第64話 磨ガラスの向こうから
さて……。みんなの寝顔は、もう十分すぎるほど堪能した。そろそろ、家族専用の風呂にでも行くとするか。
拓也は足音を忍ばせながら、ゆっくりと扉へ向かう。静かに引き戸を開け、気配を残さぬように部屋を後にした。
時刻は深夜。
館内の通路には人の姿はほとんどなく、灯りもどこか遠慮がちに落とされている。静寂が、建物全体をやさしく包み込んでいた。
エレベーターで一階へ降りると、そのまま迷うことなく風呂へと足を向ける。さすがにこの時間では、売店の灯りも消え、気配はない。
大露天風呂へ向かったときと同じ、長い通路。およそ五十メートルほどを歩き、やがて「家族専用風呂」と染め抜かれた暖簾をくぐった。
中には四つの扉が並び、そのうちの一つに『御堂様』と記された立札が置かれている。扉の脇にはカード端末。拓也は部屋のカードキーをかざし、静かに扉を開けた。
中に入ると、こぢんまりとした脱衣所。その奥には、やわらかく光を透かす磨りガラスの引き戸があった。
衣服を脱ぎ、タオルを一枚だけ手に取る。
そして引き戸を開けると――
そこには、木の温もりに満ちた浴室が広がっていた。どこか懐かしく、心を解きほぐすような空間。
拓也は先に体を洗い流し、ゆったりとした湯船へ身を沈める。十人は余裕で入れそうな広さの浴槽が、静かに湯気を立てていた。
「一泊二日なんて、ほんとあっという間だな」
ぽつりと呟く。
「もう少し、ゆっくりできたら良かったんだけど……。まあ、佐伯にもらった宿泊券だしな。贅沢は言えないか」
湯に肩まで浸かりながら、窓の外へ目を向ける。外は闇に閉ざされ、何も見えない。だが、もし視界が開けていれば――きっと無数の星が夜空を埋め尽くしているはずだ。
「そういえば……最上階に展望室があるって言ってたな」
受付の女性の言葉を思い出す。
「風呂を出たら、行ってみるか」
ふう、と息を吐く。
体の芯から、じわじわと疲れがほどけていく。
やっと……温泉に来たって感じだな。
心の奥でそう呟きながら、目を細める。
本当は……みんなと一緒に入りたかったけどな。
ほんの少しだけ浮かんだ願望は、すぐに苦笑とともに流した。
まあ、それは……夏休みの楽しみってことで。
それから暫くの間、拓也は一人きりの静かな湯を満喫していた。
――その時。
かすかな物音が、脱衣所の方から聞こえた。
「……ん?」
耳を澄ます。
今、確かに何か――
視線を磨りガラスの引き戸へ向けると、淡く滲んだ向こう側に、人影のようなものが揺らいだ気がした。
「……誰だ?」
そう思った、次の瞬間。
ガラガラ、と。静寂を破る音を立てて、引き戸がゆっくりと開いていく。
そして――
そこに現れたのは。
大きなバスタオル一枚を身体に巻きつけた、春菜の姿だった。




