忘れっぽい俺と忘れられない君
-1-
人類は愚か。
と言うと主語がデカすぎるか。
疲れ切っていたり、脳みそが下半身にジャックされている状態だったり、とにかく正常な判断力とか理性と名のつくものを失った人間は愚かな判断をしやすい。
その両方が重なったら最悪だ。
今夜の俺のように。
俺?
あかん。深夜テンションでおかしなこと書いてるわ。
ここまで書いた原稿用紙をクシャリと丸めてクズ箱に投げた。書き損じはゴミ箱のふちに当たって床に落ちた。
「ハァ」
のっそりと書き物机から立ち上がり、屑籠に収め直す。
ふと時計を見たらもう4時だ。
そろそろ寝ないと明日が辛い。
俺は頭を振ってまた机に戻った。
この状態じゃろくに眠れないだろうし、今日中にもう少し書き進めておきたい。
記憶喪失前の俺が執筆していたメスケモとの純愛モノのエロ小説。
きっと遺作になるだろうから。
「ハァ…」
やばい。さっきからため息しか出ない。
俺はエロ小説の世界のことを考えようとした。
そうでないと今晩の大失態のことを延々と考えてしまうから。
ハァ。嘘だ。ペンを動かしながらも頭に思い浮かぶのはナディアのことだけだ。
俺はどうしてあんなこと言っちゃったんだろう。
-2-
この夜の俺はどうかしていた。
すべてはこの一言に尽きる。
ただまあ、同情の余地もあると思うんだ。
出口のない異常な状況。あからさまに怪しいメラニーからの誘い(あの場では行くって言ったけど、勿論いかなかったよ。だってあんな奴信用できないもん)。刻々と迫る祭りの日というリミット(俺の命日予定日)。
こういうこと言うと軽蔑されるのはわかってるけど、死を目前にした人間ってのは…アレだ。そう、自分はこれ以上生きられないとなると…アレだよ。
俺がそうしたいって思ったとかじゃないんだ。生物としての本能というか、自分の種を残すためのある種生存プログラムであって、断じて俺が性欲爆発大魔神だというわけじゃないのは申し添えておきたい。
……すいません。俺は性欲爆発大魔神です。
でも仕方ないんだ。だって[以下言い訳についてはこの節の1行目の冒頭の繰り返しなのでカット。つまり、死を前にした生物は自分の遺伝子を残すためにエッチな気持ちになるので決してふざけているわけでも、本筋から外れた暴走をしてるわけでもないと言いたい]
夕食後。
俺は食器を洗い、ナディアは食卓で児童の宿題の丸付けをして風呂が沸くのを待っている。
いつもの通りの日常。
「終わったよ」
「あなた、ありがとう」
ノートから束の間顔を上げて俺を労わるナディア。
にっこりと下弦を描く綺麗な目。
教室で至近距離で見つめあったあの潤んだ上目遣いを思い出して、俺は思わず喉を鳴らした。ナディアは気づかなかったみたいだけども。
疲労感80%までの俺ならここで理性を稼働させて、ひとっぷろ浴びて邪念を精液と共に排水溝に流す方向に行けた。いつものようにね。
「ねえ、今日やらない?」
脊髄反射でこの言葉が出た。
脳みそを経由しなかったからマジの脊髄反射だったと思う。
ナディアは一瞬何を言われているのかわかってなさそうだった。
俺も自分が何を言ったのか一瞬理解が追いつかなかった。
理解してからは…パニックだった。
レスの原因を解決できてないのに何を言ってるんだとか、こんな情緒も何もない誘い方でいいのかとか。そういう思考がニコ動のコメントみたいに脳内を横切っていった。
ナディアの瞳孔が細まるのが見えて、それ以上はいたたまれなかった。
「あ…風呂入ってくる」
ナディアの唇がかすかに震えた。可愛いあの声で拒絶を聞く勇気はなかった。
俺は逃げるように風呂場に向かい、その後もリビングに戻ることなく寝室へと逃げた。
そりゃ、俺たちは夫婦だから夫が妻を誘うこと自体何ら問題はないよ、普通はね。普通は。
でも俺たちは違うじゃん。
レスの件を差っ引いても、俺が普通じゃないわけだし。
布団をかぶって猛省していると、ドアが軋む音がした。
ナディアが部屋に踏み入る。
ふわりと石鹸の爽やかな香りとほのかなメスの獣臭が鼻孔をくすぐる。
俺はちらと布団から顔を出した(断じて匂いにつられたとかではない…と思う)。
