第32話 タイミングの悪さ
学校からの帰り道を駆けるようにして、拓也は家へと戻ってきた。胸の奥には、抑えきれないほどの高揚がある。妹たちに――あの宿泊券のことを、一刻も早く伝えたかった。
靴もそこそこに脱ぎ捨て、一直線に妹たちの部屋へと向かう。
「おーい、夏香ー、冬香ー。入るぞー」
いつもの調子で声を張り上げ、そのまま扉に手をかける。そして、何の疑いもなく――開けた。
その瞬間だった。
「ちょっと! 急に開けるな、バカァッ!」
鋭い怒声と同時に、目の前が弾けた。
次の瞬間、拓也の頬に強烈な衝撃が走る。
「ぶっ!?」
夏香の拳が、迷いなく叩き込まれていた。
不意を突かれた拓也は、思わず後ろへよろめく。そのまま足元がもつれ、無様に床へと尻餅をついた。
「いててて……」
頬を押さえながら呻く拓也。その目の前で、扉は容赦なく――
バタンッ!
と、大きな音を立てて閉じられた。
……なぜ殴られたのか。
理由は、分かっている。
タイミング悪く、夏香が着替えの最中だった。それだけだ。
それだけ、なのだが――
「いや、だからって殴るか普通……」
床に座り込んだまま、ぽつりと呟く。頬はじんじんと熱を持ち、遅れて痛みが広がってきた。
理不尽だ、と心の中でため息をついた、その時。
ガチャッ、と勢いよく扉が開いた。
現れたのは、すでに学校指定のジャージに着替えた夏香だった。肩にはスポーツバッグをかけている。
「あたし、これから部活だから」
「お、おう……そうか」
あまりにあっさりした態度に、拓也は思わず気圧される。
だが、夏香はそれだけでは終わらなかった。
「今度また覗いたら――殺すからね」
「いや、ちょっと待て! 別に覗いたわけじゃ――」
「じゃ、行ってくる」
「お、おい、夏香――!」
呼び止める声も虚しく、夏香はさっさと廊下を駆けていく。その足音が遠ざかり、やがて静寂が戻った。
「……行っちまったか」
ぽつりと呟き、拓也は頭をかく。
本当に、覗くつもりなんてなかった。ただ、タイミングが悪かっただけだ。
――とはいえ。
ちょっとくらい、得した気も……。
一瞬よぎった考えに、自分で自分を叱りつける。
って、何考えてんだ俺! 変態かよ!
内心で全力のツッコミを入れたあと、ふと虚しさが込み上げてきた。
「……はあ」
小さくため息をつき、気持ちを切り替える。
まあいい。あとでちゃんと誤解は解くとして……。
そう決めて、拓也は立ち上がった。そして、今度は慎重に扉を開ける。
部屋の中は静かだった。
机の前に座り、本を読んでいた冬香が顔を上げる。その視線が拓也の頬に止まり、わずかに眉が寄った。
「兄さん、お帰りなさい……。顔、大丈夫?」
「あ、ああ。大丈夫だって。夏香に殴られるのはいつものことだしな」
軽く笑ってみせるが、頬のヒリヒリは誤魔化しきれない。
「心配しなくていい。これくらい、なんともないさ」
「……そう」
冬香は小さく頷いたものの、その視線にはまだわずかな不安が残っていた。
「ところでさ、冬香」
「何?」
「この前、ゴールデンウィークに温泉行こうって話しただろ?」
「うん……」
「実はな――」
拓也はポケットに手を入れ、一枚のチケットを取り出した。
それを、ゆっくりと冬香の前に差し出す。
「それは……?」
「温泉旅館の宿泊券。今日、学校で佐伯からもらったんだ」
「佐伯さんって……春菜さんの友達の?」
「ああ、その佐伯」
拓也は少しだけ視線を逸らしながら続ける。
「ちょっとしたトラブルがあってな。そのお詫びだってさ」
「トラブル……?」
冬香の声が、わずかに鋭くなる。
「何があったの?」
「え? あー……いや、ほんと些細なことだって。ちょっとした勘違い」
曖昧に笑って誤魔化す。
さすがに、春菜を抱きしめたと勘違いされて殴られた、なんて言えないよな……。
下手に話せば、間違いなく追及される。冬香の鋭さは、よく知っている。
「……そうなんだ」
しばらく見つめていた冬香は、やがて納得したように小さく頷いた。
その反応に、内心でほっと息をつく。
「その宿泊券……見てもいい?」
「おう、いいぞ」
拓也は素直に手渡した。
冬香は両手で丁寧にそれを受け取り、じっと見つめる。表と裏を何度も確かめるように眺め、その目にわずかな光が宿った。
「……すごく、良さそうな旅館」
静かにそう言って、券を返してくる。
「だろ? これは佐伯に感謝しないとな」
「うん……」
その表情は控えめながらも、確かに喜びを含んでいた。
拓也の胸に、じんわりと温かいものが広がる。
よし……。これで、少なくとも一人は気に入ってくれたな。
「じゃあ、晩飯の時にまた呼びに来る」
「うん……」
短い返事を背に受けながら、拓也は部屋を後にした。
廊下に出ると、さっきまでの騒がしさが嘘のように静かだった。
そのまま自室へと戻りながら、拓也はもう一度、ポケットの中の未来――温泉旅行のことを思い描く。
妹たちの笑顔を思い浮かべながら。




