第28話 レシートの裏の手紙[後編]
午後七時。
ハツエは一回目の休憩を取った。
京子が少し強めに「時間です」と言うと、ハツエは降参したように両手を上げた。
「はいはい、行ってきますよ」
「十五分以上です」
「十五分で戻る」
「十五分以上です」
「細かい」
「今日は十七分でお願いします」
「二分増えた」
そんなやり取りをして、ハツエは休憩室へ向かった。
その間、京子と内藤くんで売場を回す。
内藤くんは、もう記録表に慣れてきていた。
「篠宮さん、ちょこっと唐揚げ、売場残り二です。バック三」
「ありがとうございます。七時半まで様子見で」
「ローストビーフ小皿は完売です」
「早いですね」
「火曜でも売れますね」
「ごほうびは火曜にもある、ということですね」
京子が言うと、内藤くんは少し考えた。
「僕も今日、帰りに買おうと思ってたんですけど」
「あ……すみません」
「いや、いいです。売れた方がいいので」
内藤くんは笑った。
「でも、従業員も買いたくなる商品って、いいですよね」
その言葉に、京子はうなずいた。
従業員も買いたくなる商品。
それも資料に入れられるかもしれない。
働く人が、自分たちの作るものに少し誇りを持てること。
それは売場の空気に出る。
ハツエが言っていた。
作っている人がしょぼくれていると、商品もしょぼくれる。
なら、作っている人が「これ、いいよね」と思える商品は、きっと売場でも少し強く見える。
*
午後七時半、真帆と美羽が来店した。
今日は火曜日なので、唐揚げの日だ。
美羽は入口からすでに売場を見ていたらしく、惣菜コーナーに来るなり言った。
「からあげ!」
「走らない」
真帆がいつものように止める。
京子はそのやり取りを見るだけで、少し胸が緩んだ。
「こんばんは」
「こんばんは」
真帆は、昨日より少し明るい表情をしていた。
「今日は、ちゃんと早く来られました」
「唐揚げ、ありますよ」
「よかった」
美羽はちょこっと唐揚げを一つ手に取り、真帆に見せた。
「これ?」
「今日は唐揚げ弁当でもいいよ」
「おべんとう?」
「うん。ママも同じの食べようかな」
真帆は唐揚げ弁当を二つ手に取った。
京子は少し驚いた。
二つ。
以前は、唐揚げ弁当一つを美羽のために買っていた。
真帆はその残りを少し食べるだけだった。
今、真帆は自分の分も、同じ弁当を取った。
「今日は、唐揚げ弁当なんですね」
京子が言うと、真帆は少し照れたように笑った。
「はい。今日は給料日なので」
美羽が元気に言う。
「ママもからあげ!」
「そう。ママも唐揚げ」
その言葉に、京子の胸がじんわり温かくなった。
真帆は続けた。
「でも、前より買いやすくなりました。ちょこっと唐揚げがある日もあるし、小さいお弁当もあるし。今日は弁当を二つ買おうって決めて来ました」
「ありがとうございます」
「ここ、選びやすくなりましたよね」
真帆は売場を見ながら言った。
「前は、半額になるまで待つか、弁当一つで済ませるか、みたいな感じだったんです。でも今は、今日はこれくらいでいいかなって選べる」
選べる。
以前、京子がノートに書いた言葉だった。
それが、真帆の口から出た。
京子は、胸がいっぱいになった。
「そのお言葉、資料に使わせていただいてもいいですか」
真帆は少し驚いた。
「資料?」
「この店を残すための資料です。お名前は出しません。お客様の声として」
真帆は、美羽を見た。
美羽は唐揚げ弁当を大事そうに見ている。
「この店、やっぱり閉まるかもしれないんですね」
真帆の声が少し沈んだ。
「まだ決まっていません。だから、残すための資料を作っています」
「なら、使ってください」
真帆はまっすぐ言った。
