第23話 半額になる前に[前編]
日曜日の朝、京子はノートを開いたまま、しばらく手を止めていた。
テーブルの上には、昨日の夜に書いたメモが広がっている。
ほしいものメモ。
小さめ鮭弁。
ちょこっと唐揚げ。
週末ごほうびローストビーフ小皿。
値引き商品のお願い。
イートイン利用記録。
雨天時の製造数調整。
ハツエのシフト負担。
言葉だけ並べると、どれも小さな取り組みだった。
大きな改革ではない。
新しいシステムを入れたわけでもない。
特別な広告を打ったわけでもない。
店を一気に黒字化するような魔法でもない。
けれど、その小さな取り組みのひとつひとつに、誰かの顔があった。
美羽が「ちょこっと」と笑う顔。
真帆が自分の分のローストビーフを買うときの少し照れた顔。
石動が塩サバ弁当を見つけて「間に合った」とつぶやく声。
乃々花がイートインで問題集を開く背中。
作業服の男性が「あると思うと、ちょっと安心しますね」と言ったときの疲れた笑い方。
そして、休憩室で水を飲んでいたハツエの横顔。
京子はペンを持ち直した。
昨日からずっと、頭の中にある言葉があった。
半額になる前に。
半額シールは、悪いものではない。
京子はもう、そう思っている。
母が買ってきてくれた唐揚げ弁当。
真帆が娘に買う晩ごはん。
石動が金曜日に選ぶ塩サバ。
作業服の男性の仕事終わりの弁当。
半額シールがあったから届いたごはんは、確かにある。
でも。
半額になるまで待たなければ届かないものばかりでは、店は続かない。
半額になるまで待たせることが、いつも人に優しいわけでもない。
待っている間に、子どもはお腹を空かせる。
仕事帰りの人は、疲れた体で売場をうろうろする。
閉店近くまで残った商品は、最後には廃棄になるかもしれない。
そして現場は、毎晩、売れるか捨てるかのぎりぎりで神経を使う。
必要な人に、必要な量を、必要な時間に。
そう書いてみて、京子は少しだけ苦笑した。
まるで本部の資料の見出しのようだ。
けれど、今の京子には、その言葉の中にちゃんと人の顔が見えていた。
半額になる前に、届く形を作る。
それが、今日のテーマだった。
*
午後三時半、京子は店に入った。
日曜日のマルヨシ成田台店は、家族連れが多い。
入口の青果売場では、小さな子どもがバナナを指さしている。
レジ前には、アイスを持った中学生が並んでいる。
駐車場には、少し離れた場所から来たらしい車も多かった。
バックヤードに入ると、ハツエはすでに白衣姿で作業台に立っていた。
「おはようございます」
「お疲れ。顔、眠そうだね」
「少し考えごとをしていました」
「また?」
「またです」
「篠宮さんの考えごとは、最近だいたい惣菜になるからねえ」
ハツエはそう言って笑った。
昨日の立ちくらみが嘘のように、声はいつも通りだった。
けれど京子は、今日はその「いつも通り」をそのまま信じすぎないようにしていた。
「ハツエさん、今日は休憩、ちゃんと取ってください」
「朝からそれ?」
「はい。朝ではありませんけど」
「しつこいねえ」
「今日はしつこくいきます」
ハツエは肩をすくめた。
「わかったわかった。十五分ずつ、二回取る」
「三十分まとめてではなく?」
「土日は無理。細切れで勘弁して」
「では、記録しておきます」
「休憩まで記録されるの?」
「改善は、人を楽にするためにあるので」
京子が真面目に言うと、ハツエは一瞬だけ目を丸くした。
それから、少しだけ表情をやわらげた。
「いいこと言うじゃない」
「ハツエさんの受け売りです」
「あたし、そんな賢そうなこと言った?」
「似たようなことは」
「じゃあ、あたしが賢いってことで」
「そうですね」
「そこは否定しないの」
そんな会話をしながらも、作業は進んでいく。
今日は日曜なので、ローストビーフ小皿は四つ。
ちょこっと唐揚げは十。
小さめ鮭弁は五。
焼きそば、のり弁、チキン南蛮弁当、煮物、白身魚フライ。
京子は出勤前に書いた紙を、作業台の端に置いた。
「ハツエさん、今日、もうひとつ試したいことがあります」
「来たね」
「半額になる前に売るための組み合わせです」
「名前からして本部っぽい」
「まだ商品名ではありません」
「じゃあ、何」
京子は紙を見せた。
そこには、三つの案が書かれている。
