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半額になるまえに  作者: えんびあゆ


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第26話 閉店告知、迫る店舗再編[後編]

午後七時半、作業服の男性が予約番号を持って戻ってきた。


「六番です」


「はい。ちょこっと唐揚げ二つですね」


京子は商品を渡した。


「今日は二つなんですね」


「一つは、職場の後輩に。最近、残業続きなので」


「そうなんですか」


「ここの唐揚げ、冷めてもわりと食べられるので」


それは褒め言葉なのかどうか微妙だったが、京子は素直に受け取ることにした。


「ありがとうございます」


男性は少し迷ったあと、言った。


「この店、なくなるって噂、本当ですか」


京子の手が止まった。


ハツエも、少し離れたところで動きを止めた。


「どこでお聞きになりましたか」


京子はできるだけ落ち着いて尋ねた。


「近くの店で、そんな話してる人がいて。再開発とか、スーパー撤退とか」


噂。


まだ店頭告知もしていないのに、もう外に漏れている。


京子は胸の奥が冷たくなった。


「現時点で、決定したことはありません」


その言葉は、神崎や店長が使ってきたものと同じだった。


でも京子は、そこにもう一言足した。


「ただ、店を続けるために、今いろいろ試しています」


作業服の男性は、売場を見た。


「そうなんですね」


「はい」


「なくなると、困ります」


短い言葉だった。


京子は、その言葉をしっかり受け取った。


「ありがとうございます」


「いや、ほんとに困るので」


男性は少し照れたように頭をかいた。


「仕事終わりに寄れる店、ここくらいなんです。コンビニはあるけど、弁当ばっかりだと飽きるし」


京子は記録したい衝動に駆られた。


でも、今はメモ帳を出さなかった。


その代わり、言葉を胸に刻んだ。


なくなると、困ります。


それは本部資料に載せるべき声だ。


作業服の男性が帰ったあと、ハツエが小さく言った。


「噂、出たね」


「はい」


「閉店告知なんて、貼る前から始まるんだよ。こういうのは」


京子はうなずいた。


告知は紙だけではない。


噂として広がる。

客の表情に出る。

従業員の動きに出る。

売場の空気に出る。


だからこそ、店に閉店の顔をさせてはいけない。



午後八時、真帆と美羽が来店した。


今日は少し遅い。


美羽は眠そうで、真帆の手を握っている。

真帆の顔にも疲れが見えた。


「こんばんは」


「こんばんは」


真帆はいつものように笑おうとした。

でも、その笑顔は少し硬かった。


「この店、閉まっちゃうんですか」


唐突だった。


京子は言葉に詰まった。


やはり噂は広がっている。


真帆は慌てて付け加えた。


「すみません。変なこと聞いて。母が近所の人から聞いたみたいで」


美羽が京子を見上げる。


「おみせ、なくなるの?」


そのまっすぐな声が、京子の胸を刺した。


子どもに嘘はつきたくない。

でも、決まっていないことを決まったようにも言えない。


京子はしゃがむことはしなかった。

店員として、売場に立ったまま、できるだけやわらかい声で言った。


「まだ、なくなるって決まったわけじゃないよ」


「ほんと?」


「うん。今、なくならないように、みんなで頑張ってる」


美羽は少し考えた。


「からあげ、なくなる?」


京子は、喉の奥が熱くなるのを感じた。


「なくならないように、頑張るね」


美羽は真剣にうなずいた。


「がんばって」


たった五文字。


でも、京子には重かった。


真帆は申し訳なさそうに京子を見た。


「本当に、すみません」


「いえ」


「ここがなくなったら、困ります。仕事帰りに寄れるし、美羽もここの唐揚げが好きで」


「ありがとうございます」


「あと……」


真帆は少し迷った。


「ここだと、私も自分の分を買いやすくなったので」


京子は、胸がいっぱいになった。


美羽の唐揚げだけではない。

真帆自身のごはん。


それがこの店の意味になっている。


「今日も、半額になる前に買って帰ります」


真帆はそう言って、小さめ鮭弁とちょこっと唐揚げ、煮物小鉢をかごに入れた。


美羽が言う。


「はやくたべる」


「うん。早く帰ろうね」


京子は、二人を見送った。


記録表の余白に、後で必ず書こうと思った。


真帆さん。

「私も自分の分を買いやすくなった」

美羽ちゃん「からあげ、なくなる?」


これは数字ではない。

でも、数字の横に必要な言葉だった。



午後八時半。


一回目の値引きが始まった。


今日は月曜にしては売れ行きが良かった。


小さめ鮭弁は完売。

ちょこっと唐揚げも残り一つ。

ローストビーフ小皿は二割引き前に完売。

残っていたのは、チキン南蛮弁当二つ、焼きそば一つ、白身魚フライ一パック、煮物一つ。


京子はシールを貼りながら、売場の空気を感じていた。


閉店の噂が出ている。

客の何人かは、それを知っている。


それでも、売場は動いている。

誰かが商品を選ぶ。

誰かが会釈する。

誰かが「なくなると困る」と言う。


この店は、まだ閉店していない。


今日の晩ごはんを、今日も売っている。


午後九時。


半額シールの時間。


大きな混乱はなかった。

残った商品は順に売れていく。


最後に残った煮物小鉢は、年配の女性が買っていった。


「こういうの、ちょっとあると助かるのよね」


その言葉も、京子は覚えておいた。


午後九時二十分。


売場は空になった。


廃棄は、今日もほとんどなさそうだった。


けれど、京子の胸は軽くならなかった。


売れた。

必要とされた。

困ると言われた。


それでも、閉店告知の紙は存在している。


その事実は変わらない。



閉店後、休憩室で神崎、森下店長、ハツエ、京子が向かい合った。


机の上には、二種類の紙が置かれていた。


一つは、本部が用意した営業終了説明資料。

もう一つは、京子たちの記録表だった。


まだ数日分。

手書きのメモだらけ。

数字もきれいに整っていない。


でも、そこには売場の生々しさがあった。


定価販売数。

値引き販売数。

廃棄数。

天気。

客の言葉。

予約メモの件数。

イートイン利用。


京子は、今日聞いた言葉を余白に書き足した。


作業服男性:なくなると困る。仕事終わりに寄れる店。

真帆さん:自分の分を買いやすくなった。

美羽ちゃん:からあげ、なくなる?