「ここがあると助かります。特別なことじゃないんですけど、仕事帰りに美羽と寄れて、今日は何食べようかって選べる。それだけで、かなり助かっています」
京子はうなずいた。
「ありがとうございます」
美羽が言った。
「おみせ、がんばって」
京子は少しだけ笑った。
「うん。頑張るね」
でも、頑張りすぎないように。
心の中でそう付け加えた。
真帆と美羽がレジへ向かったあと、京子はメモ帳に書いた。
真帆さん。
唐揚げ弁当二つ購入。給料日。
「今日は弁当を二つ買おうって決めて来ました」
「選べる」
「仕事帰りに子どもと寄れて、今日何食べようか選べる。それだけで助かる」
これは、必ず資料に入れる。
京子は強く思った。
*
午後八時半。
一回目の値引きが始まるころには、売場の商品はかなり減っていた。
小さめ鮭弁は完売。
ちょこっと唐揚げは残り一。
唐揚げ弁当は残り二。
チキン南蛮弁当一。
焼きそば一。
煮物小鉢一。
火曜日としては、悪くない。
むしろ良い。
ハツエは二回目の休憩を取り、戻ってきたところだった。
「今日、いい感じだね」
「はい。定価販売がかなり伸びています」
「唐揚げの日は強いねえ」
「でも、ちょこっと唐揚げと小さめ弁当の効果もあると思います」
「篠宮さん、だんだん自信出てきた?」
ハツエが言う。
京子は少し考えた。
「少しだけ」
「お、認めた」
「ただ、怖さもあります」
「何が」
「うまくいった日の数字を見て、本部が期待して、次も同じ結果を求めることです」
ハツエは一瞬、真面目な顔になった。
「それはあるね」
「だから、天気や曜日や給料日など、条件も一緒に書きます。うまくいった理由とうまくいかない可能性も」
「いいんじゃない。都合のいい数字だけ出すと、あとで首締まるから」
「はい」
京子は、値引きシールを貼りながらうなずいた。
今日は良い日だ。
でも、良い日だけで店はできていない。
雨の日もある。
廃棄が出る日もある。
ハツエが休む日もある。
閉店の噂が広がる日もある。
その全部を含めて、続けられる形を作らなければ意味がない。
午後九時。
半額になる商品は少なかった。
唐揚げ弁当一つ。
焼きそば一つ。
煮物小鉢一つ。
作業服の男性が焼きそばを買い、年配の女性が煮物を買った。
最後の唐揚げ弁当は、少し遅れて来た若い男性が買った。
廃棄ゼロ。
今日も、廃棄箱の中に晩ごはんは残らなかった。
けれど京子は、空になった棚を見ながら思った。
これは奇跡ではない。
たまたまでもない。
小さな工夫と、天気と、曜日と、客の生活がうまく噛み合った結果だ。
だから、ちゃんと記録する。
喜ぶだけではなく、次につなげる。
*
閉店後、京子は休憩室で神崎と向かい合った。
森下店長、ハツエもいる。
内藤くんは片づけを終えて帰ったが、今日書いてくれた残数メモは京子の手元に残っている。
机の上には、神崎が作ったフォーマットと、京子の手書きメモが並んでいた。
「今日の声、かなり取れました」
京子はメモ帳を開いた。
高齢女性。
残さなくていいから助かる。
若い男性。
多すぎない。
高校生。
変に話しかけられないけど、ちゃんと人がいる。
母親。
選べる。
仕事帰りに子どもと寄れて、今日何食べようか選べる。それだけで助かる。
京子が読み上げると、神崎は黙ってメモしていた。
ハツエは腕を組み、森下店長は何度もうなずいている。
「これを定性効果に入れたいです」
京子は言った。
「はい」
神崎はうなずいた。
「ただし、本部向けには表現を整えます。たとえば、『小容量化により、単身・高齢者・子育て世帯の食べきり需要に対応』。『イートインは学生の短時間滞在と購買を生み、地域の見守り機能を持つ』。『選択肢の拡充により、値引き待ち依存の緩和が見られる』」
