最終話 エピローグ:店も私も、まだ続いている途中の日[後編]
一年継続が決まってからも、もちろん良いことばかりではなかった。
雨の日には廃棄が出た。
予約メモを忘れて帰ってしまう客もいた。
値引き前の商品を抱えて待とうとする人も、完全にはいなくならなかった。
イートインで長居しすぎる学生に、ハツエが注意した日もある。
ローストビーフ小皿がまったく売れない月曜日もあった。
小さめ鮭弁を作りすぎて、二つ廃棄した日には、京子はまた少し落ち込んだ。
それでも、以前とは違った。
失敗したら記録する。
天気を見る。
時間を見る。
客の言葉を見る。
次の日に少し変える。
誰か一人が抱え込まない。
それが、成田台店の新しい決まりだった。
神崎は、月に一度店に来るようになった。
最初のころは本部の監査のように見えたが、最近は少し違う。
売場を見て、ハツエにからかわれ、店長と数字を確認し、京子のノートを少しだけ見る。
ある日、神崎はローストビーフ小皿を買って帰った。
ハツエがすかさず言った。
「神崎さんもごほうび?」
神崎は少しだけ困った顔をして答えた。
「本部会議を乗り切ったので」
それ以来、ハツエは神崎のことをときどき「本部のごほうびさん」と呼ぶ。
神崎は否定しない。
人は少しずつ、店になじむのだと京子は思った。
*
その日の休憩時間、京子は休憩室の椅子に腰を下ろし、スマホを開いた。
画面には、久しぶりに前職の同僚からのメッセージが届いていた。
『今日は何の日でした?』
その一文を見た瞬間、京子は思わず小さく笑った。
懐かしい問いだった。
半額シールが怖かった日。
ローストビーフが誰かのごほうびになった日。
母のレシートを見つけた日。
廃棄箱の中に晩ごはんを見た日。
閉店告知が貼られなかった日。
あのころの京子は、その問いに答えることで、ようやく一日を自分の中に置くことができていた。
今日は何の日だったのだろう。
閉店を免れた記念日ではない。
特別なイベントの日でもない。
本部会議の日でも、試食会の日でもない。
ただ、マルヨシ成田台店がいつも通り開いている日。
ハツエが唐揚げを揚げ、乃々花がイートインで進路のパンフレットを開き、真帆と美羽がちょこっと唐揚げを買い、石動が次の金曜日を待っている日。
京子は少し考えて、返事を打った。
『今日は、店も私もまだ続いている途中の日です』
送信してから、京子はしばらく画面を見つめた。
すぐに返信が来た。
『いい日ですね』
京子は、ふっと笑った。
前職で、最後まで京子の体調を気にかけ、退職後も連絡をくれた数少ない同僚だった。
思えば、あの短いやりとりに、京子は何度も助けられていたのかもしれない。
『はい。いい日です』
スマホを伏せると、休憩室の外からハツエの声が聞こえた。
「篠宮さん、休憩終わり。小さめ鮭弁、あと二つ」
「はい」
京子は立ち上がり、白衣の裾を整えた。
店も、自分も、まだ続いている途中。
その途中に、今日の誰かの晩ごはんがある。
京子は休憩室を出て、惣菜売場へ向かった。
*
売場に戻ると、夕方の惣菜コーナーには、静かな時間が流れていた。
天気は晴れ。
客足は普通。
小さめ鮭弁は六個作って、すでに四個売れている。
残りは二つ。
値引き開始までは、まだ少し時間があった。
午後七時四十分。
イートインでは、乃々花が進路のパンフレットを見ている。
晴斗は隣で宿題をしている。
真帆と美羽は、さっきちょこっと唐揚げと小さめ鮭弁を買って帰った。
ハツエは休憩室で十五分休憩中。
内藤くんは焼きそばの残数を書いている。
売場には、静かな時間が流れていた。
京子は小さめ鮭弁の棚を見た。
残り二つ。
そのうち一つを、年配の男性が手に取った。
値札を見て、少し考え、かごに入れる。
半額には、まだなっていない。
京子は、その動きを見て、胸の奥が温かくなった。
続いて、若い女性が売場に来た。
仕事帰りらしく、肩にバッグをかけ、少し疲れた顔をしている。
彼女は小さめ鮭弁の最後の一つを見つけた。
手に取る。
値段を見る。
ポップを見る。
――半額になる前に、ちょうどいい晩ごはん。
女性は少しだけ笑った。
「これくらいでいいんだよね」
小さく、独り言のように言った。
そして、その小さめ鮭弁をかごに入れた。
最後の一つが、半額になる前に売れた。
売場から、小さめ鮭弁が消えた。
京子はその棚を見つめた。
空になった棚。
けれどそれは、寂しい空白ではなかった。
誰かに届いたあとの空白だった。
京子は、ゆっくりと記録表に書いた。
十九時四十三分。小さめ鮭弁完売。
半額前。
若い女性「これくらいでいいんだよね」
ペンを止める。
その言葉が、胸に残った。
これくらいでいい。
完璧なごはんではなくてもいい。
豪華でなくてもいい。
誰かに誇れる食卓でなくてもいい。
今日の自分にちょうどよくて、温かくて、食べきれて、少しだけ安心できるなら。
それで、今日も何とかなる。
京子は空になった棚を見ながら、母のレシートを思い出した。
半額の唐揚げ弁当。
泣いて帰ってきた中学生の自分。
母の字。
半額でも、この子にはごちそうに見えますように。
あの願いは、長い時間をかけて京子に届いた。
そして今、京子は売場に立っている。
半額シールを貼る前の商品が、誰かの手に渡っていく。
小さな弁当が、誰かの今日に向かって運ばれていく。
京子は、ふっと笑った。
大きな勝利ではない。
奇跡でもない。
ただ、小さめ弁当がひとつ、半額になる前に売れただけ。
けれど、その小さな出来事の中に、この物語の全部がある気がした。
ハツエが休憩室から戻ってきた。
「小さめ鮭弁、売れた?」
「はい。完売です」
「半額前?」
「半額前です」
「いいね」
ハツエは売場を見て、満足そうにうなずいた。
「今日も何とかなりそうだ」
「はい」
京子は笑った。
自動ドアが開く。
また別の客が入ってくる。
店内放送が流れる。
油の音がバックヤードから聞こえる。
マルヨシ成田台店は、今日も開いている。
明日もきっと、誰かが来る。
唐揚げを探す子がいる。
塩サバを待つ人がいる。
イートインで息を整える人がいる。
自分の分を少し迷いながらかごに入れる人がいる。
その全部を、京子はもう、数字だけでは見ない。
でも、数字からも逃げない。
見る。
書く。
手を動かす。
無理しすぎない。
一人で抱えない。
そして、今日も誰かのごはんが温かいうちに届くように、売場を作る。
京子は空になった小さめ鮭弁の棚を見つめたまま、もう一度笑った。
半額になる前に私たちはまだ、誰かの今日を温めることができる。
そう、半額になる前に――。
-完-




