第3話 「僕のこと、騙したの?」~勘違いだと告げたら、巨大なライバルに物理的に退路を塞がれました~
ルリの口から放たれた思いがけない拒絶の言葉を聞いたタクミは、まるで信じられない冗談でも耳にしたかのように、きょとんと目を丸くした。
「どうして?」
静まり返った真新しい厨房に響いたその声色は、心底不思議そうだった。彼にとっては、自分の人生を懸けて愛する彼女のために完璧で究極の『夢の城』を用意し、彼女自身もつい先ほどまで瞳を輝かせ、ウサギのように飛び回って大喜びしてくれていたのだ。それなのになぜ、そこから『住めない』という悲しい結論が結びついてしまうのか。本当に微塵も理解できていないような、親とはぐれて迷子になった無垢な子供のような響きがそこにはあった。
その純粋すぎる戸惑いと悲しげな表情に、ルリの胸の奥が罪悪感でチクリと痛んだ。しかし、このまま勘違いを放置して流されるわけにはいかない。ルリは気まずさを必死に誤魔化すように、服の裾を落ち着きなく弄りながら、視線を泳がせて正直に告げるしかなかった。
「だって……。私、夜の公園に呼び出された時から、ずっと新作パンのレシピを賭けた決闘の申し込みだと思ってたから……。プロポーズだなんて、その、本当にびっくりしてしまって……」
「……は?」
その短く、地を這うような低い一音が空気を震わせた瞬間。先ほどまでタクミの全身をふんわりと包み込んでいた、あの優しくて甘い酵母の香りのような温かな空気が、急激に氷のように冷えてゆく。それはまるで、完璧な温度と湿度を保って稼働していた発酵器の電源が突然ブツリと切られ、真冬の凍てつくような冷気が音もなく忍び込んできたかのような、肌を鋭く刺す急激な温度の変化だった。いつもニコニコとしていて、ルリに対してはどこか温厚な大型犬のようだった彼の大きな背後に、底知れぬドロドロとした黒く重たい執着が渦を巻き始めていた。
「本当にごめんね。私、タクミのこと……ずっと越えなければならない巨大な壁っていうか、最高のライバルとしか見られないの。だから……こういうのは、受け取れないわ」
背筋が凍るような彼の致命的な変化に全く気がつかないまま、ルリは申し訳なさそうに眉尻をハの字に下げ、へへっと小さく乾いた苦笑いを浮かべた。生粋のパン職人であり根っからの『パンバカ』である彼女にとって、毎日隣でパンを焼く彼は恋愛対象などではなく、自らの腕を磨くためにいつか必ず超えたいと願う、絶対的な目標でしかなかったのだ。
「それじゃあ、明日も工房でね!」
なおも目の前の最高級モデルのオーブンへ未練がましく視線を送っていたルリは、空気が冷え切っていることなど微塵も察知しないまま、努めて明るく元気な声を張り上げた。そして、本当なら今すぐにでも生地を捏ねてみたい最新式の業務用オーブンや、ひんやりとした大理石の作業台に対する後ろ髪を引かれるような思いを無理やり断ち切るように、足早に真新しい家を出ようとドアノブへ手を伸ばす。
しかし――。
ドンッ、と。
背後で、床板を軋ませるほど重く鈍い足音が一つ鳴ったかと思うと、ルリの頭上に、彼女の小柄な身体をすっぽりと飲み込むような大きな暗い影が落ちた。
「えっ――」
ひんやりとした金属のドアノブに指先が触れる寸前。ルリの細い手首を、背後から伸びてきたタクミの太く逞しい腕がガシッと容赦なく掴み止めた。
丸太のように太い腕と、岩のように硬く大きな手のひらが、彼女の華奢な手首を万力のようにすっぽりと覆い隠す。それは普段、壊れやすい繊細なパン生地を慈しむように優しくこねる温かい手では決してなかった。狙った獲物を絶対に自分のテリトリーから逃がさない猛獣のような、冷酷なまでの圧倒的な力強さだった。ギリッ、と。細い骨が軋むほどの容赦のない強い力が手首にかかり、ルリは痛みに小さく息を呑んで、その場にピタリと動きを止めた。
「ルリが僕のこと……恋愛感情で見てないのは、知ってたよ」
