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半額になるまえに  作者: えんびあゆ


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30/34

第30話 最後の試食会[後編]

午後六時過ぎ、作業服の男性が来た。


いつもより少し早い。


「あ、今日は何かやってるんですか」


「試食会です」


京子が答えると、男性は少し照れたように笑った。


「じゃあ、もらってもいいですか」


「もちろんです」


男性はちょこっと唐揚げを食べた。


「いつもの味ですね」


「はい」


「これ、助かってます」


その言葉に、京子はすぐ反応した。


「どんな時に助かりますか」


男性は少し考えた。


「仕事終わりですかね。普通の弁当だと重い日もあるし、でも何も食べないと寝る前に腹減るし。小さいのがあると、ちょうどいいです」


「ほしいものメモはどうですか」


「あれ、かなり助かります。残業が読める日は、あとで取りに来られると思うだけで楽です」


「ありがとうございます。カードに書いていただけますか」


「字、汚いですけど」


「今日、二人目です」


「みんな言うんですね」


男性は笑い、カードに書いた。


――仕事終わりに寄れる店があると助かる。

――小さい弁当や唐揚げがあると、夜遅くても食べやすい。

――予約メモは安心する。


京子は、そのカードを受け取ったとき、手が少し震えそうになった。


この一枚は、閉店告知の紙に負けない。


そう思った。


午後六時半、真帆と美羽が来た。


美羽は試食台を見るなり、目を丸くした。


「からあげいっぱい!」


「今日は試食だよ」


真帆が笑う。


ハツエが、美羽に小さく切った唐揚げを渡した。


「はい、よく噛んでね」


「おいしい!」


「知ってるでしょ」


「しってる!」


美羽の声に、周りの客が少し笑った。


真帆はローストビーフの試食を少し食べて、うなずいた。


「母がこれ、好きなんです」


「お母様、今日はいらっしゃらないんですか」


「今日は家で待ってます。これから買って帰ります」


真帆は少し迷ってから、京子に言った。


「あの、カード、書きたいです」


「ありがとうございます」


京子がカードを渡すと、真帆は少し時間をかけて書いた。


美羽はその横で、ハツエと唐揚げについて話している。


「みう、からあげすき」


「どのくらい好き?」


「いっぱい!」


「じゃあ、からあげ大臣だね」


「だいじん?」


「偉い人」


「みう、からあげだいじん!」


ハツエが笑う。


京子は、その声を聞きながら、真帆のカードを受け取った。


そこには、丁寧な字で書かれていた。


――仕事帰りに子どもと寄れる場所です。

――前は子どもの分だけ買うことが多かったけれど、小さいお弁当やおかずが増えて、自分の分も選びやすくなりました。

――この店があると、家に帰る前に「今日も何とかなる」と思えます。


京子は、文字を最後まで読んで、胸がいっぱいになった。


今日も何とかなる。


それは、スーパーにとって最高の言葉かもしれない。


特別なごちそうではない。

人生を劇的に変えるわけでもない。

でも、家に帰る前に「今日も何とかなる」と思える。


そのための唐揚げ。

そのための小さめ弁当。

そのためのローストビーフ小皿。


「ありがとうございます」


京子が言うと、真帆は少し照れたように笑った。


「こちらこそ。ちゃんと残るといいですね、この店」


「はい」


美羽が横から言った。


「おみせ、なくならない?」


京子は、美羽の目を見た。


「なくならないように、みんなで頑張ってるよ」


「みうも?」


「美羽ちゃんも、からあげ大臣として応援してくれる?」


美羽は胸を張った。


「おうえんする!」


その声が、京子の胸に灯りのように残った。



午後七時。


乃々花が来た。


今日は晴斗を連れていない。

制服姿で、リュックを背負い、少し遠慮がちに試食台へ近づいてきた。


「今日は試食会なんですね」


