第29話 旅館探し
冬香とキスができるという絶好の機会を逃してしまった拓也は、彼女が部屋を出ていってからも暫く、ベッドの上で仰向けになったまま動けずにいた。
胸の奥に残るのは、やり場のない後悔と、言葉にできないもやもやした感情だった。
「……そういえば、今何時だ?」
ふと我に返り、ベッド脇の目覚まし時計へ手を伸ばす。
「ああ、もうこんな時間か……」
針の位置を見て、小さく息を吐く。
「そろそろ、夏香が部活終わって帰ってくる頃だな……」
いつまでも落ち込んでいるわけにもいかない。
拓也は重たい体を無理やり起こし、気持ちを引きずったまま風呂を沸かし、晩飯の支度に取りかかった。
やがて、学校から帰宅した夏香が風呂を済ませ、部屋で小説を読んでいた冬香も呼び、三人で食卓を囲む。
食卓には、どこか奇妙な静けさが漂っていた。
しかし――。
夏香は、朝のぎこちなさが嘘のように、いつも通りの調子で話していたし、冬香もまた、まるで何事もなかったかのように穏やかな表情を浮かべている。
その様子に、拓也はわずかな安堵を覚えながらも、どこか取り残されたような感覚を拭えなかった。
食事を終えると、二人は連れ立って自分たちの部屋へと戻っていく。
残された拓也は、静かに食器を片付け、自室へ戻った。
椅子に腰を下ろし、机の上のノートパソコンを開く。
「……さて、と」
小さく呟き、画面を見つめる。
「気持ちを切り替えて……夏香と冬香の要望に合う温泉旅館、探さないとな」
キーボードに手を置き、ゆっくりと指を動かし始める。
「とりあえず、ネットで調べるか……」
それから二時間――。
いくつものサイトを渡り歩き、候補を見ては消し、見ては落胆し。
しかし、どれもこれも予約で埋まっていた。
「……やっぱ遅かったか」
椅子にもたれ、天井を仰ぐ。
「でもなあ……。せっかくなら、あいつらの希望、叶えてやりたいしな……」
簡単に諦めるには、まだ早い。
そう自分に言い聞かせ、拓也は一度立ち上がった。
「……気分変えるか」
風呂に入り、頭を冷やしてから、もう一度挑戦することにした。
そして――。
さらに三時間が過ぎる。
「ああああ、見つかんねえ!」
机に突っ伏し、声を漏らす。
「どこもかしこも満室って、どうなってんだよ……」
画面に並ぶ「予約不可」の文字が、やけに目に刺さる。
いっそ、条件を下げて適当な場所で妥協するか――そんな考えが一瞬よぎる。
だが。
「……いや」
ゆっくりと顔を上げる。
「可愛い妹たちのためだろ、ここで妥協してどうする」
ぐっと拳を握る。
「絶対、見つけてやる」
勢いよくキーボードを叩く。
「うおおおおお――っ!」
その気迫とは裏腹に、現実は厳しかった。
検索を重ねても、理想の旅館は一向に見つからない。
気がつけば、窓の外はわずかに明るみ始めていた。
「……マジかよ」
呆然と呟く。
「朝じゃねえか……」
結局、一睡もしていない。
重くなったまぶたをこすりながら、深いため息をつく。
「最悪だ……」
頭はぼんやりし、体は鉛のように重い。
「とりあえず……。旅館探しは、学校から帰ってきてからだな……」
無理やり区切りをつけ、椅子から立ち上がる。
「まずは、夏香の弁当を――」
そこまで言いかけて、ふと動きが止まる。
「あ……」
記憶が繋がる。
「そうか、今日土曜か……」
苦笑が漏れる。
「夏香も冬香も休みだし……部活も午後からって言ってたな」
肩の力が抜けたように、息を吐く。
「……弁当、いらなかったか」
それなら――。
「朝飯だけ用意して、学校行くか……」
まだ完全に覚めきらない頭のまま、拓也はゆっくりとキッチンへ向かった。




