうは見えないけれど、大学生だったりするのかしら? ア~ナタの私服、とっても素敵よ。もっと近くで見せてくれる?」
今にも飛びかかってきそうな表情をした愛宕の方から、じりじりとにじり寄ってくる。
「説得って! 一体どうすれば?」
愛宕が近付いてきたからか、少し離れた位置で立ち止まっている邪岐に、わたしは縋るように助けを求めた。
「色仕掛けだ! それしかない。なに、大丈夫だ。貴様のその貧相な体つきでも、愛宕には効果抜群に違いない! いくら女性的な魅力に欠ける貴様であったとしても、愛宕にとっては甘い果実であることには変わりないのだからな!」
神様ってブン殴っても罰あたらないんだっけ。
好き放題言ってくれた邪岐に気を取られたその一瞬、距離を詰めてきた愛宕の長い腕にわたしの体は包み込まれた。
「ッヒッツ」
「スゥゥゥゥゥゥゥゥゥウゥゥゥゥ、ハァァァァァァァァァァァァァァァ~~~~~。ン~~。ア~ナタ、女子高生の匂いがするわ。でも、中学生の残り香もある。見たところ、イ~イエ。嗅いだところ、高校1年生ってところかしらね」
コイツ、ヤバい。ヤバすぎる。
胃がむかつくほどの甘ったるい匂いが鼻腔を刺し、毒が回ったかのように体が硬直した。
邪岐も相当、傲慢でヤな奴で、あんなのが神様の一人だなんて信じられないし、信じたくないけれど、コイツは、常軌を逸している。炎使いなんてのは、この際どうでもいい。この女の異常性を説明する上で省いてもいいくらいだ。
湯気がでるほど上気させた顔を、わたしの首筋に押し当てる愛宕に、わたしは為す術も無く、為されるがままだった。
ああ、今後、蛙が蛇に襲われている所に出くわしたら、助けてあげよう。ってそんな悠長な現実逃避をしている場合ではない。門を通らなければ。愛宕を突破しなければ。すずりに、会うために。色仕掛けだろうと何だろうとやってやる。
「あのぉ、愛宕さぁん。わたし、実は、愛宕さんのファンでぇ。ずっと、好きだったんですぅ。だからそのぉ、わたしのこと、好きにしてもいいですヨぅ?」
渾身の上目遣いと合わせて、わたしが考える限り最大の殺し文句を繰り出した。
いや、門番のファンって一体何なんだ。それに、何だかすずりみたいな口調になってしまった。しかし、かなり効いているみたいだ。
「ホ、ホ、ホ、ホントに~? じゃあ、アタシ様~と両思いってことね? ウフウフウフウフフフ。名前、ねぇ名前はなんていうの?」
「つららって言いますぅ」
「ア~ラ、良い名前ね。つらら、好きよ。好き好き好き好き好き好き好き。フフフフフフフフフ。つららも、アタシ様のこと好きでしょう?」
「え、ええ。……愛宕さん、だぁいすき」
すずり、ごめん。
別にすずりに謝る必要はないのだけれど、無性に謝りたい気分だった。
「あのぉ、愛宕さんにお願いがあって、門を通して欲しいんですけどぉ。ダメですかぁ? わたし、何でもしますからぁ」
そう言ってTシャツの胸元部分を引っ張って、肌を少しだけ露出させてみた。
「フフフ。フフフ。フフフ。つらら、高天の地に行きたいの? あんな救いようのない場所行かずに、アタシ様とここで、ずっとイチャ~イチャしない?」
救いようのない場所?
愛宕の言葉が引っかかったが、今はスルーせざるをえない。
「お願いしますぅ。どうしても行かないといけないんですぅ。友達が待っててぇ」
『友達』というワードに、愛宕はピクリと反応した。
「そのお友達って、男? 女?」
これまでの眠くなるような声から一変して、詰問するような鋭い声で、愛宕は尋ねてきた。
「えっと、女の子です、けど」
「フフ。ア~ラ、そう。女の子、女の子か。ウフフフフフフフフ。分かったわ。つららのお願い、聞いてあげるわ。でも、その代わり、次はそのお友達と二人で来るのよ? そしてそうね、その時は、制服を着た状態が望ましいわ。フフフ。さらに、その下にスク~ル水着を着てたらもう言うことなしだわ。ウフフフフ!」
冗談じゃない。
すずりを連れ戻すことができたとしても、この女と会わせることは死んでもしないと、神、いや、心に誓った。
「そうと決まれば、早速行ってらっしゃい。早めの帰りをお待ちしているわ」
愛宕がそう言うと同時に、巨大な岩の表面に人一人がギリギリ入れるほどの高さの門が浮かび上がり、外向きに開いた。
「でかしたぞ。これで地上に降りることができる。やればできるじゃないか」
わたしが蛇に丸呑みにされそうになっている中、少し離れたところで眺めていただけの神が近付いてきた。
「ア~ラ? ア~ンタに門をくぐらせるつもりはないけど? アタシ様~にメリットが一つもないもの」
「グぅ」
何食わぬ顔で門の向こうへ足を踏み入れようとした邪岐は静止を受け、渋い顔で立ち止まった。
「フン。メリットならある」
「へ~エ。聞かせてもらおうかしら? 一応言っとくけど、ア~ンタみたいな、おっさんの体なんて、アタシ様~は全くもって関心がないわ」
邪岐はしばらく押し黙り、やがて口を開いたかと思えば、とんでもないことを口にした。
「次、ここに戻ってくる時、つららの処女を貴様にやることを我様が約束しよう!」
「は?」
おい、ちょっと待て。
いつわたしが処女だって言ったよ。
いや、そうではなく。
「邪岐さん、何てことを! アンタそれでも神なの!?」
「ア~ラ。なかなかどうして。フンフンフンフン。悪くないわね。悪くない。むしろ良いわ。ウフフフフ。いいわ。ア~ンタも門を通るといいわ」
前言撤回。
「アンタらそれでも神なの!?」
呆然としたまま、わたしは門をくぐり抜けた。




