第29話 最後の試食会[前編]
水曜日の午後、マルヨシ成田台店の休憩室には、いつもより多くの紙が広がっていた。
長机の上に、京子の手書きメモ。
神崎が作った本部提出用のフォーマット。
森下店長が出力した売上実績。
ハツエが書いたポップ案。
内藤くんがまとめた閉店前残数メモ。
村田さんが書いてくれた「昼間のお客さんの声」。
それらが、少しずつ重なっている。
きれいとは言えない。
会議資料としては、まだ粗い。
数字の抜けもある。
字もばらばらで、ところどころに油染みのようなものまでついている。
でも京子には、その机の上が、今の成田台店そのものに見えた。
売場で拾ったもの。
閉店後に書き留めたもの。
誰かの言葉。
誰かの買い物。
誰かの晩ごはん。
それらが、閉店告知の紙に対抗するために、少しずつ形になっている。
「で、試食会?」
ハツエが腕を組んだ。
京子はうなずいた。
「はい。小さなものでいいんです。大きなイベントではなく、今の取り組みをお客様に知ってもらうための場です」
「店頭で?」
「惣菜売場の前だと通路が詰まるので、入口横の催事スペースか、天気がよければ駐車場側の軒下でもいいと思います」
森下店長が少し不安そうに言う。
「駐車場を使うとなると、許可とか安全面が……」
「だから軒下の範囲で、テーブル一つからでいいです」
京子は、紙に書いた簡単な配置図を指さした。
「試食は、ちょこっと唐揚げを小さく切ったもの、小さめ鮭弁の一口サイズ、ローストビーフ小皿のソース試食。それと、予約メモの説明、イートイン利用の案内。あと、閉店ではなく、今後の売場づくりへの意見募集という形にします」
神崎が資料を見ながら言った。
「『閉店反対イベント』のようには見せない方がいいですね」
「はい」
京子はうなずいた。
「お客様に不安を煽るのではなく、今の成田台店が何を変えようとしているのかを知ってもらう場にしたいです」
「でも、閉店の噂はもう出てるよ」
ハツエが言った。
「隠しても、みんな聞いてくると思う」
「聞かれたら、決定していないと答えます。その上で、続けられる店にするために試していると説明します」
京子は少し息を吸った。
「それと、お客様の声を集めたいです。アンケートと言うと堅いので、『この店で助かっていること』『あったらうれしい惣菜』を短く書いてもらう形で」
森下店長は目を丸くした。
「アンケートまでやるんですか」
「はい。本部資料に入れます」
「それ、かなりちゃんとしたイベントになりますよ」
「ちゃんとしすぎないようにします」
京子は言った。
「大事なのは、見栄えのいいイベントをやることではなく、お客様が普段どう使っているかを集めることです」
ハツエが、じっと京子を見た。
「篠宮さん」
「はい」
「それ、最後の試食会みたいにならない?」
休憩室が静かになった。
最後。
誰も言わなかった言葉を、ハツエはあえて口にした。
京子は、机の上の紙を見た。
閉店告知は、まだ貼られていない。
けれど、本部の営業終了説明資料は存在している。
閉店の噂も、もう客の間に広がっている。
この試食会は、もしかしたら、本当に最後になるかもしれない。
だからこそ、やりたいのだと思った。
「最後にしないための試食会です」
京子は言った。
声は、思ったよりもはっきりしていた。
「でも、もし本当に最後になるとしても、この店がただ静かに消えていくのは嫌です。ここに来ている人たちが、何を必要としていたのか。ちゃんと残したいです」
ハツエは、しばらく黙っていた。
それから、ふっと笑った。
「言うようになったねえ」
「ハツエさんの影響です」
「あたし、そんな大げさなこと言わないよ」
「言います」
「言うか」
「言います」
ハツエは少しだけ肩をすくめた。
「じゃあ、やろうか。最後にしないための、最後の試食会」
「最後にしないため、です」
「わかってる」
森下店長も、ゆっくりうなずいた。
「やりましょう。僕から本部に、店内催事として報告しておきます」
神崎が言った。
「本部には私からも説明します。大規模な販促ではなく、改善施策の検証として扱えば通せると思います」
「検証」
ハツエが苦笑した。
「本部語だねえ」
「通すための言葉です」
神崎は静かに答えた。
京子は、そのやり取りを聞きながら、少しだけ胸が熱くなるのを感じた。
最初はバラバラだった。
本部の人間。
現場の人間。
店長。
パート。
客。
それぞれが違う場所からこの店を見ていた。
でも今は、少なくとも同じ机を囲んでいる。
それだけでも、前とは違う。
*
試食会は、金曜日の夕方に決まった。
石動が来る金曜日。
仕事帰りの客が増える時間。
週末前で、少しだけ食卓に余裕が出る日。
午後五時から八時まで。
場所は入口横の催事スペース。
大きな看板は出さない。
ただ、ハツエが書いたポップを置く。
――ちょこっと試食会
――半額になる前に、ちょうどいい晩ごはん。
――あなたの「助かる」を教えてください。
その言葉を見たとき、京子は少しだけ息を呑んだ。
あなたの「助かる」を教えてください。
この店で何度も聞いた言葉だった。
作業服の男性。
真帆。
乃々花。
年配の女性。
石動。
誰かが何気なく言った「助かる」は、店を残す理由になる。
金曜日までの二日間、準備は少しずつ進んだ。
内藤くんは、試食用の小さなカップを数えた。
村田さんは、昼間の客に「金曜日にちょっと試食やるからね」とさりげなく声をかけた。
森下店長は、アンケート用の小さなカードを印刷した。
カードには、三つの質問だけを載せた。
一、この店でよく買うものは何ですか?
