第2話 抗えない筋肉と強制連行~鋼の腕にホールドされて、文字通り手も足も出ません!~
ギュウギュウと骨がきしむほどの熱烈なハグの余韻も冷めやらぬまま、視界がふわりと、ルリの身長ではありえない高さへと浮き上がった。
「ちょ、ちょっと!?」
パニックで甲高い声を上げるルリを腕の中にすっぽりと抱え上げたまま、タクミは上機嫌でズンズンと歩き出した。大木のような太い脚が夜のアスファルトを踏み鳴らすたび、小柄な彼女の体はリズミカルに揺れる。それはまるで、小さな子供がずっと欲しかった一番大切なおもちゃをようやく手に入れ、誰にも渡すまいと胸に抱え込んで歩くような、一切の迷いがない力強い足取りだった。
「どっ、どこに行くの?!」
「僕達のスイートホームだよ♡」
「す、すいーと……?」
タクミの口から嬉しそうに飛び出した、彼の大柄な体躯にはおよそ似つかわしくない甘ったるい単語に、ルリは目を白黒させる。街灯の薄明かりに照らされた彼の顔を見上げると、かつて工房では一度も見たことがないほど、蕩けるような甘い笑みを浮かべていた。熱に浮かされたような瞳はただひたすらに前を見据え、迷うことなく夜の街をぐんぐんと進んでいく。
「お、降ろして! ちょっと、話を聞きなさいよ!」
叫びながら、ルリは自分を閉じ込める分厚い大胸筋や、腰をホールドする丸太のような腕の中でジタバタと激しく暴れてみた。バンバンと小さな両拳でその胸を叩いてみるものの、相手は毎日何十キロという小麦粉の袋を軽々と担ぎ上げ、硬いパン生地を難なく捏ね上げる屈強な大男である。鋼のように鍛え上げられた筋肉の壁の前では、彼女の必死の抵抗など子猫のじゃれ合いにも等しかった。
むしろ彼女が暴れるほどに、「危ないからね」と甘く囁くタクミの腕の力は一層強まり、絶対に逃がさない温かな檻のように彼女の体を深く包み込んでいく。文字通り『手も足も出ない』状態に陥った彼女は、甘い酵母の香りが染み付いた広い胸板にすっぽりと収まったまま、なすすべもなく夜の道を行くしかなかった。
夜風が少し冷たさを増した頃、タクミの迷いのない足取りが止まった。たどり着いたのは、街の喧騒から離れた閑静な住宅街の外れに建つ、一軒の真新しい戸建てだった。
まだ外壁の塗装の匂いが微かに残るその家の前に立つと、彼は片手でルリをしっかりと抱き抱えたまま、もう片方の手で器用にポケットから鍵を取り出した。ガチャリ、と重厚な玄関のドアが開く。
タクミは玄関ホールへ足を踏み入れると、先ほどまでの強引なホールドが嘘のように、まるで崩れやすい繊細なメレンゲでも扱うかのような極上の優しさで、ルリをそっとフローリングの床へと降ろした。
「さあ、開けてみて」
背後から耳元で甘く囁かれ、ルリは恐る恐るリビングへと続く扉のドアノブに手をかけた。ゆっくりと扉を押し開け、パァッと明るいLEDライトが空間を照らし出した瞬間――。
「なっ……何これ……!!」
ルリの口から、息を呑むような感嘆の声が漏れた。
そこにあるはずのふかふかのソファも、大型テレビも、ダイニングテーブルも存在しない。広いリビングスペースを丸ごと陣取っていたのは、一般的な家庭の台所とは次元が違う、一流のベーカリーの厨房そのもののような圧倒的な空間だった。
部屋の中央に王座のように鎮座しているのは、大人数人がかりで取り囲んでもまだ余裕があるほどの、巨大な大理石の作業台だ。クロワッサンやデニッシュなど、温度管理が命となる生地を扱うのに最適な、ひんやりと滑らかで美しい石の表面が、照明を反射して妖しく光っている。
