第31話 今日も何とかなる[前編]
月曜日の朝、京子はいつもより早く店に着いた。
まだ開店前のマルヨシ成田台店は、昼間の顔とは少し違っている。
青果売場の照明は半分だけ点き、床には清掃後のわずかな湿り気が残っていた。
レジは眠っているように静かで、惣菜売場の棚も、まだ空っぽだった。
商品が並んでいないスーパーは、不思議なほど心細い。
いつもそこにあるはずの唐揚げも、鮭弁当も、ちょこっと唐揚げも、まだ何もない。
透明な棚と、値札だけが、今日これから始まる一日を待っている。
京子はバックヤードに入り、白衣に着替える前に、休憩室へ向かった。
机の上には、昨日遅くまでまとめた資料が置かれている。
表紙には、こう書いた。
――マルヨシ成田台店地域惣菜・小容量需要改善トライアル報告
――「今日も何とかなる」店を残すために
最後の副題は、かなり迷った。
本部向け資料としては、少し感情的すぎる。
もっと硬くするなら、「地域密着型小容量惣菜施策による収益改善可能性について」くらいが適切なのかもしれない。
けれど、京子はあえて残した。
真帆が書いてくれた言葉。
――この店があると、家に帰る前に「今日も何とかなる」と思えます。
その言葉を、資料の中心に置きたかった。
この店は、誰かの人生を劇的に変える場所ではない。
大きな夢を叶える場所でも、特別な日のためだけの場所でもない。
でも、今日を何とかする場所ではある。
仕事帰りに。
子どもを迎えたあとに。
部活帰りに。
一人の家へ帰る前に。
妻のいない金曜日に。
母のいない娘が、母のレシートを読み返した朝に。
今日も何とかなる。
それは、スーパーが持つ一番静かな力なのだと、京子は思っていた。
資料は、三部に分けた。
第一部は数字。
小容量惣菜導入後の定価販売率。
廃棄点数の推移。
ほしいものメモの利用件数。
イートイン利用者の購買点数。
天候別の売れ方。
曜日別の傾向。
第二部は生活の理由。
お客様の声を、カテゴリごとに整理した。
食べきり需要。
子育て世帯の夕食補助。
仕事帰りの軽食需要。
高齢者の少量需要。
学生の居場所としてのイートイン。
習慣購買。
予約メモによる安心。
第三部は存続案。
成田台店を、大型総合スーパーとして無理に伸ばすのではなく、地域の夕食需要に特化した小型惣菜強化店舗として再定義する。
小容量惣菜、予約メモ、イートイン、曜日別の定番商品、雨天時の製造調整を組み合わせ、廃棄を抑えながら定価販売率を高める。
最後に、必要な本部支援。
設備更新の一部縮小案。
惣菜什器の小規模改修。
イートイン維持のための清掃導線見直し。
予約メモの簡易運用ルール承認。
小容量商品の原価設定見直し。
京子一人で作った資料ではない。
ハツエの売場感覚。
店長の店舗全体の数字。
内藤くんの残数メモ。
村田さんの昼間の客の声。
神崎の本部向けフォーマット。
そして、客たちのカード。
それらがなければ、この紙はできなかった。
京子は資料の角をそろえ、深く息を吸った。
今日、本部とのオンライン会議がある。
閉店告知の紙が貼られるか。
それとも、もう少し時間をもらえるか。
決まる日だった。
*
「篠宮さん、顔が固い」
白衣に着替えた京子が惣菜バックヤードに入ると、ハツエがすぐに言った。
「固いですか」
「冷蔵庫の昨日のごはんくらい固い」
「それはかなり固いですね」
「温めれば戻るから大丈夫」
ハツエは、唐揚げ用の鶏肉をボウルに入れながら笑った。
今日は月曜日で、唐揚げ増量の日ではない。
けれど、ちょこっと唐揚げは少量作ることになっている。
会議の日でも、売場は止まらない。
小さめ鮭弁を作る。
煮物小鉢を詰める。
焼きそばを並べる。
唐揚げを揚げる。
値札を貼る。
今日も誰かの晩ごはんが必要だから。
「ハツエさん、今日は休憩、ちゃんと取ってください」
「会議の日まで言う?」
「会議の日だから言います」
「はいはい。十七時半と十九時ね」
「記録します」
「もう諦めた」
ハツエは肩をすくめた。
その顔色は、少しよかった。
先週受けた再検査の結果は、ひとまず大きな異常なしだった。
再検査の継続は必要だが、すぐに治療が始まるような状況ではないと医師に言われたらしい。
ハツエはその結果を、いつものように軽く言った。
「とりあえず、まだ唐揚げ揚げていいってさ」
それを聞いたとき、京子はその場で泣きそうになった。
ハツエはすぐに「泣くなら玉ねぎ切ってからにして」と言った。
