第30話 最後の試食会[後編]
午後六時過ぎ、作業服の男性が来た。
いつもより少し早い。
「あ、今日は何かやってるんですか」
「試食会です」
京子が答えると、男性は少し照れたように笑った。
「じゃあ、もらってもいいですか」
「もちろんです」
男性はちょこっと唐揚げを食べた。
「いつもの味ですね」
「はい」
「これ、助かってます」
その言葉に、京子はすぐ反応した。
「どんな時に助かりますか」
男性は少し考えた。
「仕事終わりですかね。普通の弁当だと重い日もあるし、でも何も食べないと寝る前に腹減るし。小さいのがあると、ちょうどいいです」
「ほしいものメモはどうですか」
「あれ、かなり助かります。残業が読める日は、あとで取りに来られると思うだけで楽です」
「ありがとうございます。カードに書いていただけますか」
「字、汚いですけど」
「今日、二人目です」
「みんな言うんですね」
男性は笑い、カードに書いた。
――仕事終わりに寄れる店があると助かる。
――小さい弁当や唐揚げがあると、夜遅くても食べやすい。
――予約メモは安心する。
京子は、そのカードを受け取ったとき、手が少し震えそうになった。
この一枚は、閉店告知の紙に負けない。
そう思った。
午後六時半、真帆と美羽が来た。
美羽は試食台を見るなり、目を丸くした。
「からあげいっぱい!」
「今日は試食だよ」
真帆が笑う。
ハツエが、美羽に小さく切った唐揚げを渡した。
「はい、よく噛んでね」
「おいしい!」
「知ってるでしょ」
「しってる!」
美羽の声に、周りの客が少し笑った。
真帆はローストビーフの試食を少し食べて、うなずいた。
「母がこれ、好きなんです」
「お母様、今日はいらっしゃらないんですか」
「今日は家で待ってます。これから買って帰ります」
真帆は少し迷ってから、京子に言った。
「あの、カード、書きたいです」
「ありがとうございます」
京子がカードを渡すと、真帆は少し時間をかけて書いた。
美羽はその横で、ハツエと唐揚げについて話している。
「みう、からあげすき」
「どのくらい好き?」
「いっぱい!」
「じゃあ、からあげ大臣だね」
「だいじん?」
「偉い人」
「みう、からあげだいじん!」
ハツエが笑う。
京子は、その声を聞きながら、真帆のカードを受け取った。
そこには、丁寧な字で書かれていた。
――仕事帰りに子どもと寄れる場所です。
――前は子どもの分だけ買うことが多かったけれど、小さいお弁当やおかずが増えて、自分の分も選びやすくなりました。
――この店があると、家に帰る前に「今日も何とかなる」と思えます。
京子は、文字を最後まで読んで、胸がいっぱいになった。
今日も何とかなる。
それは、スーパーにとって最高の言葉かもしれない。
特別なごちそうではない。
人生を劇的に変えるわけでもない。
でも、家に帰る前に「今日も何とかなる」と思える。
そのための唐揚げ。
そのための小さめ弁当。
そのためのローストビーフ小皿。
「ありがとうございます」
京子が言うと、真帆は少し照れたように笑った。
「こちらこそ。ちゃんと残るといいですね、この店」
「はい」
美羽が横から言った。
「おみせ、なくならない?」
京子は、美羽の目を見た。
「なくならないように、みんなで頑張ってるよ」
「みうも?」
「美羽ちゃんも、からあげ大臣として応援してくれる?」
美羽は胸を張った。
「おうえんする!」
その声が、京子の胸に灯りのように残った。
*
午後七時。
乃々花が来た。
今日は晴斗を連れていない。
制服姿で、リュックを背負い、少し遠慮がちに試食台へ近づいてきた。
「今日は試食会なんですね」
「はい。よかったら」
「じゃあ、少しだけ」
乃々花はローストビーフの試食を一口食べた。
「これ、やっぱりごほうびの味ですね」
「今日は何点でしたか?」