さらに壁際へ視線を移せば、重厚な金属の輝きを放つ最新式の業務用オーブンがずらりと複数台並んでいた。0.1度単位での細かな温度設定はもちろん、ハード系のパンには欠かせない高度なスチーム機能まで備えた、職人なら誰もが喉から手が出るほど欲しがる最高級モデルだ。そのすぐ横には、天候に一切左右されず、完璧な温度と湿度管理でデリケートな生地を育てるための巨大な発酵器まで完備されている。
見上げれば、大量の小麦粉を扱っても部屋中に粉を舞い上がらせないための強力な特殊空調設備が天井を走り、壁の一角には、焼き上がったばかりのパンの熱を逃がすための特注の木製ラックが、天井近くまで届く高さで据え付けられていた。
一切の妥協を許さない、パンを愛し、パンを焼くためだけに設計された狂気的なまでの完璧な空間。ここはまさに、パン職人にとっての究極の『夢の城』だった。
「すごい……! このオーブン、ずっと欲しかった最新モデルじゃない! 見て、このスチームの注水口! 作業台の大理石もひんやりしてて最高だし、これなら夏の暑い日でもクロワッサンの生地がダレずに何層にも美しく伸ばせるわ……!!」
結婚だの、プロポーズだの、強引な連行だのといった先ほどまでの大混乱は一瞬にして宇宙の彼方へ吹き飛び、生粋のパン職人であるルリの瞳は星のようにキラキラと輝き始めた。彼女は重厚なオーブンのガラス扉を愛おしそうに撫で回し、大理石の冷たさを両手のひらを押し付けて確かめながら、歓喜の声を上げて広い厨房の中をウサギのように飛び回る。ルリの頭の中ではすでに、「この完璧な環境で、まずはどんな新作パンから焼き上げようか」と、極上のクロワッサンや艶やかなバゲットのアイデアが次々と泉のように溢れ出していた。
「ねえタクミ、これ――」
しかし。ひとしきり設備を堪能し、満面の笑みで振り返った瞬間。
ルリは、まるで見えない壁にぶつかったかのようにピタリと動きを止めた。
「あ……」
背後では、入り口の壁にゆったりと背中を預けたタクミが、ニコニコとひどく嬉しそうに彼女を見つめていた。自分の世界に入り込んで無邪気にはしゃぐルリの姿を眺めるその瞳には、隠しきれない深い愛情と、『自分の愛する人が、自分の用意した究極のサプライズで喜んでくれている』という、狂おしいほどの熱烈な感情がドロドロに渦巻いていた。逃げ場のない、心臓を直接射抜くような強烈な視線が、一直線にルリへと注がれていたのだ。
それは決して、ただの職人仲間や、切磋琢磨してきたライバルに向けるものではない。一人の男が、愛する一人の女へ向ける、甘く重厚で、少しばかり重たすぎるほどの熱情。
その逃れられない情念の籠もった視線に真正面から当てられ、ルリは一気に現実に引き戻された。
そうだ。自分はついさっき、勘違いとはいえ、彼のプロポーズに「受けて立つわ!」と声高らかに宣言してしまったのだ。ここが彼らの『スイートホーム』として用意された場所だという事実が鮮明にフラッシュバックし、ルリの顔はポンッと音を立てるように耳の先まで真っ赤に染まった。
先ほどまで無邪気にはしゃぎ回っていた手が行き場を失い、ルリは気まずさから自分の服の裾をきゅっと強く握りしめる。心臓がかつてないほど早鐘を打つのを必死に隠しながら、彼女は誤魔化すようにコホンと一つ、小さな咳払いをした。
「……設備は完璧だし、とっても魅力的な夢の城だけど。……私、ここには住めないわ」
強がるように、けれどわずかに震えを含んで発せられたルリのその一言が、静寂に包まれた真新しい厨房に、ぽつりと響き渡った。
つづく