完全に安心できるわけではない。
それでも、今日ハツエがここにいる。
その事実だけで、京子は少し強くなれた。
「資料、持ってきた?」
ハツエが聞いた。
「はい。休憩室に置いてあります」
「見直しすぎて、紙が擦り切れてない?」
「少しだけ」
「やっぱり」
ハツエは笑ったあと、少しだけ真面目な顔になった。
「今日、何を言われても、売場は開けるからね」
「はい」
「会議でいいこと言われても、悪いこと言われても、今日の閉店作業はある」
「はい」
「それ、忘れないように」
京子はうなずいた。
以前の自分なら、会議の結果ですべてが決まるように感じていた。
でも今は違う。
会議は大事だ。
本部の判断も大事だ。
けれど、店は会議の中ではなく、売場で動いている。
小さめ鮭弁を待つ人がいる。
イートインで少し休む人がいる。
塩サバの金曜日を待つ人がいる。
美羽は火曜日の唐揚げを待っている。
今日の売場を、閉店の不安だけで埋めてはいけない。
*
午後二時、本部との会議が始まった。
休憩室のノートパソコンに、数人の顔が映っている。
本部の店舗開発部長。
経営企画の担当者。
惣菜部門の統括。
神崎。
森下店長。
ハツエ。
京子。
京子は、本来この場に出る立場ではない。
パートスタッフだ。
けれど神崎が、売場改善記録の作成者として同席を求めてくれた。
ハツエは「篠宮さんが出ないなら、あたしも出ません」と言った。
店長は「出てください」と情けないくらい必死に言った。
だから京子は、今ここにいる。
神崎が最初に説明した。
成田台店が重点検討店舗であること。
閉店案が準備されていたこと。
一方で、この二週間の現場改善によって、惣菜部門の廃棄率と定価販売率に変化が出ていること。
数字が画面に映る。
小容量惣菜導入後、対象商品の定価販売率が上昇。
廃棄点数は天候によるブレはあるが、雨天時製造調整導入後に減少傾向。
ほしいものメモ利用日は、該当商品の廃棄が少ない。
イートイン利用者の購買点数は平均より高い。
もちろん、期間は短い。
サンプル数も少ない。
劇的な改善ではない。
それでも、変化は出ていた。
本部の部長が言った。
「短期間の取り組みとしては興味深いですが、これだけで存続判断を変えるのは難しいですね」
京子の胸が少し冷えた。
予想していた言葉だった。
神崎も落ち着いて答える。
「おっしゃる通りです。今回の資料は、即時存続判断を求めるものではなく、閉店決定前に追加検証期間を設定する提案です」
「追加検証」
「はい。成田台店を従来型スーパーとして見ると収益改善余地は限定的ですが、地域惣菜・小容量需要のモデル店舗として再定義する余地があります」
神崎の声は、本部の言葉そのものだった。
京子が拾った声を、神崎が本部に通る形へ翻訳している。
店舗開発部長が画面越しに資料をめくる。
「定性情報がかなり多いですね」
京子は思わず背筋を伸ばした。
神崎が答える前に、京子は口を開いていた。
「はい。多く入れています」
画面の向こうの視線が、京子に集まる。
一瞬、喉が詰まりそうになった。
でも、ハツエが隣で小さく言った。
「ゆっくり」
京子はうなずき、話し始めた。
「数字だけを見ると、成田台店は厳しい店舗だと思います。私も以前、本部側で店舗の数字を見ていました。その見方が必要なことも理解しています」
自分の声が、思ったより落ち着いている。
「ただ、売場に立ってわかったのは、数字に出る前の理由があるということです。半額まで待つ人がいる理由。小さい唐揚げが選ばれる理由。イートインに高校生が残る理由。金曜日に塩サバ弁当が売れる理由」
京子は資料のページをめくった。
そこには、カードの言葉が短く載っている。
――仕事帰りに寄れる店があると助かる。
――家に帰る前に「今日も何とかなる」と思えます。
――家でも学校でもない場所で、少しだけ一人になれます。
――週の終わりに帰ってきた気がします。
「これらは単なる感想ではなく、購買理由です。小容量化や予約メモ、イートイン維持は、こうした生活需要に対応する施策です」
部長は黙って聞いている。
京子は続けた。
「もちろん、情だけでは店は残せません。でも、情を無視した数字だけでも、この店の需要は見えません。今回の提案は、感情論ではなく、生活の理由を数字に接続するためのものです」
言い終えたあと、京子は自分の手が少し震えていることに気づいた。
