第1話 「これは決闘ね!」——いいえ、プロポーズです。
香ばしい小麦が焦げる匂いと、甘く微睡むような酵母の香りが、壁の隅々にまで染み込んだ工房。オーブンの熱気がじんわりと満ちるその空間で、二人のパン職人は今日も真剣な眼差しで生地と向き合っていた。
ステンレス製の作業台の前に立つのは、丸太のように太い腕と、岩石を思わせる屈強な肩幅を持つ大男、穂高タクミだ。そのいかつい風貌だけを見れば、誰もが彼を格闘家かアスリートの類だと勘違いするだろう。しかし、ひとたび作業台の前に立てば、彼の纏う空気は一変する。
分厚く無骨なその手は、まるで壊れやすい赤子を抱き上げるかのように、ひどく柔らかく、慈しむように生地を捏ね上げていく。彼の指先から生み出されるパンは、見た目の威圧感からは到底想像もつかないほど、ふんわりと繊細で、口に含むと優しい味がした。
その対面で、小柄な身体を弾ませながら嵐のように工房を駆け回っているのが、窯場ルリである。
「温度よし! 発酵具合、完璧!」
カンッ、と小気味よい音を立てて天板を入れ替える彼女の頭の中は、常に『どうすれば世界で一番美味しいパンを焼けるか』という命題で埋め尽くされている。最高の職人という頂を目指して日々猪突猛進する彼女にとって、目の前で黙々と極上のパンを仕上げていくタクミは、絶対に越えなければならない巨大な壁であり、永遠のライバルだった。
——今日のクロワッサンの層、タクミのより絶対に美しく焼き上げてみせるんだから……!
ルリは額に滲む汗を手の甲で拭いながら、チラチラとタクミの作業台を盗み見ては、一人でバチバチと対抗心の火花を散らしていた。
そんな熱狂的な仕込みと販売の嵐が過ぎ去った、ある日の夕暮れ時。
西日が粉まみれの窓ガラスをオレンジ色に染め上げる頃、表の看板を『CLOSE』にひっくり返し、一息ついていたルリの元へ、タクミが静かに歩み寄ってきた。彼はいつも以上に真剣な表情で、どこか思い詰めたように口を開いた。
「ルリちゃん。……今日の夜、公園の時計台の下に来てほしい。話があるんだ」
タクミがひどく改まった顔で、工房の外で会おうと言ってきたのだ。それだけを言い残し、そそくさと工房を後にしてしまった彼の広い背中を見送りながら、ルリはゴクリと生唾を飲み込んだ。
「ついに、この時が来たわね……!」
静まり返った工房に、ルリの興奮に震える声が響く。彼女の大きな瞳には、メラメラと好戦的な炎が燃え上がっていた。
わざわざ夜の公園に、あんなに真面目な顔で呼び出すなんて理由は一つしかない。きっと、私に内緒でとんでもない新作パンのレシピを完成させたのだ。そして、それを引っ提げて私に真っ向勝負を挑んでくるに違いない。いや、むしろ長年のライバル関係に白黒をつけるための、最終決戦の申し出かもしれない。
「これは決闘ね……!いいわ、受けて立とうじゃないの!」
ルリは意気揚々と呟き、胸の前でギュッと拳を握りしめた。
真っ白な小麦粉があちこちに付着したエプロンを勢いよく外すと、ふわりと粉が宙に舞う。彼女はパン作りのときと同じ、いや、それ以上の気合を全身に漲らせながら、待ち合わせの時計台へと向かって、闘志剥き出しの足早なステップを踏み出した。
夜の公園は、昼間の喧騒が嘘のように静まり返り、火照った頬を撫でる涼しい夜風が木々の葉をかすかに揺らしていた。淡いオレンジ色を放つ街灯の下には、すでに待ち人の姿があった。
暗闇の中に浮かび上がる、熊のように大きく分厚いシルエット——タクミだ。しかし、普段は工房で岩のようにどっしりと構えているその巨体が、なぜか今日に限ってひどく小さく縮こまっている。彼は自分の大きな両手の指先を落ち着きなくモジモジと弄り、時折、苦しそうにため息を吐いては足元の小石を爪先で小突いていた。
——待ちきれなくてフライングしちゃったのね。ふふん、その挑戦、真っ向から受けてあげる!
