第24話 半額になる前に[後編]
午後七時、ハツエは一回目の休憩に入った。
京子が時計を確認し、「休憩です」と言うと、ハツエは少し大げさに肩を落とした。
「監視が厳しい」
「約束なので」
「はいはい。十五分ね」
「二十分でもいいです」
「十五分。戻ってきたら篠宮さんも五分座ること」
「私は大丈夫です」
「出た。大丈夫って言う人ほど、大丈夫じゃない」
言い返せなかった。
京子は苦笑した。
「わかりました。あとで五分座ります」
「よろしい」
ハツエが休憩室へ向かうと、京子は売場に戻った。
内藤くんが隣でパック詰めをしながら言った。
「篠宮さん、最近、大森さんの娘みたいですね」
「それ、昨日もハツエさんに言われました」
「やっぱり」
「そんなにですか」
「はい。大森さんに休憩取らせられる人、なかなかいないので」
内藤くんは、少し笑った。
「前は、大森さんが全部決めてましたけど、最近は篠宮さんが表とかメモとか作ってくれるので、ちょっとわかりやすいです」
「本当ですか」
「はい。今日も、何をいくつ出すか紙に書いてあるから、僕でも見ればわかります」
京子は作業台の端に貼った簡単な表を見た。
商品名。
初回陳列数。
バック在庫。
予約分。
追加判断時間。
まだ雑な手書きだ。
でも、ハツエの頭の中にあった判断を、少しだけ外に出したものだった。
「助かります」
内藤くんが言った。
その言葉に、京子は少し驚いた。
客から聞く「助かります」とは違う。
一緒に働く人からの言葉。
京子は小さくうなずいた。
「私も助かっています。内藤くんが見てくれると、記録が取りやすいので」
「僕、そんな役に立ってます?」
「はい。かなり」
内藤くんは少し照れたように、パックのふたを閉めた。
「じゃあ、焼きそばの残り、ちゃんと数えておきます」
「お願いします」
改善は、人を楽にするためにある。
京子は昨日ノートに書いた言葉を思い出した。
それは、客だけではなく、働く人にも向けるべき言葉だった。
*
午後七時半、乃々花が来た。
今日は弟を連れていた。
小学一年生か二年生くらいの男の子で、ランドセルではなく小さなリュックを背負っている。
少し眠そうな目をして、乃々花の服の裾を握っていた。
「こんばんは」
乃々花が言う。
「こんばんは。弟さん?」
「はい。晴斗です」
男の子は小さな声で言った。
「こんばんは」
「こんばんは」
京子が返すと、晴斗は乃々花の後ろに少し隠れた。
「今日はお母さん、夜勤?」
京子が聞くと、乃々花はうなずいた。
「はい。家にごはんはあるんですけど、ちょっとおかず足したくて」
乃々花は新しいコーナーを見た。
「あ、これ、いいですね」
「今日から試しています」
「半額になる前に、ちょうどいい晩ごはん」
乃々花は声に出して読んだ。
晴斗が顔を上げる。
「はんがく?」
乃々花が少し慌てた。
「あとで安くなるってこと」
「じゃあ、あとでかえば?」
子どもの正直な言葉に、乃々花は一瞬困った顔をした。
京子はゆっくり言った。
「あとで安くなることもあるけど、今買うと、早く帰って食べられるよ」
晴斗は少し考えた。
「はやくたべたい」
「じゃあ、今がいいかも」
京子が言うと、晴斗は真剣にうなずいた。
乃々花は、少しだけ笑った。
「じゃあ、今買おうか」
「さけ?」
「鮭、皮も食べる?」
晴斗は少し迷ってから、京子をちらりと見た。
「たべる」
「本当かなあ」
「たべる」
乃々花は小さめ鮭弁を一つ取り、ちょこっと唐揚げを一つかごに入れた。
「今日は家で食べます」
「はい」
「イートインは?」
京子が聞くと、乃々花は少しだけ考えて、首を横に振った。
「今日は帰ります。晴斗が眠そうなので」
その言葉に、京子はほっとした。
イートインが居場所であることは大事だ。
でも、帰れる日は帰れる方がいい。
晴斗が、かごの中を見て言った。
「からあげ」
「これは半分こね」
「ねえちゃんもたべる?」
「食べるよ」
「じゃあいいよ」
乃々花の顔が少しやわらいだ。
京子は、その光景を心に刻んだ。
誰かが自分の分も食べる。
それだけで、食卓は少し変わる。