一、ひと息セット
小さめ鮭弁、またはおにぎり一個
ちょこっと唐揚げ、または煮物小鉢
お茶か味噌汁用カップ
二、親子の夜ごはんセット
ちょこっと唐揚げ
小さめ弁当
豆腐、または小さいサラダ
三、夜八時の安心メモ
予約表対象商品を売場に小さくまとめて表示
「あとで取りに来る方へ」の導線を作る
ハツエは紙を読み、うーんと唸った。
「セット販売?」
「完全なセット値引きではありません。最初は並べ方とポップだけです。組み合わせて買いやすくするだけ」
「値引きはしない?」
「しません。半額になる前に買える価格帯にするのが目的なので、最初から値引きで動かすと意味が変わってしまいます」
「ほう」
ハツエは腕を組む。
「つまり、半額で安くするんじゃなくて、最初から買いやすい形にしておく」
「はい」
「で、売れ残ったら?」
「その場合は、製造数か組み合わせが間違っていたということです。記録して調整します」
「いいね。失敗前提なのがいい」
「失敗前提……ですか」
「そう。失敗しないつもりでやると、失敗したとき折れるでしょ。最初から直すつもりでやる方が続く」
ハツエは紙を京子に返した。
「やってみよう。ポップは?」
「一応、案を書いてきました」
「読ませて」
京子は少し緊張しながら、別の紙を差し出した。
――半額になる前に、ちょうどいい晩ごはん。
――少なめ弁当と、ちょこっとおかず。
――今日の夜を軽くしたい方へ。
ハツエは読んで、黙った。
京子は不安になった。
「硬いですか」
「いや」
「変ですか」
「ううん」
ハツエは、紙を見たまま少しだけ笑った。
「いいんじゃない」
「本当ですか」
「うん。今日の篠宮さんっぽい」
「それは、いい意味ですか」
「いい意味。半分じゃなくて、全部」
珍しくまっすぐ褒められて、京子は少し言葉に詰まった。
「ありがとうございます」
「じゃあ、これ書くよ」
「ハツエさんが?」
「篠宮さんの字だと、やっぱり履歴書になるから」
「そこは変わらないんですね」
「変わらない」
ハツエは太いペンを取り、ポップ用紙に大きく文字を書き始めた。
半額になる前に、ちょうどいい晩ごはん。
丸く、少し弾むような字だった。
*
午後五時、惣菜売場の一角に新しい小さなコーナーができた。
小さめ鮭弁。
ちょこっと唐揚げ。
煮物小鉢。
ポテトサラダ小。
紙パックのお茶。
味噌汁用の即席カップ。
完全なセットではない。
ただ、隣に並べただけ。
けれど、並べ方を変えるだけで、売場の意味は少し変わった。
これまで、それぞれの商品は別々に並んでいた。
弁当は弁当。
惣菜は惣菜。
飲み物は飲み物。
日配は日配。
でも、同じ場所に置くと、「この組み合わせで晩ごはんになる」と見える。
買う人が、頭の中で組み立てなくてもいい。
売場が、少しだけ代わりに考えてくれる。
京子は少し離れたところから、そのコーナーを見た。
派手ではない。
特売感もない。
でも、やわらかい。
ハツエが横に立った。
「地味だね」
「はい」
「でも、こういう地味なのが続くと強い」
「そう思います」
「大当たりはしないけど、毎日少しずつ助かる商品」
京子はうなずいた。
大当たりを狙う商品ではない。
誰かの毎日に、少しだけ入っていく商品。
それこそが、今の成田台店に必要なのかもしれない。
午後五時半、最初に足を止めたのは、三十代くらいの男性だった。
仕事帰りには少し早い。
休日出勤だったのか、襟付きのシャツにチノパン姿で、片手に買い物かごを持っている。
男性はポップを読み、小さめ鮭弁を一つ手に取った。
それから、ちょこっと唐揚げではなく、煮物小鉢を選んだ。
最後に、お茶を一本取る。
京子はメモ帳に書いた。
五時三十四分。男性。小さめ鮭弁+煮物+お茶。ポップ読了後購入。
次に来たのは、年配の女性だった。
彼女は小さめ鮭弁を見て、「これくらいなら食べきれるわね」と言い、ポテトサラダ小と一緒に買っていった。
五時五十六分。年配女性。食べきれる量。
午後六時過ぎには、若い女性が立ち止まった。
小さめ鮭弁を手に取り、戻し、ちょこっと唐揚げを手に取り、戻す。
少し迷ってから、結局ちょこっと唐揚げと即席味噌汁を買っていった。
六時十二分。若い女性。弁当は戻す。唐揚げ+味噌汁。家にごはんあり?