「急に本部資料ですね」
ハツエが言う。
「本部には本部の言葉で届ける必要があります」
神崎は答えた。
京子は、その言葉を聞いても、以前ほど嫌ではなかった。
本部の言葉に翻訳すること。
それ自体は悪いことではない。
ただ、その過程で人の顔を消さなければいい。
「元の言葉も、添えてください」
京子は言った。
「要約だけだと、生活感が消えます。表の横に、短い引用として入れたいです」
「わかりました」
神崎はうなずいた。
「篠宮さん、資料の構成案を一緒に作りましょう」
京子は一瞬、身構えた。
一緒に。
その言葉を、京子は確かめるように受け取った。
「一緒に、ですね」
「はい。私が本部向けの形にします。篠宮さんは売場の言葉を拾ってください。大森さんと店長は、運用面と現場負担を確認してください」
ハツエがうなずく。
「それならいいです」
森下店長も、少し背筋を伸ばした。
「僕は、店舗全体の数字を出します。惣菜以外の購買も見ます」
京子は森下店長を見た。
頼りないと思っていた店長の声が、今日は少しだけはっきりしていた。
「お願いします」
京子が言うと、店長はうなずいた。
みんなでやる。
その形が、少しずつできてきている。
そのとき、京子はノートに挟んでいたレシートのことを思い出した。
出すなら、今かもしれない。
でも、迷いはまだある。
母の言葉を、店の資料に使っていいのか。
京子は、ノートを開いた。
透明な袋に入れた古いレシートを、そっと取り出す。
ハツエが気づいた。
「それ、お母さんの?」
「はい」
神崎と森下店長が、京子を見る。
京子は少し息を吸った。
「個人的なものなので、資料に直接入れるかはまだ迷っています。でも、私がこの店を残したいと思う理由の一つです」
そう言って、レシートの裏を見せた。
神崎は手に取らず、机の上に置かれたレシートを静かに読んだ。
森下店長も、身を乗り出すように見る。
ハツエは、もう内容を知っているからか、黙っていた。
――今日は京子が泣いて帰ってきた。
――理由は言わなかった。
――唐揚げだけは食べた。
――半額でも、この子にはごちそうに見えますように。
休憩室が静かになった。
神崎は、しばらく何も言わなかった。
やがて、低い声で言った。
「これは……成田台店のレシートですか」
「はい。十年以上前のものです」
「お母様が」
「はい」
京子は、声が震えないようにゆっくり話した。
「私は子どものころ、半額弁当が嫌でした。恥ずかしいと思っていました。でも、母はその弁当を、私のごちそうにしようとしてくれていたんです」
誰も口を挟まなかった。
「今、売場に立って、真帆さんや美羽ちゃん、石動さん、乃々花さんを見ていると、この店ではずっと同じようなことが起きていたんだと思います。誰かが、誰かのためにごはんを買っている。半額でも、定価でも、小さいお弁当でも、ローストビーフでも」
京子はレシートを見た。
「このレシートを資料に入れるかは別として、この視点は入れたいです。成田台店は、地域の人の食卓を、長く支えてきた店だと」
神崎は、静かにうなずいた。
「入れましょう」
京子は驚いて顔を上げた。
「いいんですか」
「レシートそのものは個人情報や私的な内容があるので、扱いは慎重にすべきです。ただ、考え方としては非常に重要です」
神崎はフォーマットの余白にメモした。
「地域の食卓を支えてきた実績。過去から現在までの継続性。小容量・値引き・予約メモは新しい施策ではあるが、根底には以前からある生活支援需要がある」
ハツエが小さく言った。
「本部語になると、急に固いね」
「固くしないと通らない場所もあります」
神崎は言った。