京子が聞くと、乃々花は少し笑った。
「今日は点数じゃなくて、部活で後輩に教えるのを頑張りました」
「それはローストビーフですね」
「ですよね」
乃々花は少し嬉しそうに笑った。
そのあと、試食台の横のカードを見た。
「これ、書いていいんですか」
「もちろんです」
「じゃあ、書きます」
乃々花は、少し考えながらペンを動かした。
カードには、こう書かれていた。
――イートインで勉強できるのが助かります。
――家でも学校でもない場所で、少しだけ一人になれます。
――でも店員さんやお客さんがいるので、ひとりぼっちではない感じがします。
――小さめ弁当は、弟と自分のごはんにちょうどいいです。
京子は、読みながら息を止めそうになった。
ひとりぼっちではない感じ。
その一文だけで、イートインの価値が伝わる気がした。
乃々花は少し恥ずかしそうに言った。
「変ですか」
「全然」
京子は首を横に振った。
「とても大事な言葉です」
「なら、よかったです」
乃々花は、いつもの小さめ鮭弁とローストビーフ小皿を買った。
「今日は弟じゃなくて、自分用です」
「ごほうびですね」
「はい。後輩に教えたごほうびです」
そう言って、少しだけ誇らしそうに笑った。
その笑顔を見て、京子は思った。
この店がなくなるということは、ただ一つの買い物場所が消えることではない。
誰かが、自分を少し認める場所が消えることでもある。
*
午後七時半。
石動が来た。
金曜日にしては少し早かった。
いつものように、ゆっくりと入口から入ってくる。
試食台に気づくと、少し驚いた顔をした。
「今日はにぎやかだね」
ハツエがすぐに声をかける。
「石動さん、試食していってくださいよ」
「私はいつもの塩サバでいいんだが」
「塩サバの試食はないです」
「それは残念だ」
石動は少し笑った。
京子は、胸の中が少し温かくなるのを感じた。
石動が冗談を言う。
それだけで、今日の試食会をやってよかったと思えた。
「ローストビーフ、いかがですか」
京子が勧めると、石動は小さなカップを受け取った。
「家内は、こういうものはあまり作らなかったな」
「そうなんですか」
「焼き魚と煮物の人だったからね」
そう言いながら、石動はローストビーフを食べた。
「うん。これはこれで、うまい」
「ありがとうございます」
「でも、私は塩サバだな」
ハツエが笑う。
「知ってます」
石動は試食台のカードを見た。
「これ、書くのかい」
「よろしければ」
京子はカードとペンを渡した。
石動は、少し時間をかけて書いた。
字はしっかりしていた。
――金曜日に塩サバ弁当を買います。
――妻がいたころの習慣を、今も少し続けられています。
――この店があると、週の終わりに帰ってきた気がします。
京子は、そのカードを読んで、思わず目頭が熱くなった。
週の終わりに帰ってきた気がします。
それは、石動が以前言った言葉でもあった。
でも、カードに書かれると、また違う重さがあった。
この一文は、本部に届くだろうか。
届かせなければならない。
京子はそう思った。
石動は塩サバ弁当を一つ買った。
まだ半額の時間ではなかった。
京子は少し驚いた。
「今日は、半額前ですが」
「今日は試食会だからね」
石動は静かに言った。
「たまには、店に少し貢献しないと」
ハツエが、少しだけ目を丸くした。
「石動さん、そんなこと考えなくていいんですよ」
「いや、考えるよ」
石動は塩サバ弁当をかごに入れた。
「なくなると困るからね」
その言葉は、静かだった。
でも、とても強かった。
京子は、深く頭を下げた。
「ありがとうございます」
「こちらこそ。いつも塩サバを残しておいてくれて、ありがとう」
「取り置きはしていません」
京子が言うと、石動は少し笑った。
「知っているよ。だから、間に合うと嬉しいんだ」
その言葉に、京子はまた胸を突かれた。
