第32話 今日も何とかなる[後編]
午後五時。
売場には、いつも通り商品が並んだ。
会議の結果を、まだ客には大きく知らせていない。
閉店告知が凍結されたと言っても、存続が決まったわけではない。
けれど、従業員の空気は少しだけ違っていた。
内藤くんは、いつもより大きな声で「いらっしゃいませ」と言った。
村田さんは、レジへ向かう途中で京子に親指を立てた。
森下店長は、やたらと売場を歩き回っていた。
ハツエは、唐揚げを揚げながら言った。
「店長、落ち着きないね」
「嬉しいんだと思います」
「泣いたあとだからね」
「ハツエさんも、少し嬉しそうです」
「少しじゃないよ。かなり」
ハツエは笑った。
その笑顔は、久しぶりに無理のないものだった。
午後六時半、乃々花が来た。
制服姿で、今日は晴斗も一緒だった。
「こんばんは」
「こんばんは」
京子が挨拶すると、乃々花は少し不安そうに聞いた。
「お店、どうなりましたか」
京子は、言葉を選んだ。
「すぐに閉まる話は、いったん止まりました」
乃々花の目が少し大きくなった。
「本当ですか」
「はい。ただ、三か月がんばって、ちゃんと結果を出す必要があります」
「じゃあ、まだ来られるんですね」
「来られます」
乃々花は、ほっとしたように息を吐いた。
晴斗が言った。
「さけ、ある?」
「ありますよ」
京子が小さめ鮭弁を指さすと、晴斗はうなずいた。
「かわ、たべる」
乃々花が笑った。
「本当に食べてよ」
「たべる」
京子は、そのやり取りを見ながら思った。
この光景を、三か月後にも見たい。
そのために、また明日から記録する。
作る数を考える。
休憩を取る。
無理しすぎない。
でも諦めない。
午後七時半には、真帆と美羽が来た。
美羽は今日も元気に言った。
「からあげ!」
「今日はちょこっと唐揚げあるよ」
京子が言うと、美羽は嬉しそうに笑った。
真帆は、少し緊張した顔で聞いた。
「お店、閉まらないんですか」
「すぐに閉まる話は止まりました。まだ正式に残ると決まったわけではありませんが、三か月、続けられるように試していきます」
真帆は、胸に手を当てた。
「よかった……」
その声は、小さかったが、本物だった。
美羽が首をかしげる。
「おみせ、ある?」
「あるよ」
真帆が言った。
「まだ、あるって」
美羽は京子を見た。
「がんばった?」
京子は少し笑った。
「みんなで頑張ったよ」
「からあげだいじんも?」
「もちろん。からあげ大臣の応援も効いたと思う」
美羽は満足そうにうなずいた。
「じゃあ、からあげかう」
「はい。ありがとうございます」
京子は、ちょこっと唐揚げを美羽の前に置いた。
その小さなパックが、今日は少し特別に見えた。
*
金曜日には、石動がいつも通り来た。
閉店告知が凍結されたことを、京子は簡単に伝えた。
「すぐに閉まることは、いったん止まりました」
石動は塩サバ弁当を手に取り、静かにうなずいた。
「そうか」
それだけだった。
でも、口元が少しだけゆるんだ。
「それは、よかった」
「はい」
「今日は半額まで待とうと思っていたが」
石動は塩サバ弁当の値札を見た。
「定価で買うよ」
「無理なさらなくて大丈夫です」
「無理ではないよ」
石動は静かに言った。
「続いてほしいものには、たまには定価を払わないとね」
その言葉は、冗談のようでいて、とても重かった。
京子は深く頭を下げた。
「ありがとうございます」
「こちらこそ。来週も、塩サバを頼むよ」
「はい」
取り置きはしない。
でも、金曜日に塩サバを並べる。
それが、この店の約束だった。
*
三か月の猶予が決まった日の夜、京子はアパートでノートを開いた。
今日のページには、書くことがたくさんあった。
閉店告知、凍結。
三か月の追加検証。
地域惣菜モデル店舗として存続検討。
現場負担も検証対象。
神崎さん、本部資料担当。
店長、店舗全体数字。
ハツエさん、運用と休憩管理。