そしてバスタオル一枚体に巻いただけのナディアのしっとりと湿気でボリュームが控えめになった毛皮の背中が見えた。
ナディアがハッとこちらを振り向く。
「き、着替えを持っていくのを忘れてて…その…」
しりすぼみになっていく愛らしい声。
ナディアは俺の情欲でギラッギラした視線をかわすように、クローゼットの方を向いた。落ち着かない前足で引き出しを開けては閉め、ようやく下着の入った段を探り当てたようだ。
黒いレースのショーツを掴みだす。
「あの…」
それを引き出しに戻した。
「さ、さっき言ってたことですけど…」
肉球同士を擦り合わせるように揉み込むナディア。
「いい…です、よ」
「…!?」
聞き間違いかと思った。
そうだと困るから俺は聞き返せなかった。
ただ、布団からゆっくりと身を起こす。
華奢な撫で肩を後ろから抱きしめてもナディアは逃げなかった。
-3-
少ししっとりした質感のモフモフが腕いっぱい。
うわぁ。俺、どうしよう。
ずっと期待していたのに。いや、だからこそ。
イメトレも妄想も一切役に立たなかった。目の前のナディアで頭がいっぱいで。
自分が彼女でどんな妄想をしてたかなんて思い出す余裕もなかった。
「ナディア、こっち向いて」
腕の中で毛皮がもぞもぞと動く。
アイスブルーの瞳が不安と期待に揺れ、瞼を閉じた。
バスタオル越しに鳩尾に押し付けられるたわわと豊かな胸越しにナディアの鼓動が伝わってきて、俺の脈動も加速していく。
ナディアの顔に自分の顔を近づけて…鼻と鼻がぶつかる。
ナディアがそっと息を詰める。
ぷにゅっとした濡れた鼻の感触を楽しみつつ、それだけじゃ足りなくて。
俺は顔の角度を変えて薄い唇に触れた。
わー、やばい。
薄いのになんかもちっとしてて、すごい。
ザラザラとしたこれまた薄い舌に俺の舌先が触れる。ナディアの舌は一瞬ビクッと引っ込んだが、やがて俺の舌に応えた。
唇の熱が静かに離れ、再び見つめあう。
「…」
「…」
「…ベッド、行こうか?」
ナディアは長いまつ毛を伏せた。
そのまつ毛の隙間にきらりと光るものを見て俺はハッとナディアの肩から手を離した。
「あっ…これは…」
ナディアは人差し指で涙をぬぐったが、その指をまた新しい涙が濡らしていき、やがて顔を覆って泣き出した。
「ごめんなさい。やっぱりできない…」
この瞬間の俺の顔をナディアに見られなくてよかった。
ガッカリなんてモンじゃなかったから。
俺はナディアの肩を抱き寄せようとして、ナディアがびくりと体を震わせたので断念した。
ナディアの肩に触れたまま。
「ナディア。俺とできないのって、俺が嫌いだから?それとも、俺が……不死者だから?」
あーぁ。
聞いちゃった。
ナディアは涙で濡れた頬を上げた。
アイスブルーの瞳を驚愕に見開いて。
「知ってたんですか…?」
「知ってたっていうか、教えてもらったっていうか、だけど」
「ごめんなさい。あなたが悪いわけじゃないのはわかってるんだけど…」
また大粒の涙がこぼれる。
「あなたはいなくなってしまうから。これ以上情を移したくない」
ああ、ナディアは知ってるんだな。全部。
そりゃそうか。村長の妹だもんな。
「まだわからないじゃないか。まだ、助かる方法があるかも…!」
「……この会話も二度目ですよ」
ナディアは唇を震わせてまた目元をぬぐった。
「初めてシた翌日に記憶を全部なくしたことも、自力で不死者のことを突き止めたことも、一緒に村の外に逃げて連れ戻されたことも、あなたは覚えてないでしょう?」
「えっ…!」
ナディアは涙を流しながら淡々と言葉を重ねる。
「初めてキスした日のことも、私にプロポーズした日のことも。忘れちゃったでしょう?…あなたが死んでも私は忘れられないのに」
ナディアはどれだけ傷ついてきたんだろう。
俺が傷つけてきたんだろう。
全部知った上で俺と夫婦でいたってことはそういうことだったんだ。
「ごめん…」
悲しませてごめん。
忘れてごめん。
泣きじゃくるナディアに背を向け、俺は寝室を出た。
ドアを閉めても鼻を啜る音は漏れ聞こえてきた。
その後?
こうして書斎の机に向かって泣きながら小説を書いてるってわけ。




