第65話 二人だけの時間
「拓ちゃん……。わたしも、一緒に入っていいかな?」
頬をほんのりと染め、視線を落としながら春菜は、控えめにそう尋ねた。
「え? あ、ああ……べ、別に俺は構わないぞ」
思わず声が上ずる。
な、なんで春菜がここにいるんだ!?
「うん、ありがとう。それじゃ……わたしも、入るね」
「お、おう……」
春菜は身体に巻いたタオルをそっと押さえながら、慎重に足を湯へと沈めていく。波紋が静かに広がり、その動きに合わせて白い湯気が揺れた。
「あったかい……気持ちいいね」
「お、おお……そ、そうだな」
やばい。何だこれ、めちゃくちゃ緊張するんだけど!
「ねえ、拓ちゃん?」
「お、おう……。ど、どうした?」
心臓の鼓動を抑えきれないまま、ぎこちなく返す。
「拓ちゃんの……。隣に、座っても……いいかな?」
俯いたまま、か細い声で告げられるその一言。
な、な、な、何だって!?
一瞬、思考が真っ白になる。
だが答えは、考えるまでもなかった。
「べ、別に……いいぞ」
必死に平静を装いながら、そう返す。
「うん……。それじゃ、行くね」
春菜はゆっくりと立ち上がり、湯の中を歩いてくる。そして、拓也のすぐ隣に腰を下ろし、静かに身体を沈めた。
さっきまで、四メートルほどあった距離は――。
今や、ほとんどゼロに等しい。
ほんのわずかに動けば、腕が触れてしまいそうな近さ。
これ、前に夢で見たのと同じじゃないか?
一瞬、嫌な予感がよぎる。
ま、まさか……正夢とか……!?
反射的に視線を下へ落とす。
「……ふぅ」
小さく安堵の息を漏らす。
「今度は……大丈夫か……」
「なあに? 何が大丈夫なの?」
「え!? い、いや! 大したことじゃないから、気にするなって!」
「そう……なの?」
「あ、ああ! ほんとに何でもない!」
「うん……わかった」
危うく変な誤解を招くところだった。
胸をなで下ろしながら、拓也はそっと話題を変える。
「なあ、春菜。さっきまで部屋で寝てたんじゃなかったのか?」
「うん、寝てたよ。でも途中で目が覚めちゃって……。そしたら、拓ちゃんだけいなかったから。きっとここかなって思って」
「なるほどな……そういうことか」
納得しながら頷く。
「もしかして……わたし、来ない方が良かった?」
不安そうに揺れる声。
「いやいや、そんなことあるかよ」
思わず即答していた。
「むしろ、一人で退屈してたところだし。来てくれて、すげえ嬉しい」
少し照れくさくなりながらも、正直に言う。
「……そっか、良かった」
春菜はほっとしたように微笑んだ。
「来ても大丈夫かなって、ちょっと心配してたの」
そんなわけ、あるかよ。
心の中で苦笑する。
「そんな心配、いらねえだろ。俺と春菜の仲なんだからさ」
「……うん、そうだよね」
「そうだよ」
「……うん」
言葉は続かず、ふたりの間に静かな沈黙が落ちる。
湯の揺れる音だけが、かすかに響いていた。
なんだこの空気。
落ち着かない。
いつも一緒にいるはずなのに、どうしてこんなに意識してしまうのか。
情けねえな、俺……。
自嘲しかけた、その時。
「ねえ、拓ちゃん?」
「お、おう。なんだ?」
「窓の外……何も見えないね」
春菜は少し残念そうに、暗闇の向こうを見つめていた。
「まあ、この時間だしな。真っ暗で何も見えないよな」
「うん……。綺麗な景色、見れたらいいのに」
「……ああ」
その言葉に、ふとあることを思い出す。
綺麗な景色……そうだ。
この時間だからこそ見られるものがある。
「なあ、春菜」
「うん?」
「風呂出たあとさ、一緒に最上階の展望室、行ってみないか?」
「展望室?」
「ああ。今なら星、めちゃくちゃ綺麗に見えると思うぞ」
一瞬の沈黙のあと。
「……本当?」
ぱっと表情が明るくなる。
「おお、本当だ」
「行きたい! 一緒に行きたい!」
「よし、決まりだな」
拓也は小さく笑った。
「風呂出たら、そのまま行こう」
「うん!」
湯気の向こうで、春菜の笑顔がやわらかく揺れていた。