便利にしすぎないこと。
余白を残すこと。
間に合ったと思えること。
それも、この店の価値だ。
*
午後八時。
試食会は、予定よりも少し早く落ち着いた。
用意した試食はほとんどなくなっていた。
アンケートカードは、二十枚以上集まっている。
京子はそれを一枚ずつ整理しながら、胸の中に静かな興奮を感じていた。
数字だけではない。
声が集まっている。
しかも、それは単なる「なくならないでください」という感情だけではなかった。
一人分がほしい。
子どもと分けたい。
仕事帰りに軽く食べたい。
イートインで少し休みたい。
予約メモが安心。
塩サバが習慣。
半額まで待たずに選べるのが助かる。
これは需要だ。
地域にある、確かな需要。
神崎もカードを見ていた。
「これは、かなり強いですね」
静かな声だった。
「本部に出せますか」
京子が聞くと、神崎はうなずいた。
「出します。ただし、感情的に見せるのではなく、施策と結びつけます」
「はい」
「小容量化、食べきり需要、閉店前不安の軽減、イートイン購買、習慣購買。今日の声は、全部その裏付けになります」
ハツエが横から言った。
「本部語にしても、ちゃんと元の言葉も残してよ」
「残します」
神崎はカードを丁寧に重ねた。
「むしろ、元の言葉がないと弱いです」
その言葉に、京子は少しだけ神崎を見直した。
この人も、少し変わったのかもしれない。
いや、違う。
京子がこの人を見る目も、少し変わったのだ。
神崎は敵ではない。
ただ、本部の言葉を持っている人だ。
その言葉を、こちらのために使ってもらえばいい。
午後八時半、通常の値引き時間になった。
試食会の影響か、惣菜はいつもよりよく動いていた。
ちょこっと唐揚げは完売。
小さめ鮭弁も完売。
ローストビーフ小皿も完売。
塩サバ弁当は石動が定価で買ったこともあり、残りは少ない。
チキン南蛮弁当と焼きそばが少し残っているだけだった。
ハツエは売場を見て、ぽつりと言った。
「今日、いい顔してるね。店が」
京子は売場を見た。
確かに、そう思った。
閉店の顔ではない。
試食の匂いと、人の声と、少しだけ残った湯気のある顔。
店が、生きている顔だった。
*
閉店後、休憩室では小さな反省会が行われた。
ハツエ、京子、森下店長、神崎、内藤くん、村田さん。
いつもの休憩室が、少しだけ狭く感じる。
机の上には、集まったカードが並んでいた。
森下店長は、一枚一枚を読んで、何度も鼻をすすっていた。
「店長、また泣いてる」
ハツエが言う。
「泣いてません」
「泣いてるでしょ」
「少しだけです」
村田さんが笑った。
「でも、これは泣いちゃうわよ。こんなに書いてくれるなんて」
内藤くんもカードを一枚手に取った。
「これ、僕が試食渡した高校生の子かも。『唐揚げがあると部活帰りに元気が出る』って」
「それも大事」
京子は言った。
「若い人の利用も、ちゃんと入れましょう」
神崎はタブレットを開き、整理し始めた。
「今日のカードをカテゴリ分けします。食べきり、小容量、子育て、仕事帰り、イートイン、習慣購買、予約メモ、情緒的価値」
「情緒的価値って何」
ハツエが聞く。
「石動さんの塩サバのようなものです」
「ああ、そういう言い方になるのね」
「本部に通すためです」
「はいはい」
京子は、カードの一枚を手に取った。
真帆のカード。
――この店があると、家に帰る前に「今日も何とかなる」と思えます。
それを見て、京子は思った。
この言葉だけは、絶対に消したくない。
神崎がどれだけ本部語にしても、この一文はそのまま残してほしい。
「神崎さん」
「はい」
「このカードの言葉、要約しないで入れたいです」
京子は真帆のカードを差し出した。
神崎は読んで、うなずいた。
「入れましょう」
「いいんですか」
「これは、成田台店の価値を一番短く表しています」