でも、声は最後まで出た。
画面の向こうで、惣菜部門の統括が口を開いた。
「小容量惣菜の展開は、他店でも試せる可能性がありますね。ただ、現場負担はどうですか」
その質問には、ハツエが答えた。
「増えます」
即答だった。
京子は少し驚いた。
普通なら、ここで「大丈夫です」と言いたくなる。
だがハツエは、まっすぐ言った。
「小さい商品を増やすと、パック数も手間も増えます。予約メモも、誰かが見ないといけない。だから、人を増やさずに全部やれと言われたら、続きません」
休憩室の空気が少し張る。
ハツエは続けた。
「でも、製造数が読みやすくなって廃棄が減れば、閉店作業は楽になります。売れ残った弁当を捨てる精神的なしんどさも減ります。だから、手順をちゃんと決めて、人数に見合う範囲でやれば続けられます」
惣菜統括はうなずいた。
「現場負担も含めて検証が必要、ということですね」
「はい。売上だけ見て『もっとやれ』は困ります」
ハツエらしい言い方に、森下店長が少し焦った顔をした。
けれど画面の向こうの統括は、意外にも笑った。
「その通りです」
次に、経営企画の担当者が言った。
「設備更新費の問題は残ります。存続する場合でも、すべての設備を更新するのは難しい」
森下店長が資料を見ながら答える。
「惣菜・イートイン・日配導線を中心に、改修範囲を絞る案を出しています。鮮魚側の大規模改修は今回は見送り、小容量惣菜と予約メモ運用を優先する形です」
店長の声は、いつもよりしっかりしていた。
京子は少し驚いた。
頼りなく見えていた店長が、ちゃんと店長の声で話している。
この人も変わっている。
あるいは、京子が今まで見ていなかっただけなのかもしれない。
神崎が最後に言った。
「本部として閉店案を準備する必要があることは理解しています。しかし、成田台店には、従来の売場指標だけでは拾えなかった地域需要があります。少なくとも三か月の追加検証期間を設定し、改善施策の継続可否を判断したいと考えます」
沈黙が落ちた。
画面越しの数人が、資料を見ている。
京子は、息をするのも忘れそうだった。
ハツエが隣で、机の下から京子の肘を軽くつついた。
息をしろ、ということらしい。
京子は小さく息を吸った。
やがて、店舗開発部長が口を開いた。
「わかりました」
その一言で、京子の心臓が跳ねた。
「成田台店の閉店告知準備は、いったん凍結します」
凍結。
まだ、撤回ではない。
存続決定でもない。
でも、告知は貼られない。
「三か月の追加検証を正式に設定します。惣菜小容量化、予約メモ、イートイン購買、廃棄削減の効果を週次で確認。設備更新案は縮小版で再試算。結果次第では、地域惣菜モデル店舗としての存続を検討します」
京子は、すぐには理解できなかった。
閉店告知が、凍結された。
店が、今すぐ終わるわけではなくなった。
森下店長が、震えた声で言った。
「ありがとうございます」
ハツエは、画面に向かって頭を下げた。
神崎も静かにうなずいた。
京子は、ただ資料の端を握っていた。
泣きそうだった。
でも、まだ会議中だ。
部長が続けた。
「ただし、これは猶予です。三か月後に数字が伴わなければ、再度閉店判断になります」
「承知しています」
神崎が答える。
「現場負担にも注意してください。改善施策で従業員が疲弊しては意味がない」
その言葉に、ハツエが小さく笑った。
「それ、本部から言ってもらえると助かります」
画面の向こうの部長も、少しだけ笑った。
会議は、三十分ほどで終わった。
画面が暗くなる。
休憩室に、静けさが戻った。
誰も、すぐには動かなかった。
やがて、森下店長が眼鏡を外した。
「……凍結、です」
声が少し震えている。
ハツエが言った。
「泣いていいよ、店長」
「泣いてません」
「泣いてるでしょ」
「少しだけです」
森下店長は、笑いながら涙を拭いた。
京子も、もう我慢できなかった。
目元が熱くなり、視界がにじむ。
「篠宮さん」
ハツエが言った。
「泣くなら今。あと十五分で唐揚げ見るから」
その言い方があまりにもハツエらしくて、京子は泣きながら笑った。
「はい」
「よし」
ハツエは、京子の肩を軽く叩いた。
「勝ったわけじゃないよ」
「はい」
「でも、今日のところは負けなかった」
「はい」
「それで十分」
京子は、何度もうなずいた。
閉店告知は、まだ貼られない。
店は、明日も開く。
その事実が、胸の奥でゆっくり広がっていった。
*