京子は、少しだけ手応えを感じた。
商品を安くしたわけではない。
でも、選びやすくなっている。
半額になる前に、少しずつ動いている。
*
午後六時半、真帆と美羽が来た。
今日は真帆の母も一緒だった。
白髪交じりの髪を短く整えた、細身の女性だった。
歩き方はゆっくりだが、目元は真帆に似ている。
「こんにちは」
真帆が挨拶する。
「こんにちは」
美羽はすぐに言った。
「きょう、おばあちゃんもいっしょ!」
「こんにちは」
京子が会釈すると、真帆の母はにこりと笑った。
「あなたが、赤いお肉の人?」
京子は一瞬、返事に迷った。
「あ……ローストビーフでしょうか」
「そうそう。あれ、おいしかったわ。スーパーのお惣菜も変わったのねえ」
「ありがとうございます」
真帆が少し恥ずかしそうに笑った。
「母が気に入ってしまって」
「年寄りにはちょっと多いかなと思ったけど、小皿ならちょうどいいのよ」
真帆の母は売場を見て、新しいポップに気づいた。
「あら、半額になる前に、だって」
その言葉に、京子の背筋が少し伸びる。
真帆もポップを読んだ。
「ちょうどいい晩ごはん……いいですね」
「ありがとうございます」
「こういうふうに並んでると、選びやすいです」
真帆は小さめ鮭弁を一つ手に取った。
そして、ちょこっと唐揚げを一つ。
美羽が横から言う。
「みう、からあげ」
「これはみんなで分けようね」
「みんな?」
「ママと美羽と、おばあちゃん」
真帆の母が笑った。
「じゃあ私は煮物にしようかしら。こういう少しのやつがいいのよ」
真帆のかごに、小さめ鮭弁、ちょこっと唐揚げ、煮物小鉢が入った。
それは、京子が朝ノートに書いたものとほとんど同じ組み合わせだった。
親子の夜ごはん。
大人も、ちゃんとひと息。
京子の胸に、静かな喜びが広がった。
「今日は半額まで待たなくてもいいかも」
真帆がぽつりと言った。
京子は、その言葉を聞き逃さなかった。
「え?」
真帆は少し照れたように笑った。
「いえ、いつも値引きの時間を気にしてしまうんです。でも、これくらいなら、今買って帰ってもいいかなって」
京子は、胸の奥がじんとした。
半額になる前に届いた。
それはただ、店の利益が上がったということではない。
真帆が、値引き時間に縛られずに帰れるということだ。
美羽がお腹を空かせて待つ時間が短くなるということだ。
真帆自身の食事も、ついでではなく、最初からかごに入るということだ。
「ありがとうございます」
京子は言った。
店員としての言葉だった。
でも、それ以上の気持ちがこもっていた。
真帆は少し不思議そうに笑った。
「こちらこそ、助かります」
美羽がかごを覗き込む。
「きょう、はやくたべられる?」
「うん。今日は早く帰って食べよう」
「やった!」
その声は、京子にとって今日一番の成果のように感じられた。
*