年配女性:ちょっとあると助かる。


神崎は、それを黙って読んでいた。


しばらくして、言った。


「この形で、続けてください」


「はい」


京子はうなずいた。


「ただし、本部提出用には整理が必要です。定量情報と定性情報を分けた方がいい」


「わかっています」


「私もフォーマットを作ります」


その言葉に、京子は少し驚いた。


「神崎さんが?」


「はい。閉店案だけを作るわけにはいかなくなりましたから」


ハツエが腕を組んだ。


「最初からそうしてください」


「返す言葉もありません」


神崎は素直に言った。


森下店長が、少しだけほっとしたように息を吐いた。


「では、成田台店としては、改善トライアルの実績を毎週まとめる形で」


「はい」


京子は答えた。


「ただし、現場の負担になりすぎない形でお願いします」


ハツエがすぐに付け加える。


「篠宮さんがまた抱え込んだら、止めますからね」


「止めてください」


京子は素直に言った。


神崎が少しだけ笑った。


その笑いは、初めて見るものだった。


「閉店告知の店頭掲示は、少なくとも次回会議までは保留にします」


神崎は言った。


「ただ、完全に白紙にはできません」


「わかっています」


京子は言った。


「でも、その紙を貼る前に、見せたいものがあります」


「見せたいもの?」


「この店を残す理由です」


京子は記録表に手を置いた。


「数字と、言葉の両方で」


神崎は、まっすぐ京子を見た。


「期待しています」


今度は、その言葉を聞いても、前ほど怖くはなかった。


京子は答えた。


「一人ではなく、店としてやります」



アパートに帰ると、京子はすぐにノートを開いた。


疲れていた。

足も重い。

頭も熱を持っている。


それでも、今日のことを忘れないうちに書きたかった。


月曜。

閉店告知資料、存在確認。

店頭掲示は保留。

存続案を作ることに。

閉店の噂、客に広がり始めている。


作業服男性「なくなると困る」

真帆さん「私も自分の分を買いやすくなった」

美羽ちゃん「からあげ、なくなる?」

乃々花ちゃん、イートインで小さめ鮭弁。

年配女性「ちょっとあると助かる」


京子は、ペンを握ったまま深く息を吐いた。


閉店告知。


その言葉は、朝からずっと京子の中にあった。


でも、夜になって少しだけ変わっていた。


ただ怖い言葉ではなくなった。

抵抗すべき相手の形になった。


紙があるなら、別の紙を作ればいい。


営業終了のお知らせに対して、営業継続の理由を。

閉店予定日に対して、これからも必要とされている記録を。

長年のご愛顧への感謝に対して、今日の晩ごはんの声を。


京子はノートの新しいページを開いた。


上に、大きく書いた。


成田台店を残す理由


その下に、箇条書きではなく、まず一文を書いた。


この店は、ただ食品を売っているのではない。

仕事帰りの人が、今日の晩ごはんをあきらめずに済む場所である。

子どもに唐揚げを食べさせたい母親が、自分の分もかごに入れられる場所である。

高校生が、帰る前に息を整えられる場所である。

妻を亡くした人が、金曜日を終えるための塩サバを買う場所である。


書いているうちに、涙が出そうになった。


でも、泣かなかった。


泣くより先に、書きたかった。


その下に、もう一行書く。


これらは感情論ではない。

小容量惣菜、予約メモ、定価販売率改善、廃棄削減、イートイン購買に結びつく、地域需要である。


急に本部の資料のようになった。


京子は少しだけ笑った。


でも、それでいいのだと思った。


感情と言葉。

数字と生活。

どちらも必要だ。


片方だけでは、店は守れない。


スマホが震えた。


前職の同僚からだった。


『今日は何の日でした?』


京子は少し考えた。


そして、正直に打った。


『今日は、閉店告知の紙を見た日でした』


少し間があって、返信が来た。


『大丈夫ですか?』


京子は画面を見つめた。


大丈夫ではない。

でも、ただ崩れているわけでもない。


『大丈夫ではないです。でも、対抗する紙を作ります』


すぐに返信が来た。


『篠宮さんらしいです。今度の紙は、人を守る紙ですね』


人を守る紙。


京子は、その言葉をノートの端に書き写した。


人を守る紙。


かつて京子は、閉店候補の一覧表を作った。

人を消す紙だったとは思いたくない。

でも、結果としてそういう紙だったのかもしれない。


今度は、人を守る紙を作りたい。


それは過去のやり直しにはならない。

でも、今できることではある。


京子はノートを閉じた。


部屋の明かりを消し、布団に入る。


目を閉じると、営業終了説明資料の文字が浮かぶ。


マルヨシ成田台店営業終了に関するご説明。


その隣に、自分のノートの文字が浮かぶ。


成田台店を残す理由。


どちらの紙が勝つかは、まだわからない。


でも京子は、少なくとも一方的に閉店シールを貼られるつもりはなかった。


店はまだ、今日の晩ごはんを売っている。

人はまだ、ここへ来る。

からあげは、まだ美羽の目を輝かせる。


なら、まだ終わりではない。


京子は、胸の中で静かに言った。


閉店告知は、まだ貼らせない。


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