「でも、元の言葉は消さないようにします」
京子は、ほっと息を吐いた。
母のレシートが、少しだけ今につながった。
過去にしまっておくだけではなく、これからの店を守るための視点になった。
森下店長は、目元を少し赤くしていた。
「すみません、こういうの弱くて」
ハツエがすぐに言う。
「店長、泣くのはまだ早い。泣くなら存続決まってから」
「はい」
森下店長は慌てて眼鏡を直した。
京子は少し笑った。
休憩室の空気が、ほんの少しやわらいだ。
*
アパートに帰った京子は、レシートを机の上に置いた。
今日は唐揚げ弁当を買っていた。
半額ではない。
火曜日の唐揚げ弁当。
定価で、ひとつ。
電子レンジで温め、ふたを開ける。
湯気と一緒に、にんにくと醤油の匂いが立ち上がる。
京子は箸を持ち、唐揚げを一つ口に入れた。
熱い。
少し濃い。
でも、おいしい。
子どものころ食べた唐揚げ弁当と、同じ味かどうかはわからない。
たぶん違う。
作る人も、材料も、年月も違う。
でも、どこかでつながっている味だった。
「お母さん」
京子は小さく言った。
「今日、少しだけ使わせてもらったよ」
もちろん返事はない。
けれど、レシートの裏の母の字が、少しだけ近くに感じられた。
京子はノートを開いた。
火曜。唐揚げの日。
お客様の声、多数。
乃々花さん「変に話しかけられないけど、ちゃんと人がいる」
真帆さん「選べる」「今日何食べようか選べるだけで助かる」
美羽ちゃん、唐揚げ弁当二つ。
母のレシートを共有。
資料に「地域の食卓を支えてきた店」という視点を入れる。
そこまで書いて、京子は少し考えた。
そして、ページの真ん中に一文を書いた。
レシートの裏には、売上データに残らない願いがある。
書いた瞬間、胸の奥が静かになった。
そうだ。
売上データに残らない願い。
それを、今回の資料で少しでも見えるようにしたい。
母の願い。
真帆の願い。
石動の習慣。
乃々花の居場所。
作業服の男性の安心。
ハツエの、この店を好きだという気持ち。
どれも、そのままでは本部資料に載らない。
でも、消してはいけない。
京子はスマホを手に取った。
前職の同僚から、いつものメッセージが来ていた。
『今日は何の日でした?』
京子は、少しだけ迷わずに打った。
『今日は、母のレシートを資料の一部にしました』
すぐに返信が来た。
『大丈夫でした?』
京子は、レシートを見た。
『少し怖かったです。でも、過去の痛い記憶が、今の誰かを守る理由になるなら、使ってよかったと思います』
送信して、しばらく待つ。
返事は短かった。
『それは、すごく強い使い方ですね』
強い使い方。
京子はその言葉をノートの端に書いた。
痛い記憶の、強い使い方。
半額弁当が恥ずかしかった記憶。
母に謝れなかった後悔。
会社で数字に追い詰められた経験。
閉店候補の一覧表を作った罪悪感。
それらは消えない。
でも、今の売場で別の形にできるかもしれない。
京子は弁当を食べ終え、ふたを閉めた。
ふたには半額シールはついていない。
けれど、今日の唐揚げ弁当もまた、京子にとってはごちそうだった。
電気を消して布団に入ると、母の字がまぶたの裏に浮かんだ。
半額でも、この子にはごちそうに見えますように。
京子は心の中で答えた。
見えたよ。
十年以上かかったけれど。
ちゃんと、ごちそうだったとわかったよ。
そして今度は、自分が売場に立つ番だ。
誰かのレシートの裏に、今日のマルヨシが残るように。
誰かが何年もあとに、「あの日のごはんは、ちゃんと自分を温めてくれていた」と思えるように。
明日も、記録を取る。
声を拾う。
数字にする。
言葉にする。
人を守る紙を、作る。
京子は、静かに目を閉じた。