二、どんな時に「助かる」と感じますか?
三、あったらうれしい惣菜・サービスはありますか?
名前を書く欄はない。
神崎は、それを見て言った。
「匿名なら、率直な声が集まりやすいですね」
ハツエは笑った。
「本部の人、そういうところだけ急に冷静」
「仕事ですから」
「その仕事で、今回はちゃんと残す方に働いてくださいよ」
「そのつもりです」
神崎は、いつものように淡々と答えた。
でも京子には、その言葉が少しだけ変わったように聞こえた。
以前の神崎は、どこか閉店に向けて資料を整えている人に見えた。
今は、少なくとも閉店以外の道を探そうとしている。
人は、すぐには変わらない。
でも、少しずつ向いている方向が変わることはある。
*
金曜日の午後四時。
試食会の準備が始まった。
入口横の催事スペースに、折りたたみテーブルを二台並べる。
白いクロスの代わりに、清潔な使い捨てシートを敷く。
その上に、試食用の小さなカップ、楊枝、紙ナプキン、アルコールスプレー、アンケートカード、ペン立てを置く。
メインは三つ。
ちょこっと唐揚げ。
小さめ鮭弁の一口ごはん。
週末ごほうびローストビーフ小皿のソース試食。
さらに、予約メモの説明用として、番号シールと小さな見本表も置いた。
ハツエはポップの位置を調整しながら言った。
「なんか、文化祭みたいだね」
「文化祭、ですか」
「うん。スーパーの文化祭」
内藤くんが横から言った。
「大森さん、文化祭で唐揚げ売ってそうです」
「売るよ。絶対売る」
「すごく似合います」
「でしょ」
そのやり取りに、京子は少し笑った。
笑いながらも、胸の奥は緊張していた。
どれだけ人が来るのか。
アンケートを書いてくれる人はいるのか。
閉店の噂を聞いて、重い空気にならないか。
失敗したらどうしよう。
考え始めれば、不安はいくらでも出てくる。
ハツエが、京子の顔を見た。
「篠宮さん」
「はい」
「顔がまた会議資料になってる」
「どういう顔ですか」
「眉間に表が出てる」
「またですか」
「また」
ハツエは、試食用の唐揚げを小さく切りながら言った。
「今日はね、資料じゃなくて、お客さんを見る日」
「はい」
「うまくやろうとしすぎない。食べてもらって、話して、書ける人には書いてもらう。それだけ」
「はい」
「あと、あたしの休憩は?」
「十八時半に一回、十九時半に一回です」
「ちゃんと入ってる」
「入っています」
「じゃあ、合格」
ハツエは笑った。
その笑顔を見て、京子は少しだけ肩の力を抜いた。
*
午後五時。
試食会が始まった。
最初に足を止めたのは、買い物帰りの年配女性だった。
「あら、今日は何?」
ハツエがにこやかに答える。
「ちょこっと試食会です。今うちで出してる小さめ惣菜、味見していってください」
「試食なんて久しぶりねえ」
女性は、ちょこっと唐揚げを一切れ食べた。
「あら、おいしい。これ、いつもの唐揚げ?」
「同じ唐揚げを、小さく買いやすくしたものです」
京子が説明する。
「お弁当まではいらないけど、ちょっとおかずがほしい時に」
「そうそう、そうなのよ」
女性はうなずいた。
「一人だと、たくさんいらないの。残すと悪いし」
京子は、すぐにメモした。
高齢女性。
一人分。残すと悪い。小容量需要。
「よかったら、こちらのカードに一言いただけますか」
京子がカードを差し出すと、女性は少し驚いた。
「字、汚いわよ」
「読めれば大丈夫です」
「じゃあ、書こうかしら」
女性はペンを取り、ゆっくり書いた。
――一人なので、少ないおかずがあると助かります。
――煮物も少しずつあるとうれしい。
京子は、胸の中で一つ目の丸をつけた。
次に来たのは、若い夫婦と小さな男の子だった。
男の子は唐揚げを見て目を輝かせる。
「からあげ!」
ハツエがすぐに言う。
「小さく切ってあるから、よく噛んでね」
男の子はうなずき、唐揚げを食べた。
「おいしい!」
母親らしい女性が笑う。
「これくらいのパック、ちょうどいいですよね。大きい唐揚げパックだと、余るんです」
父親らしい男性も言った。
「でも子どもは欲しがるから、少量はありがたいです」
カードには、こう書かれた。
――子どもが少し食べたい時に、ちょこっと唐揚げが助かります。
――大人用の小さい弁当もあると、別々に選べてよいです。
京子は、その文字を見て、真帆のことを思い出した。
子どもだけではない。
親の分も、ちゃんとある売場。
その考え方は、他の家庭にも届いている。
午後五時半を過ぎると、少しずつ人が増えた。
試食を目当てに集まるというより、買い物のついでに立ち止まる人が多い。
それがちょうどよかった。
押しつけがましくない。
でも、声をかけるきっかけになる。
ハツエは慣れた様子で客と話した。
「これね、半額まで待たなくても買いやすいように小さくしたの」
「そうそう、年寄りにはこのくらいがいいのよ」
「若い人も買うよ。仕事帰りにちょっと食べたいって」
「ローストビーフ?しゃれてるでしょ。でも小皿だから気取ってないの」
ハツエが話すと、客は笑う。
京子が同じことを言っても、きっとこうはならない。
ハツエの声には、売場で積み重ねた時間がある。
その一方で、京子はメモを取り、カードを集め、商品ごとの反応を記録した。
神崎は少し離れたところで、その様子を見ていた。
ときどきタブレットに何か入力している。
けれど今日は、数字だけではなく、人の顔を見ているように見えた。
*




