第28話 最後までは
「そ、それじゃあ……今から……冬香に、キ、キスをするからな」
拓也のぎこちない宣言に、冬香は何も言わず、小さく頷いた。そして、静かに瞼を閉じる。
よし、い、いくぞ!
っていうか、めちゃくちゃ緊張するんだけど!
胸の鼓動がうるさいほどに鳴り響く。
落ち着け、俺……。落ち着け……!
「スゥー……ハァー……スゥー……ハァー……」
拓也は天井を仰ぎ、大きく息を吸っては吐き、荒ぶる心をどうにか鎮めようとした。やがて視線を戻し、目の前にある冬香の顔を見つめる。
閉じられた瞳、わずかに震えるまつ毛、そして――柔らかそうな唇。
その一つ一つが、やけに鮮明に目に焼きつく。
拓也はゆっくりと顔を近づけていく。少しずつ、ほんの少しずつ、二人の距離が縮まっていく。
あと少し。
ほんのわずか、唇を寄せれば届く距離。
その時だった。
不意に、拓也の動きが止まる。
まるで何かに引き留められたかのように、ぴたりと。
どうしてだ……?
ここまで来て、なぜ?
望んでいたはずだ。冬香とのキスを。
それなのに、体が動かない。
踏み出せない。
理由の分からない迷いが、胸の奥で絡みつく。
いくら自分に問いかけても、答えはどこにも見当たらなかった。
やがて拓也は、静かに顔を引いた。
その気配に気づいたのか、冬香はゆっくりと瞼を開く。
「あっ、いや……ほら、冬香はさ。夏香と同じことをしてほしいって言ってただろ? だ、だから……キスしちゃったら、同じじゃなくなっちゃうからさ」
「うん……」
小さな声で、冬香は頷く。
「一応……これで、夏香との件は許してもらえたのかな?」
「うん……」
再び頷くと、冬香は静かに立ち上がった。そして、扉の方へと歩き出す。
「なあ、冬香」
「何?」
振り返らずに答えるその背中に、拓也は少し言葉を探してから口を開いた。
「もし……あのまま俺が……。いや、やっぱいいや。それよりさ、冬香は……夏香みたいに、お袋のことで寂しくなったりしないのか?」
わずかな沈黙。
「私は……大丈夫……。私には、夏香がいるから……」
そこで一度言葉を切り、ほんの少しだけ振り向く。
「それに……。いつも、私の傍には……兄さんが、いてくれるから……」
「あ、そ、そっか……。ならいいんだ」
どこか照れくさそうに頭をかきながら、拓也は続ける。
「でもさ、どうしようもなく寂しくなったり、悲しくなったときは……ちゃんと言えよ。そのときは、この俺が全力で励ましてやるからな」
「うん……分かった……」
冬香はそう言って、静かに扉を開け、部屋を出ていった。
扉が閉まる音が、やけに大きく響く。
もし、あのままキスしていたら。
冬香は、どう思っただろうか。
それとも……。
最初から分かっていたのだろうか。自分が最後まで踏み出せないことを。
さっきは聞こうと思ったのに、結局聞けなかった。
「ああ……もう!」
思わず頭を抱える。
何てもったいないことをしたんだ、俺は!
せっかくのチャンスだったのに。
どうして、できなかった?
自分でも分からない。
本当に、自分が馬鹿なんじゃないかとさえ思えてくる。
少し前の自分なら、迷いなくキスしていたはずだ。
それなのに……。
「変わった、のか……?」
ぽつりと漏れた言葉に、答える者はいない。
拓也は大きく息を吐いた。
考えても、分からないものは分からない。
それなら――今は、無理に答えを探す必要もない。
「……やめだ、やめ」
ぽつりと呟き、ベッドに倒れ込む。
天井を見つめながら、拓也はゆっくりと目を閉じた。




