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第66話 逃げるように

 そういえば。


 湯の中で肩まで浸かりながら、拓也はふと首をかしげた。


 春菜のやつ、確か……。


 家族専用風呂には入らない、と。あの時、はっきりそう言っていたはずだ。なのに……。何で今、ここにいるんだ?


 気になり始めると、どうにも落ち着かない。


 しばし迷った末、拓也は口を開いた。


「なあ、春菜?」


「なあに? 拓ちゃん?」


 やわらかな声が返ってくる。


「お前さ……。家族専用風呂には入らないって、言ってなかったか?」


「あっ……えっと……。うん、言ったよ」


 少し間を置いて、春菜は小さく頷いた。


 やはり間違いない。部屋で、確かにそう言っていた。


「それなら、何でここに来たんだ?」


「あっ……それは……」


 言いよどみ、春菜は視線を落とす。


 頬がほんのりと赤く染まっていくのが、湯気越しにも分かった。


 その仕草が、妙に胸に刺さる。


 ……やばい。


 不意に、強い衝動が胸の奥から込み上げてきた。


 今、この距離で……こんな状態で……。


 抱きしめたい。


 そんな考えが、ふと頭をよぎる。


 っ……!


 思わず息を呑む。


 だ、駄目だろ、それは!


 こんな状況でそんなことをしたら、どこまで理性が持つか分からない。いや、きっと持たない。


 抑えろ! 何が何でも抑えるんだ、俺!


 必死に自分を押しとどめる。


 その時。


「拓ちゃん、言ったでしょ?」


 春菜が、ぽつりと呟いた。


「裸と裸の……見せ合いをしようって」


「え? あ、ああ……」


 不意を突かれ、言葉が詰まる。


「そ、そういえば……そんなこと言ったな」


 視線を逸らしながら答える。


「わたし……見せ合いは無理だけど……」


 春菜は少しだけ顔を上げた。


「一緒に入るだけなら……。いいかなって、思ったの」


「……ああ、なるほどな」


 ようやく事情を理解し、拓也は小さく頷いた。


「馬鹿だな。あんなの、冗談に決まってるだろ」


「え? そうなの?」


「そうだよ。俺が本気でそんなこと言うわけないだろ」


 ……いや、本気だったけどな。


 心の中でだけ、こっそり訂正する。


「なあんだ……」


 春菜はほっとしたように笑った。


「わたし、勘違いしてたんだね。ごめんね、拓ちゃん」


「いいって。気にすんな」


「うん」


 会話が途切れる。


 再び、静かな湯音だけがふたりを包み込んだ。


 ……まずい。


 この沈黙が、逆に意識を加速させる。


 何か話してないと、理性がもたねえ!


 焦るように思考を巡らせる。


 話題……何か……。


「そういえばさ」


 とっさに口を開く。


「よくここ入れたな? カードキーがないと無理だろ?」


「あっ、それはね」


 春菜は少し表情を和らげた。


「エントランスで、予備のカードキーを貸してもらったの」


「ああ……なるほどな」


 納得しながら頷く。


 だが、それ以上は続かない。


 ……終わった。


 話題が尽きた。


 どうする? どうするんだ!?


 内心で大混乱していると、


「ねえ、拓ちゃん?」


「お、おう!?」


 不意に声をかけられ、びくりとする。


「頭、抱えてるけど……大丈夫? 痛いの?」


「え!? い、いや! 全然平気だ!」


 慌てて手を離す。


「そう? ならいいけど……」


 春菜は少し不思議そうに首をかしげた。


 ……限界だ。


 これ以上ここにいたら、本当に危ない。


 理性がもたない!


 決断は一瞬だった。


「は、春菜。俺、ちょっとのぼせたみたいだ。先に出るな」


「えっ、大丈夫なの?」


 心配そうな声。


「お、おう。ほんのちょっとだから、平気だって」


「肩、貸そうか?」


 その一言に、心臓が跳ね上がる。


 それは、むしろ危険すぎる!


「いいいいって! 一人で大丈夫だから!」


 やや強めに言ってしまい、慌てて言い直す。


「気にすんな、ほんとに」


「……うん。拓ちゃんがそう言うなら」


 春菜は素直に引き下がった。


 助かった……。


 内心で安堵しつつも、どこか惜しいと思ってしまう自分がいる。


 いや、耐えろ。ここは耐えるんだ!


 自分に言い聞かせる。


「俺、外のベンチで休んでるからさ。春菜はゆっくり入ってていいぞ」


「うん。拓ちゃんも、無理しないでね」


「ああ、わかった。それじゃ、また後でな」


「うん」


 短く言葉を交わすと、拓也は勢いよく立ち上がった。


 そして、まるで何かから逃げるように、足早に浴室を後にした。


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