第27話 レシートの裏の手紙[前編]
火曜日の朝、京子は母の家計簿をもう一度開いた。
昨日の夜、ノートに書いた「成田台店を残す理由」という言葉が、朝になっても頭から離れなかった。
人を守る紙。
前職の同僚から送られてきたその言葉は、京子の胸の中で、静かに形を変え始めていた。
閉店に対抗するためには、数字がいる。
廃棄率。
定価販売率。
客単価。
予約メモの利用件数。
イートイン利用者の購買点数。
それはわかっている。
けれど、それだけでは足りない。
数字の横に、生活の理由を書く。
そう神崎に言った。
なら、その「生活の理由」をどう書けばいいのか。
京子は、母の家計簿を見ながら考えていた。
母の記録は、数字と生活が一緒に並んでいる。
唐揚げ弁当二四九円。
京子、唐揚げ喜ぶ。
ハンバーグ弁当半額。
京子、全部食べた。
惣菜コロッケ。
友達の家のごはんの話をする。少し寂しそう。
それは、立派な分析ではない。
でも、京子にはどんな資料よりも強く刺さった。
そこには、食費を抑えるための記録と、娘を見ていた母のまなざしが同じページにあった。
これだ、と思った。
成田台店を残す理由も、こういう形にできないだろうか。
売上だけではなく、誰が、なぜ、それを買ったのか。
個人情報ではなく、暮らしの断片として。
感傷ではなく、地域需要の証拠として。
京子は家計簿の間に挟んでいた古いレシートを取り出した。
マルヨシ成田台店。
唐揚げ弁当四九八円。
値引-二四九円。
裏には、母の字。
――今日は京子が泣いて帰ってきた。
――理由は言わなかった。
――唐揚げだけは食べた。
――半額でも、この子にはごちそうに見えますように。
何度読んでも、胸が詰まる。
京子は、そのレシートを自分の仕事用ノートの横に置いた。
今日、神崎に見せるかどうかは迷っていた。
これは、京子個人の記憶だ。
母の手紙のようなものだ。
店を残すための材料にしていいのか、わからない。
でも、このレシートは確かにマルヨシ成田台店のものだった。
十年以上前、この店の半額弁当が、泣いて帰ってきた中学生の京子の晩ごはんになった。
母が「ごちそうに見えますように」と願いながら買ったものだった。
今、京子が売場で見ていることは、昔からこの店で起きていたのだ。
誰かが、誰かのために、限られたお金でごはんを買う。
半額シールに、少しの恥ずかしさと、少しの安心と、たくさんの願いを重ねる。
それは、昨日今日始まったことではない。
京子は深く息を吸った。
レシートを透明な小さな袋に入れ、ノートに挟む。
そして、新しいページにこう書いた。
――レシートの裏の手紙。
*
午後三時半、京子が店に着くと、事務所にはすでに神崎が来ていた。
今日は本部で会議がある日ではないらしい。
けれど、昨日のやり取りを受けて、存続案のフォーマットを持ってきたのだという。
森下店長は、少し緊張した顔でコピー機の前に立っていた。
「篠宮さん、お疲れさまです」
「お疲れさまです」
神崎はいつものように落ち着いていた。
ただ、机の上には数枚の資料が広げられている。
京子は着替える前に、少しだけ事務所に入った。
「フォーマット、作ってきました」
神崎が言った。
「ありがとうございます」
紙には、項目が整然と並んでいた。
一、現状課題
二、改善施策
三、定量効果
四、定性効果
五、今後の展開案
六、本部支援が必要な事項
京子は紙を見た瞬間、懐かしいような、苦しいような感覚を覚えた。
会議資料の匂いがする。
けれど、逃げたいとは思わなかった。
「定性効果の欄、もう少し広げられますか」
京子が言うと、神崎は少しだけ眉を上げた。
「広げる?」
「はい。お客様の声と、購入理由を書く欄が必要です。数字の補足ではなく、数字と同じくらい重要な要素として扱いたいです」
神崎は少し考えてから、うなずいた。
「わかりました。『生活背景・利用シーン』という項目を追加しましょう」
「ありがとうございます」
森下店長が感心したように言った。
「篠宮さん、すごいですね。もう本部資料みたいです」
京子は一瞬、笑うべきか迷った。
以前なら、その言葉に縛られていたかもしれない。
本部資料みたい。
きれいに整える。
抜け漏れなく書く。
説得できるように作る。
でも今は、少し違う。
「本部資料に見えても、中身は売場の記録にしたいです」
京子は言った。
「会議室で考えた言葉ではなく、売場で聞いた言葉を入れます」
神崎は、静かにうなずいた。
「その方が、成田台店らしいかもしれません」
成田台店らしい。
その言葉に、京子は少しだけ胸が温かくなった。
以前なら、本部の資料はどの店舗でも同じ形式であるべきだと思っていた。
比較しやすく、管理しやすく、判断しやすいから。
でも、店を残す理由は、店ごとに違っていていいのだ。
成田台店には、成田台店の理由がある。
京子は、ノートを胸に抱えた。
「今日は、夕方の売場を見ながら、声を拾います。あと、閉店の噂が出ているので、それに対する反応も記録します」
「お願いします」
神崎はそう言って、少しだけ声を落とした。
「噂が出てしまったことは、こちらの管理不足でもあります。申し訳ありません」
神崎が謝った。
そのことに、京子は少し驚いた。
「神崎さんだけのせいではないと思います」
「それでも、本部側の情報管理の問題です」
神崎は淡々と言った。
