第22話 ハツエの秘密[後編]
午後七時半、乃々花が五番の小さめ鮭弁を受け取りに来た。
「今日は大森さん、いないんですか」
乃々花が売場の奥を見ながら聞いた。
「少し休憩中です」
「そうなんですね」
乃々花は小さめ鮭弁を受け取り、番号シールを返した。
「いつも元気な人ですよね」
「はい」
「でも、元気な人って、疲れてても元気なふりしますよね」
京子は少し驚いた。
「そう思いますか」
「うちのお母さんもそうなので」
乃々花は、リュックに弁当を入れながら言った。
「夜勤明けでも、『平気』って言います。でも、全然平気じゃない顔してます」
「……そうですか」
「だから最近、弟の朝ごはんは私が少しやってます。全部は無理だけど」
乃々花は少し照れたように笑った。
「鮭弁、便利です」
京子は、胸の奥が温かくなるのを感じた。
「ありがとうございます」
「こちらこそ。助かってます」
助かってます。
乃々花のその言葉は、作業服の男性や真帆の言葉と少し違う響きだった。
高校生の少女が、自分の家の中で少し大人の役割を背負っている。
その背中が、京子には眩しくもあり、心配でもあった。
「乃々花さんも、無理しすぎないでくださいね」
京子が言うと、乃々花は少し首を傾げた。
「京子さんもですよ」
初めて名前で呼ばれた。
乃々花はそれに気づいていないようだった。
京子は少しだけ笑った。
「はい。気をつけます」
*
午後八時、真帆が美羽を連れて戻ってきた。
四番の番号シールを見せる美羽は、まるで宝物の引換券を持っているようだった。
「よんばん!」
「はい。四番のローストビーフ小皿ですね」
京子が商品を渡すと、美羽は満足そうにうなずいた。
「あかいおにく」
真帆が笑う。
「これはおばあちゃんの分ね」
「みうは?」
「美羽はちょこっと唐揚げ買ったでしょ」
「ちょっとだけ」
「じゃあ、ちょっとだけね」
親子の会話はいつも通りだった。
でも京子は、今日はその「いつも通り」がとてもありがたく思えた。
休憩室では、ハツエがまだ少し休んでいる。
売場には、真帆と美羽がいる。
乃々花は家に帰った。
年配の夫婦はローストビーフを持って帰った。
これから石動が来るかもしれない。
誰かの生活は、誰かの病院の電話を知らないまま続いていく。
それは冷たいことではない。
だからこそ、店は開いている。
誰かが不安でも、誰かが疲れていても、売場にはごはんが並ぶ。
ただし、それを一人で支える必要はない。
京子は、そこを間違えてはいけないと思った。
午後八時半、一回目の値引き。
ハツエは休憩室から戻ってきた。
「もう大丈夫」
「本当に?」
「本当に。水飲んで、少し休んだら戻った」
顔色は、さっきより少し良くなっていた。
それでも京子は言った。
「今日は私が値引きシール貼ります。ハツエさんは横で見ていてください」
「仕切るねえ」
「仕切ります」
「じゃあ、任せる」
ハツエは少しだけ笑った。
京子は値引き機を持ち、売場に出た。
二割引き。
三割引き。
半額。
時間と残数を見ながら、シールを貼る。
今日は土曜日で客足がある。
予約分はすべて受け渡し済み。
廃棄はそこまで多くならないだろう。
それでも油断はしない。
売場を見る。
人を見る。
ハツエの顔色も、ときどき見る。
「篠宮さん」
ハツエが小声で言った。
「はい」
「見すぎ」
「すみません」
「でも、まあ、今日は許す」
京子は少しだけ笑った。
*
閉店後、廃棄は少なかった。
焼きそば一つ。
煮物一つ。
白身魚フライ一パック。
予約表は五件。
すべて受け渡し完了。
数字としては、良い日だった。
でも京子にとって、その日の一番大きな出来事は、売上でも廃棄でもなかった。
ハツエの秘密を知ったこと。
そして、ハツエが一人ではないと伝えられたこと。
閉店作業のあと、京子は休憩室でハツエと二人になった。
