第74話 高難易度のミッション
少しずつ。
ゆっくりと。
互いの距離が、目に見えない糸に引き寄せられるように縮まっていく。
胸の奥で、心臓がやけに大きな音を立てていた。
どくん、どくん、と――その鼓動は耳の奥にまで響いて、思考をかき乱す。
……これが。
俺の、ファーストキス。
そう自覚した瞬間、余計に体が強張る。呼吸は浅くなり、指先にまでじんわりと熱が広がっていく。
春菜の唇は、もうすぐそこだ。
あと、ほんの少し。
あと、少しで触れる。
ここまで来て、引き返すなんて選択肢はない。
あるはずがない。
このまま……。
さらにゆっくりと、顔を近づける。
あと……少し……。
視界はもう、春菜の唇だけで満たされていた。他のものはすべて、遠くにぼやけていく。
あと、ちょっとで……。
そして、俺は――
その瞬間だった。
「う、う~ん……」
「――っ!?」
不意に漏れた小さな声に、全身が跳ね上がる。
次の瞬間には、反射的に春菜から手を離し、何事もなかったかのように視線を天井へと逃がしていた。まるで最初から、ただ星を眺めていただけだったかのように。
「あ、あれ……? わたし……」
春菜はゆっくりと目を開け、まだ夢の名残を引きずるように、ぼんやりと展望室を見回す。
「ん? な、何だよ。ど、どうした春菜?」
自分でもわかるほど不自然にならないよう、必死に声を整える。
「え? あ、えっと……ねえ、拓ちゃん? わたし……もしかして、寝ちゃってた?」
「あ、ああ。座って少ししたら、そのまま気持ちよさそうに寝てたぞ」
努めて平然と、いつも通りに答える。
「そ、そうなんだ……。ごめんね、拓ちゃん」
「い、いや、謝ることじゃないって」
「で、でも……」
春菜は申し訳なさそうに視線を落とした。
どうやら、さっきまでのことには気づいていないらしい。
……よかった。
胸の奥で、そっと安堵がほどける。
「夜も遅いし、疲れてたんだろ。仕方ないさ」
「うん……。本当に、ごめんなさい」
「だから、もういいって。俺は気にしてないからさ」
「……うん。ありがとう、拓ちゃん」
そう言って浮かべた笑顔は、いつもと変わらない春菜のものだった。
それを見て、胸の奥がほっと緩む――と同時に。
ああああ!
心の中で、盛大に叫ぶ。
あと、ちょっとだったのに!
あとほんの少しで届いたはずの距離。逃した機会の大きさに、思わず頭を抱えたくなる。
なんであのタイミングで起きるんだよ!
最終最大のミッションは、あっけなく未遂に終わったのだった。
「ねえ、拓ちゃん?」
「お、おお? どうした?」
突然の呼びかけに、慌てて意識を引き戻す。
「もう、部屋に戻るの?」
腕時計に視線を落とす。
「……ああ、そうだな。そろそろ戻った方がいい時間だな」
けれど、春菜はすぐには返事をしなかった。
ほんのわずかな沈黙。
ためらうような、柔らかな間。
「あのね、拓ちゃん」
「ん?」
「もう少しだけ……。一緒に星、見ててもいい?」
その言葉に、思わず瞬きをする。
「あ、ああ……俺は別に構わないけど」
「ほんと? ありがとう、拓ちゃん」
ぱっと花が開くような笑顔。
それを見た瞬間、不思議と胸の奥がじんわりと温かくなる。
「じゃあ、もう少しだけ、星でも眺めるか」
「うん」
それから暫くの間。
拓也と春菜は、他愛のない言葉を交わしながら、頭上に広がる無数の星々を静かに見上げ続けた。
拓也のさっきまで暴れていた心臓も、いつの間にか穏やかなリズムを取り戻していた。