「はい。よかったら」


「じゃあ、少しだけ」


乃々花はローストビーフの試食を一口食べた。


「これ、やっぱりごほうびの味ですね」


「今日は何点でしたか?」


京子が聞くと、乃々花は少し笑った。


「今日は点数じゃなくて、部活で後輩に教えるのを頑張りました」


「それはローストビーフですね」


「ですよね」


乃々花は少し嬉しそうに笑った。


そのあと、試食台の横のカードを見た。


「これ、書いていいんですか」


「もちろんです」


「じゃあ、書きます」


乃々花は、少し考えながらペンを動かした。


カードには、こう書かれていた。


――イートインで勉強できるのが助かります。

――家でも学校でもない場所で、少しだけ一人になれます。

――でも店員さんやお客さんがいるので、ひとりぼっちではない感じがします。

――小さめ弁当は、弟と自分のごはんにちょうどいいです。


京子は、読みながら息を止めそうになった。


ひとりぼっちではない感じ。


その一文だけで、イートインの価値が伝わる気がした。


乃々花は少し恥ずかしそうに言った。


「変ですか」


「全然」


京子は首を横に振った。


「とても大事な言葉です」


「なら、よかったです」


乃々花は、いつもの小さめ鮭弁とローストビーフ小皿を買った。


「今日は弟じゃなくて、自分用です」


「ごほうびですね」


「はい。後輩に教えたごほうびです」


そう言って、少しだけ誇らしそうに笑った。


その笑顔を見て、京子は思った。


この店がなくなるということは、ただ一つの買い物場所が消えることではない。


誰かが、自分を少し認める場所が消えることでもある。



午後七時半。


石動が来た。


金曜日にしては少し早かった。

いつものように、ゆっくりと入口から入ってくる。


試食台に気づくと、少し驚いた顔をした。


「今日はにぎやかだね」


ハツエがすぐに声をかける。


「石動さん、試食していってくださいよ」


「私はいつもの塩サバでいいんだが」


「塩サバの試食はないです」


「それは残念だ」


石動は少し笑った。


京子は、胸の中が少し温かくなるのを感じた。


石動が冗談を言う。

それだけで、今日の試食会をやってよかったと思えた。


「ローストビーフ、いかがですか」


京子が勧めると、石動は小さなカップを受け取った。


「家内は、こういうものはあまり作らなかったな」


「そうなんですか」


「焼き魚と煮物の人だったからね」


そう言いながら、石動はローストビーフを食べた。


「うん。これはこれで、うまい」


「ありがとうございます」


「でも、私は塩サバだな」


ハツエが笑う。


「知ってます」


石動は試食台のカードを見た。


「これ、書くのかい」


「よろしければ」


京子はカードとペンを渡した。


石動は、少し時間をかけて書いた。


字はしっかりしていた。


――金曜日に塩サバ弁当を買います。

――妻がいたころの習慣を、今も少し続けられています。

――この店があると、週の終わりに帰ってきた気がします。


京子は、そのカードを読んで、思わず目頭が熱くなった。


週の終わりに帰ってきた気がします。


それは、石動が以前言った言葉でもあった。


でも、カードに書かれると、また違う重さがあった。


この一文は、本部に届くだろうか。


届かせなければならない。


京子はそう思った。


石動は塩サバ弁当を一つ買った。

まだ半額の時間ではなかった。


京子は少し驚いた。


「今日は、半額前ですが」


「今日は試食会だからね」


石動は静かに言った。


「たまには、店に少し貢献しないと」


ハツエが、少しだけ目を丸くした。


「石動さん、そんなこと考えなくていいんですよ」


「いや、考えるよ」


石動は塩サバ弁当をかごに入れた。


「なくなると困るからね」


その言葉は、静かだった。

でも、とても強かった。


京子は、深く頭を下げた。


「ありがとうございます」


「こちらこそ。いつも塩サバを残しておいてくれて、ありがとう」


「取り置きはしていません」


