第68話 展望室
拓也が通路のベンチに腰を下ろしてから、三〇分ほどが過ぎていた。
「……そろそろ、上がってくる頃かな」
何気なく呟いた、その時だった。
家族専用風呂の暖簾をくぐり、ひとりの影が現れる。
浴衣姿の春菜だった。
通路に出た彼女はきょろきょろと周囲を見回し――やがて、ベンチに座る拓也の姿を見つけると、小走りで駆け寄ってくる。
「拓ちゃん、ごめんなさい。遅くなっちゃって」
「いいっていいって」
軽く手を振りながら、拓也は笑う。
「こっちも、ゆっくり休めたしな。気にするなって」
「体の方は……もう大丈夫なの?」
心配そうに覗き込む春菜。
「おお。ちょっとのぼせただけだしな」
そう言って、拓也は大げさに拳を握って見せた。
「ほら、この通り。すっかり元気だ」
「よかった……」
春菜はほっと胸をなで下ろす。
「急に出て行っちゃったから、すごく心配したんだよ?」
「ああ……悪かったな。変に気を使わせちまって」
「ううん、いいの」
春菜は首を横に振り、やわらかく微笑んだ。
「拓ちゃんが元気でいてくれるなら、それだけで嬉しいから」
その言葉と笑顔が、胸にすっと入り込む。
……っ
不意に、鼓動が強く跳ねた。
あれ……またかよ。
さっきまで落ち着いていたはずなのに、また胸の奥が騒ぎ出す。
落ち着け……落ち着け俺……。
必死に平静を装う。
「お、おう……そうか。春菜がいいなら、それでいいんだ」
「うん」
小さく頷く春菜。
「そ、それじゃ、行くか」
「うん!」
「展望室」
「うん。すごく楽しみ!」
弾むような声に、拓也も自然と笑みを浮かべた。
二人は肩を並べ、最上階の展望室へと向かう。エレベーターに乗り込み、静かに上昇していく時間さえ、どこか特別なものに感じられた。
やがて最上階へ到着し、扉が開く。
そのまま展望室へと足を踏み入れた――次の瞬間。
「うわっ……すごい……!」
春菜が、思わず声を上げた。
「こんなの初めて!」
「……っ、マジかよ」
拓也もまた、同じように言葉を失う。
目の前に広がっていたのは――想像を遥かに超える光景だった。
展望室はドーム状に造られており、天井も、壁も、すべてが透明なガラスでできている。まるで空そのものの中に入り込んだかのような錯覚。
そこに広がるのは、無数の星々。人工の光では決して再現できない、本物の輝き。
例えるなら――そう、現実そのものを映し出すプラネタリウム。
室内には円形に座席が配置され、壁際には双眼鏡も設置されている。昼間ならば遠くの山々を望めるのだろうが、今はただ、夜空の美しさだけが支配していた。
ふたりはしばらく、立ち尽くしたまま天井を見上げていた。
言葉を失うほどの光景。
やがて――
「なあ、春菜」
「え? なあに、拓ちゃん?」
「このまま立ってるのもいいけどさ……座らないか?」
少し照れたように言う。
「ずっと見てたら、疲れるだろ」
「あっ……。うん、そうだね」
春菜も小さく頷いた。
さて、どこに座るか。
周囲を見渡す。
時刻は深夜三時過ぎ。さすがに人は少ない――が、いるにはいる。
そして、そのほとんどが男女のペア。
肩を寄せ合い、寄り添うように座る姿が、あちこちに見える。
何だよ、みんなして。
内心で苦笑する。
どこもかしこも、仲良さそうじゃねえか。
ほんの少しだけ、羨ましさが混じる。
「拓ちゃん?」
「お、おう!?」
声をかけられ、慌てて我に返る。
「どうしたの? 座らないの?」
「ああ、いや……」
軽く咳払いをしてから、視線を巡らせる。
「じゃあ……あそこの席にしようぜ」
なるべく人の少ない、外側の席を指差す。
「うん、いいよ」
春菜は素直に頷いた。
二人は並んで歩き、その席へと向かう。
そして――
隣同士で、静かに腰を下ろした。