店長には、ハツエが自分から「来週検査で半日休む」と伝えた。
詳しい病名は言わなかったが、店長は真剣な顔でうなずき、「シフトは調整します」と言った。
ハツエはそのあと、少し照れたように京子に言った。
「言ったよ」
「はい。聞こえました」
「満足?」
「少し」
「少しだけ?」
「検査にちゃんと行くまで、完全には満足しません」
「厳しいねえ」
「厳しくします」
ハツエは苦笑した。
それから、ぽつりと言った。
「あたしね、この店が好きなんだよ」
京子は黙って聞いた。
「すごく立派な店じゃないし、売上も大したことないし、設備も古い。お客さんも面倒くさい人いるし、半額の時間は戦場になるし、店長は頼りない」
「最後のは店長に言えませんね」
「言ってるよ」
「言ってるんですね」
「でも、好きなんだよ」
ハツエは、休憩室の壁を見た。
古いシフト表。
手書きの注意書き。
給湯器の横の湯のみ。
誰かが置いていった飴の袋。
「夫が亡くなったあと、あたし、家にいるのが嫌でね。ここで働く時間があって助かった。朝起きて、行く場所がある。作るものがある。待ってる人がいる。それだけで、人間けっこう生きられる」
京子は、石動のことを思い出した。
妻を亡くしたあと、金曜の塩サバを買いに来る人。
ハツエもまた、この店に救われた人なのだ。
「だから、店がなくなるかもしれないって聞いたとき、腹が立った」
ハツエは続けた。
「でも同時に、仕方ないとも思った。数字が悪いなら、会社は切る。商売だからね」
「はい」
「でも、篠宮さんが来て、変な小さい唐揚げ出して、ローストビーフを小皿にして、予約表まで作ってさ」
「変な小さい唐揚げ」
「褒めてるの」
「半分だけですね」
「うん、半分だけ」
ハツエは笑った。
「それで思ったんだよ。まだ変えられること、あるんだなって」
京子は、胸が熱くなった。
自分はずっと、ハツエに支えられていると思っていた。
でも、京子の小さな提案もまた、ハツエに何かを返せていたのかもしれない。
「ハツエさん」
「ん?」
「店も、ハツエさんも、まだ終わりじゃないです」
言ってから、少し強すぎたかもしれないと思った。
でもハツエは、静かに笑った。
「そうだね」
そして、いつもの調子で付け加えた。
「勝手に閉店シール貼られちゃ困る」
京子は少し笑った。
「閉店シール」
「半額シールより嫌でしょ」
「嫌です」
「じゃあ、貼らせないようにしないとね」
「はい」
「ただし、無理しすぎない」
「ハツエさんもです」
「はいはい」
「一回だけではなく、本当にです」
「わかったって」
ハツエは両手を上げるふりをした。
「篠宮さん、だんだん娘みたいになってきたね」
その言葉に、京子は少しだけ動揺した。
娘。
母の家計簿。
半額弁当。
レシートの裏の言葉。
それらが胸の奥で静かに揺れた。
「娘にしては、少し年がいっていますけど」
「何言ってるの。あたしから見れば、まだまだ若いよ」
「そうですか」
「そう。だから、一人で全部背負おうとしない。若い人はすぐ、自分だけで何とかしようとするから」
「それはハツエさんも同じです」
「年寄りはもっと厄介なの。自分がいないと回らないって思いがちだから」
「そこは自覚あるんですね」
「あるよ。だから、今日ちょっと反省した」
ハツエは珍しく素直に言った。
「あたしが倒れたら、惣菜が回らないって思ってた。でも、さっき篠宮さん、ちゃんと回してた」
「短い時間だけです」
「短い時間でも、回った」
その言葉は、京子にとって大きかった。
誰かがいないと回らない職場は危うい。
前職でも、それを痛いほど知っていた。
でも、今の自分たちも同じことをしていたのかもしれない。
ハツエ一人に頼りすぎていた。
京子一人が改善を抱えそうになっていた。
店長一人が本部対応を抱えていた。
それでは、続かない。