京子が言うと、石動は少し笑った。


「知っているよ。だから、間に合うと嬉しいんだ」


その言葉に、京子はまた胸を突かれた。


便利にしすぎないこと。

余白を残すこと。

間に合ったと思えること。


それも、この店の価値だ。



午後八時。


試食会は、予定よりも少し早く落ち着いた。


用意した試食はほとんどなくなっていた。

アンケートカードは、二十枚以上集まっている。


京子はそれを一枚ずつ整理しながら、胸の中に静かな興奮を感じていた。


数字だけではない。

声が集まっている。


しかも、それは単なる「なくならないでください」という感情だけではなかった。


一人分がほしい。

子どもと分けたい。

仕事帰りに軽く食べたい。

イートインで少し休みたい。

予約メモが安心。

塩サバが習慣。

半額まで待たずに選べるのが助かる。


これは需要だ。

地域にある、確かな需要。


神崎もカードを見ていた。


「これは、かなり強いですね」


静かな声だった。


「本部に出せますか」


京子が聞くと、神崎はうなずいた。


「出します。ただし、感情的に見せるのではなく、施策と結びつけます」


「はい」


「小容量化、食べきり需要、閉店前不安の軽減、イートイン購買、習慣購買。今日の声は、全部その裏付けになります」


ハツエが横から言った。


「本部語にしても、ちゃんと元の言葉も残してよ」


「残します」


神崎はカードを丁寧に重ねた。


「むしろ、元の言葉がないと弱いです」


その言葉に、京子は少しだけ神崎を見直した。


この人も、少し変わったのかもしれない。


いや、違う。


京子がこの人を見る目も、少し変わったのだ。


神崎は敵ではない。

ただ、本部の言葉を持っている人だ。


その言葉を、こちらのために使ってもらえばいい。


午後八時半、通常の値引き時間になった。


試食会の影響か、惣菜はいつもよりよく動いていた。


ちょこっと唐揚げは完売。

小さめ鮭弁も完売。

ローストビーフ小皿も完売。

塩サバ弁当は石動が定価で買ったこともあり、残りは少ない。

チキン南蛮弁当と焼きそばが少し残っているだけだった。


ハツエは売場を見て、ぽつりと言った。


「今日、いい顔してるね。店が」


京子は売場を見た。


確かに、そう思った。


閉店の顔ではない。

試食の匂いと、人の声と、少しだけ残った湯気のある顔。


店が、生きている顔だった。



閉店後、休憩室では小さな反省会が行われた。


ハツエ、京子、森下店長、神崎、内藤くん、村田さん。


いつもの休憩室が、少しだけ狭く感じる。


机の上には、集まったカードが並んでいた。


森下店長は、一枚一枚を読んで、何度も鼻をすすっていた。


「店長、また泣いてる」


ハツエが言う。


「泣いてません」


「泣いてるでしょ」


「少しだけです」


村田さんが笑った。


「でも、これは泣いちゃうわよ。こんなに書いてくれるなんて」


内藤くんもカードを一枚手に取った。


「これ、僕が試食渡した高校生の子かも。『唐揚げがあると部活帰りに元気が出る』って」


「それも大事」


京子は言った。


「若い人の利用も、ちゃんと入れましょう」


神崎はタブレットを開き、整理し始めた。


「今日のカードをカテゴリ分けします。食べきり、小容量、子育て、仕事帰り、イートイン、習慣購買、予約メモ、情緒的価値」


「情緒的価値って何」


ハツエが聞く。


「石動さんの塩サバのようなものです」


「ああ、そういう言い方になるのね」


「本部に通すためです」


「はいはい」


京子は、カードの一枚を手に取った。


真帆のカード。


――この店があると、家に帰る前に「今日も何とかなる」と思えます。


それを見て、京子は思った。


この言葉だけは、絶対に消したくない。


神崎がどれだけ本部語にしても、この一文はそのまま残してほしい。


「神崎さん」


「はい」


「このカードの言葉、要約しないで入れたいです」


京子は真帆のカードを差し出した。


神崎は読んで、うなずいた。


「入れましょう」


「いいんですか」


