第67話 気持ちを落ち着かせて
浴室を出た瞬間、ひやりとした空気が火照った肌を撫でた。それでもなお、胸の奥で暴れる熱は簡単には引いてくれない。
拓也は半ば逃げるように脱衣所で浴衣を身にまとい、そのまま通路へと飛び出した。足取りは早く、どこか落ち着かない。やがて近くにあったベンチを見つけると、ほとんど崩れ落ちるように腰を下ろした。
しばしの静寂。
「ふぅ……」
長く息を吐く。
「やっと、少し落ち着いたか」
そう呟きながらも、脳裏には先ほどの光景が鮮明に焼き付いている。
……くそ。
隣に座っていた春菜の姿。
湯気に包まれた横顔、近すぎる距離、触れそうで触れない感覚。
思い出すだけで、また鼓動が速くなる。
「あと少し、あのままだったら……。やばかったかもな」
自嘲気味に笑い、小さく頭を振る。
あの夢のせい、か?
ふと、旅行に来る前に見た夢が蘇る。妙に現実味を帯びた、あの感覚。今でも細部まで思い出せるほど、鮮烈に焼き付いている。
「……いや」
ひとりごちる。
「夢と現実は……やっぱ違うよな」
夢の中の春菜は、もっと積極的だった。戸惑うこともなく、まっすぐに距離を詰めてきた。
だが、現実の春菜は違う。照れて、迷って、それでも一歩踏み出してくる。
「まあ、どっちがいいかって言われたら……」
そこで言葉を切り、ふっと苦笑する。
「どっちも、いいけどさ」
ぽつりと漏れた本音に、自分で少しだけ顔が熱くなる。
「って、何言ってんだ俺」
小さく頭をかき、視線を逸らす。
やがて――
「はぁ……」
深いため息が、静かな通路に溶けていった。
「夢のせいにするとか……。俺、何考えてんだろうな」
夢は夢。
現実とは違う。
そんな当たり前のことを、改めて自分に言い聞かせる。
このままじゃ、まずいな。
ふと、ある考えがよぎる。
夏休みに計画している混浴温泉。
もし今の自分のまま、その場に立ったらどうなるか。
想像しただけで、ぞっとした。
絶対、やばいだろ。
理性が吹き飛び、どうなるか分からない。それだけは、絶対に避けなければならない。
「……鍛えないとな、理性」
小さく呟く。
もっと落ち着けるように。どんな状況でも、平常心でいられるように。
――とはいえ。
「まあ、まだ時間はあるか」
肩の力を少し抜く。
今は旅行の最中だ。難しいことばかり考えるより、楽しむべきだろう。
「この件は……帰ってから考えりゃいいか」
ひとまず結論を出し、もう一度息を吐いた。
すると、不思議と胸のざわつきも、少しずつ静まっていく。
「……うん」
自分に言い聞かせるように頷く。
「さっきよりは、だいぶ落ち着いたな」
心臓の鼓動も、ようやく普段通りに戻りつつある。
「これなら……大丈夫か」
背もたれに身を預け、軽く天井を仰ぐ。
あとは――
春菜が風呂から出てくるのを、待つだけだ。
静かな通路に、再び穏やかな時間が流れ始めていた。




