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半額になるまえに  作者: えんびあゆ


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最終話 エピローグ:店も私も、まだ続いている途中の日[後編]

一年継続が決まってからも、もちろん良いことばかりではなかった。


雨の日には廃棄が出た。

予約メモを忘れて帰ってしまう客もいた。

値引き前の商品を抱えて待とうとする人も、完全にはいなくならなかった。


イートインで長居しすぎる学生に、ハツエが注意した日もある。

ローストビーフ小皿がまったく売れない月曜日もあった。

小さめ鮭弁を作りすぎて、二つ廃棄した日には、京子はまた少し落ち込んだ。


それでも、以前とは違った。


失敗したら記録する。

天気を見る。

時間を見る。

客の言葉を見る。

次の日に少し変える。


誰か一人が抱え込まない。


それが、成田台店の新しい決まりだった。


神崎は、月に一度店に来るようになった。


最初のころは本部の監査のように見えたが、最近は少し違う。


売場を見て、ハツエにからかわれ、店長と数字を確認し、京子のノートを少しだけ見る。


ある日、神崎はローストビーフ小皿を買って帰った。


ハツエがすかさず言った。


「神崎さんもごほうび?」


神崎は少しだけ困った顔をして答えた。


「本部会議を乗り切ったので」


それ以来、ハツエは神崎のことをときどき「本部のごほうびさん」と呼ぶ。


神崎は否定しない。


人は少しずつ、店になじむのだと京子は思った。



その日の休憩時間、京子は休憩室の椅子に腰を下ろし、スマホを開いた。


画面には、久しぶりに前職の同僚からのメッセージが届いていた。


『今日は何の日でした?』


その一文を見た瞬間、京子は思わず小さく笑った。


懐かしい問いだった。


半額シールが怖かった日。

ローストビーフが誰かのごほうびになった日。

母のレシートを見つけた日。

廃棄箱の中に晩ごはんを見た日。

閉店告知が貼られなかった日。


あのころの京子は、その問いに答えることで、ようやく一日を自分の中に置くことができていた。


今日は何の日だったのだろう。


閉店を免れた記念日ではない。

特別なイベントの日でもない。

本部会議の日でも、試食会の日でもない。


ただ、マルヨシ成田台店がいつも通り開いている日。

ハツエが唐揚げを揚げ、乃々花がイートインで進路のパンフレットを開き、真帆と美羽がちょこっと唐揚げを買い、石動が次の金曜日を待っている日。


京子は少し考えて、返事を打った。


『今日は、店も私もまだ続いている途中の日です』


送信してから、京子はしばらく画面を見つめた。


すぐに返信が来た。


『いい日ですね』


京子は、ふっと笑った。

前職で、最後まで京子の体調を気にかけ、退職後も連絡をくれた数少ない同僚だった。

思えば、あの短いやりとりに、京子は何度も助けられていたのかもしれない。


『はい。いい日です』


スマホを伏せると、休憩室の外からハツエの声が聞こえた。


「篠宮さん、休憩終わり。小さめ鮭弁、あと二つ」


「はい」


京子は立ち上がり、白衣の裾を整えた。


店も、自分も、まだ続いている途中。

その途中に、今日の誰かの晩ごはんがある。


京子は休憩室を出て、惣菜売場へ向かった。



売場に戻ると、夕方の惣菜コーナーには、静かな時間が流れていた。


天気は晴れ。

客足は普通。

小さめ鮭弁は六個作って、すでに四個売れている。

残りは二つ。


値引き開始までは、まだ少し時間があった。


午後七時四十分。


イートインでは、乃々花が進路のパンフレットを見ている。

晴斗は隣で宿題をしている。

真帆と美羽は、さっきちょこっと唐揚げと小さめ鮭弁を買って帰った。

ハツエは休憩室で十五分休憩中。

内藤くんは焼きそばの残数を書いている。


売場には、静かな時間が流れていた。


京子は小さめ鮭弁の棚を見た。


残り二つ。


そのうち一つを、年配の男性が手に取った。

値札を見て、少し考え、かごに入れる。


半額には、まだなっていない。


京子は、その動きを見て、胸の奥が温かくなった。


続いて、若い女性が売場に来た。

仕事帰りらしく、肩にバッグをかけ、少し疲れた顔をしている。


彼女は小さめ鮭弁の最後の一つを見つけた。


手に取る。

値段を見る。

ポップを見る。


――半額になる前に、ちょうどいい晩ごはん。


女性は少しだけ笑った。


「これくらいでいいんだよね」


小さく、独り言のように言った。


そして、その小さめ鮭弁をかごに入れた。


最後の一つが、半額になる前に売れた。


売場から、小さめ鮭弁が消えた。


京子はその棚を見つめた。


空になった棚。


けれどそれは、寂しい空白ではなかった。


誰かに届いたあとの空白だった。


京子は、ゆっくりと記録表に書いた。


十九時四十三分。小さめ鮭弁完売。

半額前。

若い女性「これくらいでいいんだよね」


ペンを止める。


その言葉が、胸に残った。


これくらいでいい。


完璧なごはんではなくてもいい。

豪華でなくてもいい。

誰かに誇れる食卓でなくてもいい。


今日の自分にちょうどよくて、温かくて、食べきれて、少しだけ安心できるなら。


それで、今日も何とかなる。


京子は空になった棚を見ながら、母のレシートを思い出した。


半額の唐揚げ弁当。

泣いて帰ってきた中学生の自分。

母の字。


半額でも、この子にはごちそうに見えますように。


あの願いは、長い時間をかけて京子に届いた。

そして今、京子は売場に立っている。


半額シールを貼る前の商品が、誰かの手に渡っていく。

小さな弁当が、誰かの今日に向かって運ばれていく。


京子は、ふっと笑った。


大きな勝利ではない。

奇跡でもない。

ただ、小さめ弁当がひとつ、半額になる前に売れただけ。


けれど、その小さな出来事の中に、この物語の全部がある気がした。


ハツエが休憩室から戻ってきた。


「小さめ鮭弁、売れた?」


「はい。完売です」


「半額前?」


「半額前です」


「いいね」


ハツエは売場を見て、満足そうにうなずいた。


「今日も何とかなりそうだ」


「はい」


京子は笑った。


自動ドアが開く。

また別の客が入ってくる。

店内放送が流れる。

油の音がバックヤードから聞こえる。


マルヨシ成田台店は、今日も開いている。


明日もきっと、誰かが来る。

唐揚げを探す子がいる。

塩サバを待つ人がいる。

イートインで息を整える人がいる。

自分の分を少し迷いながらかごに入れる人がいる。


その全部を、京子はもう、数字だけでは見ない。


でも、数字からも逃げない。


見る。

書く。

手を動かす。

無理しすぎない。

一人で抱えない。


そして、今日も誰かのごはんが温かいうちに届くように、売場を作る。


京子は空になった小さめ鮭弁の棚を見つめたまま、もう一度笑った。


半額になる前に私たちはまだ、誰かの今日を温めることができる。

そう、半額になる前に――。



-完-

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