第33話 エピローグ:店も私も、まだ続いている途中の日[前編]
三か月後、マルヨシ成田台店の入口には、閉店告知ではなく、少し色あせた手書きのポップが貼られていた。
――今日も何とかなる売場、作ってます。
赤いペンで書かれたその文字は、雨の日も、晴れの日も、自動ドアの横で客を迎え続けたせいで、端が少し丸まっている。
けれど、誰も剥がそうとはしなかった。
店長の森下が「そろそろ新しいものに替えましょうか」と言ったことはある。
そのときハツエは、即座に首を横に振った。
「まだ働いてるからいいんです。ポップも、店も」
その一言で、ポップはそのまま残った。
マルヨシ成田台店は、閉店しなかった。
正確に言えば、完全に閉店候補から外れたわけではない。
本部の決定は、あくまで「一年間の営業継続」と「地域惣菜・小容量需要モデル店舗としての再検証」だった。
存続確定。
完全勝利。
そういう派手な言葉ではない。
一年間。
再検証。
条件付き。
本部らしい慎重な表現だった。
でも、その紙を見たとき、京子は泣いた。
休憩室で、森下店長も泣いた。
内藤くんも目を赤くした。
村田さんは「もう、店長につられるじゃない」と言いながらハンカチを出した。
ハツエだけは泣かなかった。
その代わり、腕を組んで、少しだけ鼻をすすりながら言った。
「泣くのは一年後にして。今は売場作るよ」
その声で、みんな笑った。
そして本当に、その日の夕方も売場を作った。
唐揚げを揚げ、小さめ鮭弁を詰め、煮物小鉢を並べ、ローストビーフ小皿に黒こしょうを振った。
閉店しないと決まった日も、店は特別な祝賀会場にはならなかった。
ただ、いつもより少しだけ明るい惣菜売場になっただけだった。
でも京子には、それが何よりこの店らしいと思えた。
*
季節は、夏の入り口に差しかかっていた。
午後四時の空はまだ明るく、店の外には西日が残っている。
駐車場の端ののぼりは、少し色が褪せながらも風に揺れていた。
京子は白衣に着替え、帽子をかぶり、手を洗った。
鏡に映る自分の顔は、ここに来たばかりのころとは少し違っている。
やつれていない。
強がってもいない。
疲れている日はある。
落ち込む日もある。
数字を見て、胸がざわつく日もまだある。
それでも、朝起きて、今日行く場所がある。
作るものがある。
待っている人がいる。
そのことが、京子を少しずつ普通の場所へ戻してくれた。
前の会社に戻ったわけではない。
本部の正社員になったわけでもない。
今も京子は、マルヨシ成田台店の惣菜売場で働くパートスタッフだ。
けれど、ただのパートとも少し違う。
京子は、売場の記録係になった。
正式な肩書きではない。
店長が冗談で「惣菜改善担当」と呼び、ハツエが「記録魔」と呼び、内藤くんが「表の人」と呼ぶ。
どれも、少し違う気がする。
京子自身は、ただ「見る人」でいいと思っている。
売れた数を見る。
残った数を見る。
値引きの時間を見る。
客の表情を見る。
誰かが言った小さな言葉を見る。
そして、忘れないように書く。
それが今の京子の仕事だった。
「篠宮さん、小さめ鮭弁、今日は六でいくよ」
ハツエの声が飛んだ。
「はい。初回四、バック二ですね」
「そう。晴れてるし、月曜だけど給料日明け。軽め需要はある」
「ちょこっと唐揚げは?」
「八。追加は七時判断」
「ローストビーフ小皿は?」
「今日は三。月曜だから無理しない」
「わかりました」
京子は作業台の端の表に書き込んだ。
天気、晴れ。
気温、やや高め。
小さめ鮭弁六。
ちょこっと唐揚げ八。
ローストビーフ小皿三。
ほしいものメモ、通常運用。
ハツエは隣で、鮭を焼き台から取り出していた。
あれからハツエは、ちゃんと休憩を取るようになった。
完璧ではない。
忙しい日はすぐに休憩を飛ばそうとする。