店を残すためには、商品だけでなく、働く人の支え方も変えなければならない。
*
アパートに帰った京子は、ノートを開いた。
土曜。晴れ。
ほしいものメモ五件、全件受け渡し。
廃棄少なめ。
ローストビーフ小皿、予約含め完売。
小さめ鮭弁、弟用・高齢者用で動く。
ハツエさん、体調不良。来週検査。
ひとりで抱えないこと。
最後の一行を、京子は強く書いた。
ひとりで抱えないこと。
それは、京子自身の課題でもあり、ハツエの課題でもあり、この店全体の課題でもある。
売上改善。
廃棄削減。
予約表。
イートイン。
半額ルール。
そして、人の体。
どれも、続かなければ意味がない。
京子はペンを持ったまま考えた。
明日から、作業をもっと分担できないだろうか。
内藤くんにも記録表の書き方を教える。
村田さんにも、売れ方の気づきをメモしてもらう。
店長には、予約表の件数だけでなく、従業員の負担も記録してもらう。
ハツエが休んでも回るように、簡単な手順書を作る。
ただし、作りすぎない。
また自分が抱え込まない。
京子はノートに書いた。
改善は、人を楽にするためにある。
誰かをさらに忙しくするためではない。
書いてから、しばらくその文字を見つめた。
前職の京子は、そのことを忘れていたのかもしれない。
改善。
効率化。
標準化。
自動化。
どれも、本来は人を楽にするためのものだったはずだ。
なのに、いつの間にか数字を良くするためだけのものになり、人を追い詰める言葉になっていた。
今度は間違えたくない。
京子は、ハツエが休憩室で言った言葉を思い出した。
ここで働く時間があって助かった。
行く場所がある。
作るものがある。
待ってる人がいる。
それだけで、人間けっこう生きられる。
京子にとっても、今のマルヨシはそういう場所になりつつある。
会社を辞め、何者でもなくなったと思っていた自分に、白衣と帽子と値引き機を渡してくれた場所。
半額シールの意味を変えてくれた場所。
もう一度、仕事のことを考えたいと思わせてくれた場所。
そして、ハツエが守ってきた場所。
京子はスマホを手に取った。
前職の同僚から、いつものようにメッセージが来ていた。
『今日は何の日でした?』
京子は少し迷った。
ハツエの病気のことは書けない。
それは京子が誰かに話していいことではない。
だから、こう返した。
『今日は、支えてくれている人も支えないといけないと気づいた日でした』
返信は少し遅れて来た。
『大事ですね。篠宮さんも支えられてくださいね』
京子は画面を見て、少し笑った。
支えられてください。
簡単なようで、難しい。
でも、今日のハツエに言った言葉は、そのまま自分にも返ってくる。
一人で抱えない。
京子はスマホを伏せ、ノートを閉じた。
窓の外では、土曜日の夜が静かに更けている。
どこかの部屋から、テレビの笑い声がかすかに聞こえた。
ハツエはもう家に着いただろうか。
ちゃんとごはんを食べただろうか。
病院からの電話を、また一人で思い出していないだろうか。
心配は消えない。
でも、明日また会える。
明日また、声をかけられる。
明日また、売場で一緒に手を動かせる。
そのことが、今はありがたかった。
京子は布団に入った。
今日の髪には、唐揚げとローストビーフと、少しだけ消毒液のような病院を連想させる匂いが残っている気がした。
実際には、そんな匂いはしないのかもしれない。
目を閉じると、ハツエの声が聞こえる。
――売れ残りって言葉、嫌いなんだよ。
――最後まで誰かの晩ごはんになる可能性があるんだから。
人も、店も、きっと同じだ。
まだ終わりではない。
まだ届く途中だ。
まだ、形を変えられる。
京子は、胸の中でそっとつぶやいた。
勝手に閉店シールなんて、貼らせない。
それは店に対してでもあり、ハツエに対してでもあり、自分自身に対してでもあった。