「これは、成田台店の価値を一番短く表しています」


ハツエもカードを覗き込んだ。


「今日も何とかなる、か」


その声は、少しだけ震えていた。


「いいね。スーパーっぽい」


京子はうなずいた。


スーパーは、人生を大きく変える場所ではない。

でも、今日を何とかする場所にはなれる。


それで十分すぎるくらい、大事だ。



アパートに帰ったのは、午後十一時を過ぎていた。


いつもより遅い。


けれど、不思議と疲れは重くなかった。

体は疲れている。足も痛い。髪には唐揚げとローストビーフと焼き魚の匂いが混ざっている。


それでも、胸の奥に灯りがある。


京子はテーブルに座り、ノートを開いた。


金曜。

ちょこっと試食会。

試食ほぼ完了。

アンケートカード二十数枚。

定価販売好調。

廃棄少。

石動さん、塩サバ弁当を定価で購入。

真帆さん「今日も何とかなる」

乃々花ちゃん「ひとりぼっちではない感じ」

作業服男性「予約メモは安心」

高齢女性「残さなくていい」

美羽ちゃん、からあげ大臣。


最後の一行を書いたところで、京子は少し笑った。


からあげ大臣。


本部資料には、たぶん入らない。

でも、京子のノートには必要だった。


今日の売場にあった明るさの象徴のような言葉だったから。


京子はページの下に、大きく書いた。


スーパーは、今日を何とかする場所。


そして、その下にもう一行。


成田台店は、まだ必要とされている。


書いた瞬間、涙がこぼれた。


悲しい涙ではなかった。


嬉しいだけでもない。


不安もある。

まだ決定は出ていない。

試食会がうまくいったからといって、本部がすぐに判断を変えるわけではない。


それでも今日、京子は確かに見た。


この店を必要としている人たちの顔を。

その人たちが、自分の言葉で書いてくれたカードを。

ハツエが嬉しそうに売場を見ていた顔を。

神崎が元の言葉を残すと言った瞬間を。

森下店長が泣きそうになっていた姿を。


これは、もう京子一人の思いではない。


店の声だ。


京子はスマホを手に取った。


前職の同僚から、今日もメッセージが来ていた。


『今日は何の日でした?』


京子は少し考えた。


そして、こう返した。


『今日は、店がちゃんと生きているのを見た日でした』


返信は少し遅れて来た。


『それは、きっと残すべき日ですね』


京子は画面を見て、静かにうなずいた。


残すべき日。


だから、ノートに残す。

カードに残す。

資料に残す。


閉店告知の紙に負けないように。


京子は、今日集めたカードのコピーを一部だけバッグから取り出した。

原本は店に置いてきたが、神崎が本部提出用にスキャンする前に、店用の控えを作ってくれたのだ。


その一枚一枚を、テーブルの上に並べる。


字が曲がっているもの。

短いもの。

びっしり書かれているもの。

子どもが書いたらしい大きなひらがな。


――からあげおいしい。なくならないで。


おそらく美羽の字だった。


京子は、そのカードを見て、また少し泣いた。


なくならないで。


これほどまっすぐな言葉はない。


京子はカードをそっと重ね、ノートに挟んだ。


明日、神崎は資料をまとめる。

店長は店舗全体の数字を出す。

ハツエは、いつものように売場に立つ。

京子は、カードの言葉と売場の数字をつなげる。


そして、次の会議に出す。


最後の試食会にはしない。


そのための、今日だった。


京子は電気を消し、布団に入った。


目を閉じると、試食台の前に立つ人たちの顔が浮かんだ。


唐揚げを食べる美羽。

カードを書く真帆。

ローストビーフを「ごほうびの味」と言う乃々花。

塩サバ弁当を定価で買う石動。

「予約メモは安心する」と書く作業服の男性。

笑いながら客に声をかけるハツエ。


みんな、今日を生きていた。


その今日を、マルヨシ成田台店は少しだけ支えていた。


京子は、胸の中で静かに言った。


最後にしない。


その言葉は、祈りではなく、明日やることの名前だった。



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