そのたびに京子が言う。
「ハツエさん、休憩です」
ハツエは言う。
「五分だけ」
京子は答える。
「十五分です」
内藤くんも、最近は加勢するようになった。
「大森さん、僕ここ見てます」
村田さんも言う。
「休まない人は、からあげ大臣に怒られますよ」
美羽の名前を出されると、ハツエはだいたい笑って休憩室へ行く。
検査は今も続いている。
大きな異常は見つかっていないが、通院は必要だ。
ハツエはそれを以前より隠さなくなった。
病名を全員に言いふらしているわけではない。
でも、休む必要があるときは「病院」と言う。
無理な日は、無理だと言う。
京子はそれを、良い変化だと思っている。
店を続けるためには、働く人も続かなければならない。
その当たり前のことを、成田台店はようやく少しずつ覚え始めていた。
*
午後五時を過ぎると、惣菜売場が少しずつ動き始めた。
最初に小さめ鮭弁を手に取ったのは、年配の女性だった。
「あら、今日は鮭が大きいわね」
「少しだけです」
ハツエが笑う。
「少しだけがうれしいのよ」
女性は小さめ鮭弁と煮物小鉢をかごに入れた。
京子はメモに書く。
十七時十二分。高齢女性。小さめ鮭弁+煮物。
「少しだけがうれしい」
次に来たのは、制服姿の男子高校生だった。
部活帰りらしく、髪が汗で少し乱れている。
彼はちょこっと唐揚げを二つ取り、紙パックのお茶と一緒にかごへ入れた。
最近、学生の利用が増えた。
乃々花が友人に話したのかもしれないし、試食会の日に配った小さなチラシが効いたのかもしれない。
イートインの使い方も、少し変わった。
長居を禁止するのではなく、「一人一品購入」「閉店十分前まで」「テーブルは使ったら拭く」という簡単なルールを掲示した。
その下には、ハツエがまた赤いペンで書き足した。
――勉強も休憩も、ほどほどにね。
その一言のおかげか、イートインは以前より少し落ち着いて使われるようになった。
乃々花は、今も来る。
毎日ではない。
テスト前や、部活帰りや、母の夜勤の日に来る。
この三か月で、乃々花は少し変わった。
前より顔を上げて挨拶するようになった。
晴斗を連れてくる日もある。
弟の分だけではなく、自分の分の弁当も自然に買うようになった。
その日も、午後六時過ぎに乃々花が来た。
制服姿で、髪を耳にかけ、手には英単語帳ではなく、進路のパンフレットを持っていた。
「こんばんは」
「こんばんは。今日は勉強ですか?」
「進路のやつ、見ようと思って」
「進路」
「はい。まだ全然決まってないんですけど」
乃々花は少し照れたように笑った。
「でも、栄養士とか、食べ物に関わる仕事もいいかなって」
京子は少し驚いた。
「食べ物に?」
「はい。ここでごはん買うようになってから、食べることって大事なんだなって思って」
乃々花は売場を見た。
「大げさですけど」
「大げさじゃないと思います」
京子は静かに言った。
食べることは大事だ。
母のレシートが、それを教えてくれた。
真帆が自分の分を買う姿が、それを教えてくれた。
石動の塩サバが、それを教えてくれた。
乃々花は小さめ鮭弁を一つと、ローストビーフ小皿を一つ手に取った。
「今日はごほうびですか」
「進路のパンフレットをもらってきたので、ごほうびです」
「点数制ではなくなりましたね」
「最近、ちょっと緩くしました」
「いいと思います」
「京子さんもですよ」
乃々花は真顔で言った。
「自分に厳しすぎるの、まだたまに顔に出てます」
京子は少し笑った。
「気をつけます」
「はい」
乃々花はイートインへ向かった。
窓際の席に座り、パンフレットを広げる。
その横に、小さめ鮭弁とローストビーフ小皿。
京子は、その姿を見ながらメモに書いた。
乃々花さん。進路。食に関わる仕事に興味。
イートイン利用。小さめ鮭弁+ローストビーフ。