*
午後八時。
ハツエが二回目の休憩に入る前に、売場を一緒に確認した。
小さめ鮭弁は完売。
ちょこっと唐揚げは残り三。
煮物小鉢は残り一。
ローストビーフ小皿は残り一。
チキン南蛮弁当は二。
焼きそばは二。
「悪くないね」
ハツエが言った。
「小さめ鮭弁、もう一つ出せば売れたかもしれません」
「そう思う?」
「はい。でも、今日は出さなくてよかった気もします」
「どうして」
「足りないくらいで終わる日もあっていいのかな、と」
ハツエは少し目を細めた。
「昨日までの篠宮さんなら、追加してたね」
「そうかもしれません」
「今日の篠宮さんは?」
「今日は、届いた分を見ます。足りなかった分は、明日の製造数に反映します」
「いいね」
ハツエは満足そうにうなずいた。
「売り切れも、記録すれば次につながる。焦って作ると、また廃棄になるからね」
「はい」
「じゃあ、あたし休憩行く」
「行ってください」
「本当に監視されてる」
「はい」
「はいって」
ハツエは笑いながら休憩室へ向かった。
京子は売場に戻り、値引き前の残数を記録する。
今日は半額前に、かなり動いている。
半額になる前に、ちょうどいい晩ごはん。
ポップは、思った以上に効いているのかもしれない。
もちろん、日曜日で客足があることも大きい。
天気がいいこともある。
でも、売場の並べ方で、客の迷いが少し減っている。
京子はそれを、ただの成功としてではなく、記録として残そうと思った。
*
午後八時半。
一回目の値引き。
今日は残数が少ないので、二割引きで様子を見ることになった。
チキン南蛮弁当二つ。
焼きそば二つ。
ローストビーフ小皿一つ。
ちょこっと唐揚げ二つ。
白身魚フライ一パック。
京子は値引きシールを貼った。
ローストビーフ小皿に二割引きシールを貼ったところで、若い女性が手に取った。
「これ、まだ残ってた」
そう言って、かごに入れる。
半額ではなく、二割引きで売れた。
京子は心の中で小さく丸をつけた。
午後九時。
半額の時間には、残っていた商品はわずかだった。
チキン南蛮弁当一つ。
焼きそば一つ。
白身魚フライ一パック。
作業服の男性が焼きそばを買い、年配の女性が白身魚フライを買った。
チキン南蛮弁当はしばらく残ったが、九時二十分に若い男性が買っていった。
廃棄ゼロ。
京子は、空になった棚を見た。
ただ売り切れたのではない。
半額になる前に、多くの商品が届いた。
半額になった商品も、奪い合いではなく、静かに誰かに届いた。
そして廃棄箱には、今日は晩ごはんが残らなかった。
その事実に、京子は静かに息を吐いた。
嬉しい。
ただ、それだけだった。
*
閉店後、バックヤードで記録表をまとめた。
ハツエ、内藤くん、森下店長も一緒に見る。
「廃棄ゼロ」
店長が、少し驚いたように言った。
「日曜日で客足があったことも大きいです」
京子はすぐに補足した。
「でも、小さめ鮭弁とちょこっと唐揚げの組み合わせ、半額前の販売に効果がありました。小さめ鮭弁は完売。欠品気味なので、次回は初回六でもいいかもしれません。ただし雨天時は三から五で調整」
「すごいですね」
店長は記録表を見ながら言った。
「これ、神崎さんに見せられますよ」
京子は少しだけ身構えたが、今日は前ほど怖くなかった。
「三日分、まとめてからの方がいいと思います」
ハツエが言った。
「一日だけで騒がない」
「はい。わかっています」
店長は素直にうなずいた。
内藤くんが、記録表の端を見て言った。
「僕が書いた焼きそばの数も入ってます?」
「入っています。助かりました」
京子が答えると、内藤くんは嬉しそうにした。
「じゃあ、明日も書きます」
「お願いします」
ハツエがそれを見て、少し笑った。
「いいね。みんなでやる感じになってきた」
その言葉に、京子は強くうなずいた。
一人で抱えない。
ハツエだけに頼らない。
店長だけを本部対応にしない。
京子だけが改善を背負わない。
みんなで見る。
みんなで書く。
みんなで少しずつ変える。
それは、店を続けるために必要なことだった。
*