内藤くん、残数メモ。
村田さん、昼間の声。
私、売場の言葉と数字をつなぐ。
そこまで書いて、京子はペンを止めた。
泣きそうになった。
でも、泣くより先に、もう一行を書いた。
今日のところは、負けなかった。
ハツエの言葉。
勝ったわけではない。
まだ三か月後はわからない。
数字が出なければ、また閉店案は戻ってくる。
厳しい日もあるだろう。
廃棄が出る日も、売れない日も、疲れる日もある。
それでも、今日のところは負けなかった。
閉店告知は貼られなかった。
店は明日も開く。
京子は、母のレシートをノートから取り出した。
薄れた印字。
唐揚げ弁当。
半額。
母の字。
――半額でも、この子にはごちそうに見えますように。
京子は、レシートにそっと触れた。
「お母さん」
小さく声に出した。
「今日、少しだけ守れたよ」
何を守れたのかは、うまく言えない。
店を完全に守れたわけではない。
過去をやり直せたわけでもない。
母に直接ありがとうを言えたわけでもない。
でも、母があの夜買ってくれた半額弁当と同じように、誰かの今日を温める場所を、少しだけ先へつなげた。
それだけは、確かだった。
スマホが震えた。
前職の同僚からだった。
『今日は何の日でした?』
京子は、しばらく画面を見つめた。
そして、打った。
『今日は、閉店告知が貼られなかった日でした』
すぐに返信が来た。
『よかった。本当に』
そのあと、もう一通。
『でも、無理しすぎないでくださいね』
京子は少し笑った。
みんな、それを言う。
ハツエも。
同僚も。
そして、京子自身も。
無理しすぎない。
でも、手は動かす。
それが今の京子の答えだった。
京子は返信した。
『はい。一人で抱えないで、店として続けます』
送信して、スマホを伏せた。
*
翌朝。
マルヨシ成田台店の入口には、新しい紙が貼られた。
閉店告知ではない。
ハツエの丸い字と、店長が印刷した文章が並んだ、小さなお知らせだった。
――いつもご利用ありがとうございます。
――成田台店では、地域の皆さまの毎日の食卓に合わせて、
――小さめ弁当・ちょこっと惣菜・ほしいものメモを試験的に続けています。
――「こんなのがあると助かる」という声を、ぜひお聞かせください。
その下に、ハツエが赤いペンで一言書き足していた。
――今日も何とかなる売場、作ってます。
京子はその紙を見て、少しだけ笑った。
「ハツエさん、これ、少しくだけすぎでは」
「いいの。うちの店っぽいでしょ」
「はい」
「閉店告知より、ずっといい顔してる」
京子はうなずいた。
その紙の前を、客が通る。
年配の女性が立ち止まり、「あら、いいわね」と言った。
学生が「ちょこっと惣菜だって」と友人と笑った。
真帆が美羽に読んで聞かせた。
乃々花が少しだけ笑って、イートインへ向かった。
作業服の男性が、紙を見て小さくうなずいた。
店は今日も開いている。
それは当たり前のようで、当たり前ではない。
京子は白衣の袖を整え、惣菜売場へ向かった。
棚には、まだ何も並んでいない。
だから、これから並べる。
小さめ鮭弁。
ちょこっと唐揚げ。
ローストビーフ小皿。
塩サバ弁当。
煮物小鉢。
焼きそば。
今日の誰かの晩ごはん。
ハツエが油の温度を見ながら言った。
「篠宮さん、唐揚げいくよ」
「はい」
「今日も手を動かす」
「はい」
「無理しすぎない」
「はい」
「でも、ちゃんと売る」
「はい」
ハツエは、鶏肉を油に入れた。
じゅわっ、と音が立つ。
その音は、今日の店が始まる音だった。
京子は記録表を開いた。
日付を書く。
天気を書く。
製造数を書く。
そして、余白に小さく書いた。
閉店告知は貼られなかった。
でも、本当の勝負は今日から。
今日も何とかなる店を、今日も作る。
ペンを置く。
売場の向こうで、自動ドアが開いた。
朝の光と一緒に、最初のお客が入ってくる。
マルヨシ成田台店の一日が、また始まった。