頭上から降ってきたのは、地を這うようなひどく低く掠れた声だった。工房でいつも「ルリちゃん!」と犬のように尻尾を振って、甘く弾むような声を出していた彼から発せられたとは到底思えない、底冷えのする重たい響き。まだ生活感の一切ない、真新しく静寂に包まれたキッチンに、その声は不気味なほど鮮明に反響した。
「でも、結婚は恋愛とは違うでしょ?休日だってパン屋巡りでほとんど一緒にいるし、パン好きの同士なんだから……もう、結婚してるのと同じだよね?だから、ルリも僕との結婚を少しは考えてくれてるかもって思って、プロポーズしたのに……」
すがりつくような哀願の言葉とは裏腹に、拘束されていないルリのもう片方の手が、背後のドアノブを無意識に探ろうと動いた瞬間だった。
タクミの空いた大きな手がルリの華奢な肩を掴み、そのまま背後の壁へと縫い付けるように力強く押さえ込んだ。退路である玄関への逃げ道を完全に塞がれ、巨大な壁のようなタクミの分厚い身体が、覆い被さるようにのしかかってくる。
密着した至近距離。彼の大柄な体躯から発せられる熱気は、いつものパンを焼くオーブンのような心地よいポカポカとした温もりではなかった。それは、じりじりと容赦なく肌を焦がし、呼吸すら奪っていくような息苦しい熱へと変貌していた。
彼なりに必死に考え抜いたのだ。この、プロのパン職人でさえ喉から手が出るほど欲しがる完璧な厨房という極上の『餌』を用意すれば。パンを何よりも愛する彼女の心を射抜き、この二人だけの究極の『夢の城』に永遠に繋ぎ止められると、本気で信じて疑わなかったのだ。
愛するがゆえの歪んだ計算と、どうしても手に入れたいという切実なまでの執着。それが暗い熱情となって、ルリの小さな身体を逃げ場のない檻のようにすっぽりと包み込んでいた。
「酷いよ……。僕のこと、騙したの?」
耳元で、温度を完全に失った低い非難の言葉が囁かれ、ルリはビクッと大きく肩を震わせた。
つい先ほど公園で彼女が高らかに放った「受けて立つわ!」という無邪気な承諾の言葉を、彼は自分との結婚への完全なる同意だと信じて疑っていなかったのだ。天にも昇るようなぬか喜びをさせられたという深い絶望と、ようやく手に入りかけた何よりも大切なものを無残に奪われるという激しい怒り。そのドロドロに煮詰まった重たい感情が、たった一言の中にねっとりと纏わりついていた。
「ち、ちが……っ! あれは、その……」
誤解だと必死に説明しようと口を開いたルリだったが、極度の緊張と首元に迫る圧迫感で震える喉からは、ヒュッと空気が漏れるような掠れた悲鳴しか出てこなかった。
恐る恐る、壁ドンで覆い被さってくるタクミの顔を見上げる。そこには、工房でいつも見せていた、明るくマイペースで人懐っこい大型犬のような面影は微塵も残っていなかった。そこにいたのは、罠にかかり追い詰められた哀れな獲物を、今度こそ絶対に自分のテリトリーから逃がさないと冷たく見下ろす、恐ろしい捕食者の顔そのものだった。普段は温厚に下がっているタレ目は暗く淀んで濁り、一切の光を吸い込むような底知れぬ翠玉色の瞳が、ルリを真っ直ぐに射抜いている。
美味しいパンを焼くため、毎日何十キロという小麦粉の袋を軽々と運び、硬い生地を難なくこねるためだけに鍛え上げられてきたはずの彼の屈強な筋肉。それが今は、ただ一人の小柄な女を逃がさないよう、壁へ力ずくで押さえ込むという暴力的な目的のためだけに使われているという絶望的な事実。
決して覆せない圧倒的な体格差という壁と、彼の中にどす黒く渦巻く情念の嵐を至近距離で直に叩きつけられ、ルリの背筋をゾクリと氷のような鋭い悪寒が駆け抜けた。
毎日隣で笑い合い、共にパンを焼き、切磋琢磨してきた気弱で優しい大男。そんな彼に対して、ルリは生まれて初めて、決して抗うことのできない、逃げ場のない純粋な『恐怖』を抱いていた。
つづく