アパートに帰った京子は、今日は何も買わなかった。
冷蔵庫に残っていた豆腐と卵で、簡単な雑炊を作った。
だしの素を入れ、少しだけ醤油を垂らす。
最後に卵を溶く。
湯気の立つ器をテーブルに置くと、部屋が少しだけ温かくなった。
「いただきます」
一口食べる。
優しい味だった。
今日、マルヨシの売場から出ていった晩ごはんも、それぞれの家で温められているのだろうか。
真帆と美羽と真帆の母は、小さめ鮭弁と唐揚げと煮物を分けて食べただろうか。
乃々花と晴斗は、鮭の皮を残さず食べただろうか。
作業服の男性は、焼きそばを温めただろうか。
ローストビーフを買った若い女性は、今日の自分に小さなごほうびを出しただろうか。
わからない。
でも、今日は廃棄箱の中に晩ごはんはなかった。
それだけで、京子の胸は少し軽かった。
ノートを開く。
日曜。晴れ。
「半額になる前に、ちょうどいい晩ごはん」初日。
小さめ鮭弁完売。
ちょこっと唐揚げ完売。
ローストビーフ小皿、二割引きまでに完売。
廃棄ゼロ。
真帆さん「今日は半額まで待たなくてもいいかも」
美羽ちゃん「早く食べられる?」
乃々花ちゃん、弟と来店。家で食べる。
内藤くん、記録協力。
ハツエさん、休憩二回取得。
最後の一行に、京子は小さな丸をつけた。
ハツエが休憩を取った。
それも、今日の大事な成果だった。
京子は、ページの下にゆっくり書いた。
半額になる前に届くと、誰かが早く帰れる。
半額になる前に届くと、店も続きやすくなる。
半額になる前に届くと、作った人も少し救われる。
でも、半額を否定しない。
半額で助かる夜もある。
大事なのは、選べること。
書き終えて、京子はペンを置いた。
選べること。
それが、今日の答えなのかもしれない。
半額まで待つしかないのではなく。
高い弁当を無理して買うしかないのでもなく。
何も残っていない売場にがっかりするのでもなく。
少なめを選べる。
ちょこっとを選べる。
あとで取りに来ると伝えられる。
今日はごほうびにすると決められる。
今日は早く帰ると決められる。
選べることは、人を少し楽にする。
京子はスマホを手に取った。
前職の同僚から、今日もメッセージが来ていた。
『今日は何の日でした?』
京子は少し考えた。
そして、こう返した。
『今日は、半額になる前に届いた日でした』
返信はすぐに来た。
『いい日ですね』
京子は画面を見て、少し笑った。
本当に、いい日だった。
もちろん、明日もうまくいくとは限らない。
雨が降れば売れ方は変わる。
客足が鈍れば廃棄は出る。
ハツエの検査結果もまだわからない。
神崎に見せる数字も、三か月の改善トライアルも、これからだ。
店を守れる保証なんて、どこにもない。
それでも今日、京子は確かに見た。
半額シールが貼られる前に、商品が誰かの手に渡っていくところを。
値引きを待たずに、真帆が「早く帰って食べよう」と言ったところを。
乃々花が弟を連れて、家に帰るためのごはんを選んだところを。
ハツエがちゃんと休憩を取ったところを。
内藤くんが記録表に数字を書いたところを。
小さなことばかりだ。
でも、小さなことが積み重ならなければ、店は一日も続かない。
京子はノートを閉じた。
部屋の明かりを消し、布団に入る。
髪には、今日も少し惣菜の匂いが残っていた。
唐揚げ、鮭、ローストビーフ、煮物。
それから、廃棄箱に入らずに誰かの家へ向かった晩ごはんの匂い。
目を閉じると、売場のポップが浮かんだ。
半額になる前に、ちょうどいい晩ごはん。
その言葉は、商品だけのことではないような気がした。
人も、店も、半額になる前に。
自分で自分の価値を下げてしまう前に。
誰かに「もういらない」と判断される前に。
届く場所を、形を、時間を探せるのかもしれない。
京子は、静かに息を吐いた。
明日も、売場に立つ。
半額シールを貼る日もある。
廃棄が出る日もある。
うまくいかない日もきっとある。
それでも、今日の空の廃棄箱を、京子は忘れないと思った。
誰かの晩ごはんが、ちゃんと誰かに届いた日。
その記憶があれば、明日もまた手を動かせる。




