第21話 ハツエの秘密[前編]
土曜日のマルヨシ成田台店は、朝からよく晴れていた。
昨日の雨が嘘のように、空は高く、駐車場の水たまりもほとんど乾いている。
入口の自動ドアが開くたび、外の明るさが店内へ差し込み、青果売場のトマトやレタスがいつもより鮮やかに見えた。
京子が午後三時半に出勤すると、惣菜バックヤードはすでに慌ただしかった。
土曜日。
週末ごほうびローストビーフ小皿の日。
さらに、昨日から始めた「夜八時までに、ほしいものメモ」の二日目でもある。
作業台には、唐揚げ、コロッケ、焼きそば、塩サバ、鮭、小さめ弁当、そしてローストビーフ用の薄切り肉が並んでいた。
ハツエはいつものように白衣の袖をまくり、声を張っていた。
「内藤くん、焼きそばのソース入れすぎない!昨日しょっぱかったからね」
「はい」
「篠宮さん、ローストビーフ小皿、今日は六でいくよ」
「昨日より多いですね」
「土曜だからね。半額前に四つ売れたら勝ち。二つ残ったら半額で拾ってもらう」
「わかりました」
「あと、小さめ鮭弁は五。ちょこっと唐揚げは十。ほしいものメモ用に、余力は少し残す」
ハツエの指示は早い。
けれど、その声を聞きながら、京子は少しだけ違和感を覚えた。
いつもと同じように見える。
声も大きいし、動きも速い。
でも、どこか一拍遅い。
ボウルを取ろうとして別の棚を開ける。
唐揚げの粉をまぶしながら、少しだけ手が止まる。
値札シールの設定を確認するとき、いつもより長く画面を見ている。
疲れているのだろうか。
そう思っても、不思議ではなかった。
ここ数日、店は変化の連続だった。
ちょこっと唐揚げ。
ローストビーフ小皿。
半額商品のお願い掲示。
小さめ鮭弁。
ほしいものメモ。
三か月の改善トライアル。
その中心には、いつもハツエがいた。
京子が案を出しても、実際に売場へ落とし込むのはハツエだった。
量を決め、並べ方を決め、ポップを書き、店長を動かし、パートに伝える。
京子が数字や記録を見ている間、ハツエはずっと手を動かしていた。
「ハツエさん、少し休みましたか」
京子が尋ねると、ハツエはすぐに笑った。
「休んだよ。昨日、家帰ってから十時間寝た」
「本当ですか」
「八時間くらい」
「減りましたね」
「細かいねえ」
「顔色が少し悪い気がしたので」
そう言うと、ハツエは一瞬だけ表情を止めた。
ほんの一瞬だった。
けれど京子には見えた。
すぐに、いつもの顔に戻る。
「照明のせいでしょ。惣菜売場の蛍光灯は人を老けさせるからね」
「そういう問題でしょうか」
「そういう問題。ほら、手を動かす」
「はい」
京子はそれ以上聞かなかった。
踏み込みすぎてはいけない。
客に対してだけでなく、同僚に対しても同じだ。
でも、胸の奥に小さな引っかかりが残った。
*
午後四時半、売場に「ほしいものメモ」のポップを出した。
昨日より少しだけ文面を変えた。
――夜八時までに、ほしいものメモ
――あとで取りに来たいお惣菜がありましたら、お声がけください。
――当日分のみ、できる範囲でご用意します。
――数に限りがあります。
昨日の「少なめ弁当がほしい」よりも、少し広くした。
ただし、あくまで「できる範囲」と書いた。
確実な予約ではない。
でも、売場とお客さんの間に、小さな約束を作る。
土曜日だからか、昨日より反応は早かった。
午後五時前、年配の夫婦がローストビーフ小皿を二つ、六時半受け取りでメモした。
「息子が来るから、ちょっとつまみになるものをね」
妻らしい女性がそう言った。
午後五時二十分には、真帆が美羽を連れて来店した。
今日は美羽の髪がいつもよりきれいに結ばれている。
どこかへ出かけた帰りなのか、真帆も少しだけよそ行きのブラウスを着ていた。
「こんにちは」
「こんにちは」
京子が挨拶すると、美羽はすぐに売場を見上げた。
「ちょこっとある?」
「ありますよ」
「やった」
真帆はポップに気づき、少し首をかしげた。
「これ、昨日の予約みたいなものですか?」
「はい。まだ試しですが、あとで取りに来たいものがあれば、メモできます」
「じゃあ……」
真帆は少し考えた。
「ローストビーフ小皿を一つ、八時ごろでもいいですか。今日はこのあと母の家に寄るので」
「ありがとうございます。八時ごろ、ローストビーフ小皿一つですね」
「はい。母が、あれ気に入って」
「お母様が?」