「噂が広がると、売場の空気が変わります。従業員も、お客様も、不安になります。それが売上に出ることもあります」
「はい」
「だからこそ、早めに存続案を出しましょう」
京子はうなずいた。
閉店の紙が店の顔を変える前に、別の紙を作る。
それが今日の仕事だった。
*
火曜日の惣菜売場は、唐揚げの匂いで始まった。
唐揚げ増量の日。
美羽が楽しみにしている日であり、真帆が仕事帰りに寄る日であり、京子にとっては母の家計簿を思い出す日でもある。
ハツエは、今日も白衣の袖をまくっていた。
昨日より顔色は少しいい。
ただ、京子は休憩時間を記録表の端に書き込んだ。
十七時十五分、ハツエ休憩予定。
十九時十五分、二回目休憩予定。
ハツエがそれを見て、眉を寄せる。
「本当に書いてる」
「書きます」
「監視社会だねえ」
「改善です」
「便利な言葉だ」
「ハツエさんが休むための改善です」
ハツエは、言い返す代わりに唐揚げを油へ入れた。
じゅわっと音が立つ。
その音を聞くと、京子はいつも少しだけ背筋が伸びる。
油の中で、鶏肉が少しずつ色づいていく。
粉っぽい白から、薄いきつね色へ。
そして、食欲を誘う黄金色へ。
唐揚げは強い。
ハツエが言った言葉を思い出す。
子どもも、大人も、疲れた人も、だいたい好き。
お皿に乗っているだけで、ちょっとごちそうに見える。
京子は、唐揚げ弁当を詰めながら、母のレシートを思い出していた。
半額でも、この子にはごちそうに見えますように。
あの言葉は、今日の資料のどこかに入れるべきだろうか。
それとも、胸の中にしまっておくべきだろうか。
迷いはまだ消えなかった。
午後五時。
売場に商品が並び始める。
唐揚げ弁当。
ちょこっと唐揚げ。
小さめ鮭弁。
煮物小鉢。
ローストビーフ小皿。
チキン南蛮弁当。
焼きそば。
「半額になる前に、ちょうどいい晩ごはん」のコーナーも、少しずつ馴染んできた。
京子はメモ帳を持ち、売場の横に立った。
ただし、じっと見すぎない。
万引きGメンみたいになる、とハツエに言われたのを思い出す。
午後五時二十分。
年配の女性が、小さめ鮭弁と煮物小鉢を買っていった。
「この小さいお弁当、昨日も買ったの。残さなくていいから助かるわ」
京子はすぐに書いた。
高齢女性。小さめ鮭弁+煮物。
「残さなくていいから助かる」
食べきり需要。
午後五時四十五分。
若い男性が、ちょこっと唐揚げとお茶を買う。
「普通の唐揚げパックだと多いんですよね」
小容量需要。単身男性。
「多すぎない」価値。
午後六時十分。
ローストビーフ小皿を手に取った女性が、値札を見て少し迷い、ポップを読んでからかごに入れた。
「今日は自分に甘くします」
京子は思わず少し笑いそうになった。
ごほうび需要。
「自分に甘くします」
平日でも購入理由あり。
言葉が集まっていく。
それは売上データとは違う。
けれど、商品が買われる理由そのものだった。
京子は、少しずつ資料の形が見え始めるのを感じていた。
*
午後六時半、乃々花が来た。
今日は制服姿で、少し急いでいるようだった。
「こんばんは」
「こんばんは。今日はイートイン使いますか?」
「少しだけ。弟の迎えまで時間があるので」
乃々花は小さめ鮭弁ではなく、ちょこっと唐揚げを手に取った。
「今日は唐揚げですか」
「はい。晴斗が、鮭の皮を食べたから、今日は唐揚げがいいって」
「ごほうびですね」
「弟のごほうびです」
「乃々花さんの分は?」
京子が聞くと、乃々花は少し固まった。
「私は……」
そのまま、売場を見た。
ローストビーフ小皿。
小さめ鮭弁。
煮物小鉢。
乃々花は少し迷ったあと、小さめ鮭弁を一つ手に取った。
「私も食べます」
その声には、少しだけ照れがあった。
京子はうなずいた。
「はい」
乃々花はレジへ向かおうとして、少し足を止めた。
「この店、ほんとに閉まるかもしれないんですか」
京子は、昨日から何度目かの問いを受け止めた。
「まだ決まっていません」
「でも、噂になってます」
「はい」
「閉まったら、困ります」
乃々花はまっすぐ京子を見た。
「ここ、変に話しかけられないけど、ちゃんと人がいるので」
その言葉に、京子の胸がきゅっと締まった。
変に話しかけられないけど、ちゃんと人がいる。
イートインの価値は、まさにそれなのかもしれない。
一人でいたい。
でも完全に一人きりでは不安。
誰かに構われすぎたくない。
でも、誰もいない場所にはいたくない。
スーパーのイートインは、その隙間にある。
「その言葉、資料に書いてもいいですか」
京子は思わず聞いていた。
乃々花は目を丸くした。
「資料?」
「店を残すための資料です。名前は出しません。高校生のお客様の声として」
乃々花は少し恥ずかしそうにした。
「変なこと言ってませんか」
「とても大事なことだと思います」
「じゃあ……いいです」
乃々花は少しだけ笑った。
「書いてください。ここがなくなると、英単語が覚えにくくなるって」
「それも書きますか?」
「それは、ちょっと恥ずかしいです」
「では、そこは書かないでおきます」
乃々花は小さく笑い、レジへ向かった。
京子はメモ帳に書いた。
高校生。イートイン利用。
「変に話しかけられないけど、ちゃんと人がいる」
居場所・見守り・ついで買い。
購入:小さめ鮭弁、ちょこっと唐揚げ。
この一文は、必ず入れようと思った。
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