ごほうびの基準、少し緩くなる。
最後の一行は資料には入らないだろう。
でも、京子のノートには必要だった。
*
午後六時半、真帆と美羽が来た。
美羽は、相変わらず惣菜売場に来るとまっすぐ唐揚げを探す。
「ちょこっと!」
「今日はあるよ」
京子が言うと、美羽は得意げにうなずいた。
「みう、わかる」
「何が?」
「からあげあるひ」
真帆が笑った。
「毎日言ってるだけでしょ」
「ちがうもん」
美羽はちょこっと唐揚げを一つ手に取った。
それから、売場の小さめ鮭弁を見た。
「ママの?」
真帆は少し考えて、うなずいた。
「そう。今日はママの」
「みうは?」
「美羽はおうちのごはんと唐揚げ」
「ママもごはん?」
「ママもごはん」
その会話を聞くたびに、京子は胸が温かくなる。
以前の真帆は、自分の分を後回しにしていた。
娘の唐揚げを買い、残りを少し食べるだけだった。
今は違う。
真帆は自分の分を選ぶ。
小さめ鮭弁の日もあれば、ローストビーフの日もある。
給料日には唐揚げ弁当を二つ買う。
贅沢になったわけではない。
生活が劇的に変わったわけでもない。
でも、売場に選択肢が増えたことで、真帆の食卓は少しだけ変わった。
「最近、母もここに来るの楽しみにしてるんです」
真帆が言った。
「ローストビーフですか?」
「それもありますけど、煮物小鉢が好きみたいで。少しずつ食べられるのがいいって」
「嬉しいです」
「あと、美羽がこの店のこと、からあげのお店って呼んでます」
「スーパーではなく?」
「はい。からあげのお店」
美羽が胸を張った。
「からあげのおみせ!」
ハツエが横から言う。
「うち、青果も鮮魚もあるんだけどねえ」
「からあげ!」
「はいはい、からあげ大臣には勝てないね」
美羽は満足そうに笑った。
真帆は、京子を見て少しだけ真面目な顔になった。
「お店、続いてよかったです」
「まだ一年です」
「でも、一年あるんですよね」
「はい」
「一年あれば、きっとまた変わりますよ」
その言葉に、京子は少し驚いた。
真帆は続けた。
「私も、三か月で少し変わったので」
そう言って、真帆はかごの中の小さめ鮭弁を見た。
「自分の分を買うようになっただけですけど」
「それは、かなり大きいと思います」
京子が言うと、真帆は少し照れたように笑った。
「そうですね。私には大きかったです」
その一言も、京子はノートに残すことにした。
*
金曜日には、石動が来た。
いつもの時間。
いつもの歩き方。
いつもの塩サバ弁当。
ただ、この三か月で、少しだけ変化があった。
石動は、月に一度だけ塩サバ弁当を定価で買うようになった。
最初は試食会の日だけだった。
その後、京子が「無理なさらないでください」と言っても、石動は静かに笑って言った。
「続いてほしいものには、たまには定価を払うんだよ」
それは、石動なりの応援だった。
もちろん、毎週ではない。
半額で買う日もある。
その日はいつものように「間に合った」とつぶやく。
京子は、それが好きだった。
定価で買う日も、半額で買う日も、どちらも石動の金曜日だ。
その日、石動は半額になる少し前に来た。
売場には塩サバ弁当が二つ残っている。
「今日は、どうしますか」
京子が聞くと、石動は少し考えた。
「今日は待とうかな」
「はい」
「半額になるまで、少し店を歩くよ」
石動はそう言って、ゆっくり店内を回った。
青果売場で大根を見て、花売場で仏花を選び、また惣菜売場に戻ってくる。
午後九時。
京子は塩サバ弁当に半額シールを貼った。
ぺたり。
石動がそれを手に取る。
「今日も間に合いました」
京子が言うと、石動は静かにうなずいた。
「今日も間に合った」
その声を聞くと、京子はいつも少し安心する。
この店の一週間が、ちゃんと金曜日までたどり着いた気がするのだ。
*