ルリは気合い十分に深呼吸をすると、街灯の光の中へと堂々たる足取りで踏み込み、腰に手を当ててバシッと仁王立ちになった。
「待たせたわね、タクミ!」
ルリが意気揚々と声をかけた瞬間、タクミの巨体がビクンッと大きく跳ねた。
「ひゃっ!」
およそ屈強な大男から発せられたとは思えない、裏返った短い悲鳴。勢いよく振り返った彼の顔は、薄暗い街灯の下であってもはっきりと分かるほど、耳の先から首筋にかけて茹でダコのように真っ赤に染まっていた。おまけに、その広い額には滝のような大粒の汗がびっしりと浮かび、肩で息をするように呼吸すら乱れている。
その異様なまでの極度の緊張ぶりに、ルリの胸の中で勝負師としての血がドクドクと激しく滾り始めた。
——なるほど……! あそこまで彼を追い詰め、同時に興奮させるほどの会心作。さては、よほど自信のある絶対的な新作パンを持ってきたのね……!
まだ見ぬ究極のパンの幻影に打ち震えながら、ルリはバッと前方を指差した。
「どんな勝負でも逃げないわよ! さあ、きなさい!」
ルリが鼻息も荒く、高らかに宣戦布告の言葉を叩きつけた、まさにその瞬間だった。タクミは何かを覚悟したように目をギュッとつむると、その大きな体を真っ二つに折り曲げるような凄まじい勢いで、バッと深く頭を下げた。
「ぼっ、僕と! け、結婚してください!!」
静まり返った夜の公園に、大男の腹の底から絞り出された震える大音声が、ビリビリと木霊して響き渡った。
「受けて立つわ!」
『勝負』の気配に条件反射し、元気よく天高く拳を突き上げていたルリだったが、一瞬遅れて脳細胞がその言葉の真意を咀嚼し……ピタリと石像のように固まった。
「……って、えっ?」
新作パンの勝負。究極のレシピ対決。職人同士のプライドを賭けた決闘。
先ほどまでルリの頭の中を猛スピードで駆け巡っていた単語の数々が、突風に吹き飛ばされたように一瞬にして消え去っていく。元気よく突き上げた拳はそのままの姿勢で、ルリはポカンと間抜けに口を開け、パチパチと乾いた瞬きを繰り返すことしかできない。目の前には、直角にお辞儀をしたままブルブルと震え続ける、大きな背中があるだけだ。
しかし、プロポーズという一生に一度の大勝負で極限の緊張状態にあったタクミの耳には、その後の間の抜けた「えっ?」という困惑の声は一切届いていなかった。彼の脳内では、ルリが力強く放った「受けて立つわ!」という、あまりにも頼もしすぎる承諾の言葉だけが、歓喜のファンファーレとともに幸せにリフレインしていたのである。
「やったぁぁぁっ!!」
静かな公園の木々を揺らすほどの大歓声。パァァッと、まるで黄金色に焼き上がったパンがオーブンから出てきたかのように、タクミの強面が嘘のように輝いた。彼は満面の笑みで夜空に向かって高々とバンザイをしたかと思うと、感極まった様子でそのままの勢いでポカンとしているルリの腰に手を回し、ふわりと軽々と宙へ抱え上げた。
「絶対に、絶対に幸せにするからねっ!!」
「ちょっ、ちょっと待ってタクミ! 話が、いや、苦しっ!」
ぎゅぅぅぅっ!
岩のように硬く逞しい、けれど稼働中のオーブンのようにポカポカと温かいタクミの腕の中へ、小柄なルリの体はすっぽりと閉じ込められてしまった。
突然宙に浮き上がり、想定外の展開に驚きで完全にパニックに陥ったルリは、ジタバタと足を動かして抗議しようとする。しかし、そんな彼女の混乱をよそに、タクミはボロボロと大粒の嬉し泣きの涙をこぼしながら、頬をすり寄せて力強く彼女を抱きしめ続けていた。そのホールドは絶対に逃がさないというほど力強いのに、不思議と痛みはなく、彼が毎日あの繊細な生地を捏ねるときに見せる、壊れ物を扱うような極上の優しさに満ちていた。
彼の胸板にぴったりと顔を押し付けられる形になったルリの鼻先に、いつも工房で嗅いでいる、あの優しくて甘い酵母の香りがふわりと漂ってくる。
——あ、ダメだ。この力の差じゃ、とても勝てない……。
その温かさと心地よい匂いに包まれているうちに、ルリの胸の中で燃え盛っていた勝負への情熱は、抗うことのできない安心感へとゆっくり溶けていった。
瞬く星屑が散りばめられた夜空の下。真っ白な小麦粉にまみれながら、ひたすらにパンへの情熱だけを追いかけてきた不器用な二人。彼らの長きにわたる熱き『ライバル』としての関係は、この日、甘く温かな勘違いとともに、終わりを告げるのだった。
つづく