ハツエもカードを覗き込んだ。
「今日も何とかなる、か」
その声は、少しだけ震えていた。
「いいね。スーパーっぽい」
京子はうなずいた。
スーパーは、人生を大きく変える場所ではない。
でも、今日を何とかする場所にはなれる。
それで十分すぎるくらい、大事だ。
*
アパートに帰ったのは、午後十一時を過ぎていた。
いつもより遅い。
けれど、不思議と疲れは重くなかった。
体は疲れている。足も痛い。髪には唐揚げとローストビーフと焼き魚の匂いが混ざっている。
それでも、胸の奥に灯りがある。
京子はテーブルに座り、ノートを開いた。
金曜。
ちょこっと試食会。
試食ほぼ完了。
アンケートカード二十数枚。
定価販売好調。
廃棄少。
石動さん、塩サバ弁当を定価で購入。
真帆さん「今日も何とかなる」
乃々花ちゃん「ひとりぼっちではない感じ」
作業服男性「予約メモは安心」
高齢女性「残さなくていい」
美羽ちゃん、からあげ大臣。
最後の一行を書いたところで、京子は少し笑った。
からあげ大臣。
本部資料には、たぶん入らない。
でも、京子のノートには必要だった。
今日の売場にあった明るさの象徴のような言葉だったから。
京子はページの下に、大きく書いた。
スーパーは、今日を何とかする場所。
そして、その下にもう一行。
成田台店は、まだ必要とされている。
書いた瞬間、涙がこぼれた。
悲しい涙ではなかった。
嬉しいだけでもない。
不安もある。
まだ決定は出ていない。
試食会がうまくいったからといって、本部がすぐに判断を変えるわけではない。
それでも今日、京子は確かに見た。
この店を必要としている人たちの顔を。
その人たちが、自分の言葉で書いてくれたカードを。
ハツエが嬉しそうに売場を見ていた顔を。
神崎が元の言葉を残すと言った瞬間を。
森下店長が泣きそうになっていた姿を。
これは、もう京子一人の思いではない。
店の声だ。
京子はスマホを手に取った。
前職の同僚から、今日もメッセージが来ていた。
『今日は何の日でした?』
京子は少し考えた。
そして、こう返した。
『今日は、店がちゃんと生きているのを見た日でした』
返信は少し遅れて来た。
『それは、きっと残すべき日ですね』
京子は画面を見て、静かにうなずいた。
残すべき日。
だから、ノートに残す。
カードに残す。
資料に残す。
閉店告知の紙に負けないように。
京子は、今日集めたカードのコピーを一部だけバッグから取り出した。
原本は店に置いてきたが、神崎が本部提出用にスキャンする前に、店用の控えを作ってくれたのだ。
その一枚一枚を、テーブルの上に並べる。
字が曲がっているもの。
短いもの。
びっしり書かれているもの。
子どもが書いたらしい大きなひらがな。
――からあげおいしい。なくならないで。
おそらく美羽の字だった。
京子は、そのカードを見て、また少し泣いた。
なくならないで。
これほどまっすぐな言葉はない。
京子はカードをそっと重ね、ノートに挟んだ。
明日、神崎は資料をまとめる。
店長は店舗全体の数字を出す。
ハツエは、いつものように売場に立つ。
京子は、カードの言葉と売場の数字をつなげる。
そして、次の会議に出す。
最後の試食会にはしない。
そのための、今日だった。
京子は電気を消し、布団に入った。
目を閉じると、試食台の前に立つ人たちの顔が浮かんだ。
唐揚げを食べる美羽。
カードを書く真帆。
ローストビーフを「ごほうびの味」と言う乃々花。
塩サバ弁当を定価で買う石動。
「予約メモは安心する」と書く作業服の男性。
笑いながら客に声をかけるハツエ。
みんな、今日を生きていた。
その今日を、マルヨシ成田台店は少しだけ支えていた。
京子は、胸の中で静かに言った。
最後にしない。
その言葉は、祈りではなく、明日やることの名前だった。