「はい。前に持っていったら、『スーパーのお惣菜も今はしゃれてるのね』って」
真帆は少し嬉しそうに笑った。
美羽が横で言う。
「あかいおにく!」
「美羽も好きだもんね」
「うん!」
京子は四番の番号シールを渡し、表に記入した。
四番。
ローストビーフ小皿一。
二十時。
真帆さん、母の家帰り。
個人名は本来書かない方がいい。
けれど自分用のメモとして、京子は小さく「真帆さん」とだけ端に記した。
その人の生活の流れを、少しだけ知っておくこと。
それは、ただの効率化とは違う気がした。
午後五時半、乃々花も来た。
今日は制服ではなく、薄いパーカーにジーンズ姿だった。
部活は休みなのかもしれない。
「こんにちは」
「こんにちは。今日は早いですね」
「図書館に行ったんですけど、集中できなくて」
「そうでしたか」
「ここの方が、なんか集中できます」
乃々花は少し恥ずかしそうに言った。
京子は、イートインの窓際の席をちらりと見た。
確かに、乃々花にとってあの席は、もうただの休憩席ではなくなっているのかもしれない。
「今日は何にしますか」
「ちょこっと唐揚げと、カフェオレ。あと……」
乃々花はポップを見て、少し考えた。
「小さめ鮭弁を七時半に一つお願いできますか。今日は家に持って帰る用です」
「はい」
「弟が、鮭の皮を残さず食べたらしいので」
「それはすごいですね」
「私が大人って言われたから、対抗したんだと思います」
乃々花は少し笑った。
京子も笑った。
五番。
小さめ鮭弁一。
十九時三十分。
弟さん用。
予約表に、少しずつ行が増えていく。
今日の売場は、いつもより先の時間まで見えている。
六時半にローストビーフ二つ。
七時半に小さめ鮭弁一つ。
八時にローストビーフ一つ。
それだけで、製造数の迷いが少し減る。
京子は表を見ながら、胸の中に小さな手応えを感じていた。
昨日捨てた晩ごはんは、今日の売場にちゃんとつながっている。
*
午後六時を過ぎたころだった。
惣菜バックヤードの隅で、ハツエのスマホが震えた。
調理場では私物のスマホを基本的に見ない。
緊急時以外は、休憩中に確認する。
だが、ハツエはその音にすぐ気づいた。
まるで、ずっと待っていた連絡のように。
手を洗い、エプロンのポケットからスマホを取り出す。
画面を見た瞬間、表情がわずかに曇った。
「ちょっと、電話出てくる」
ハツエはそう言って、バックヤードの奥へ向かった。
声はいつも通りだった。
でも、少し硬かった。
京子は手を止めそうになったが、すぐに作業へ戻った。
聞かない。
見ない。
でも、気づいてしまう。
通話は短かった。
ハツエは二分ほどで戻ってきた。
戻ってきたときには、もういつもの顔をしていた。
「ごめん。どこまでやった?」
「ローストビーフ小皿、六つ中三つ売場、二つ予約分、一つ予備です」
「よし。ちょこっと唐揚げは?」
「売場に四、バックに三です」
「じゃあ追加は様子見」
指示は的確だった。
けれど京子には、ハツエの声の奥に、何か別のものが混じっているように聞こえた。
午後六時半、年配の夫婦が予約のローストビーフ小皿を受け取りに来た。
番号シールを見せ、二つ受け取る。
「こういうの、便利ね」
女性が言った。
「ありがとうございます。まだ試しなので、不備があったら教えてください」
京子が答えると、男性が笑った。
「不備なんてないよ。忘れっぽい年寄りには番号があると助かる」
そう言って、二人は笑いながらレジへ向かった。
予約表の一番と二番に丸をつける。
その作業は、京子にとって少し嬉しいものになっていた。
丸をつけるたびに、誰かの晩ごはんがちゃんと渡った気がする。
だが、その直後だった。
ハツエが、作業台に手をついた。
ほんの一瞬、体がぐらりと揺れた。
「ハツエさん?」
京子はすぐに声をかけた。
「大丈夫、大丈夫。ちょっと立ちくらみ」
「座ってください」
「平気だって」
「座ってください」
自分でも驚くほど強い声が出た。
ハツエが、少し目を丸くした。
京子は続けた。
「今、油もあります。倒れたら危ないです」
ハツエは何か言い返そうとしたが、結局小さく息を吐いた。
「篠宮さん、たまに妙に強いね」
「必要なときだけです」
「じゃあ、必要か」
ハツエは休憩室の椅子に座った。
京子は水を持っていく。
ハツエはコップを受け取り、一口飲んだ。
「本当に大丈夫。朝、あんまり食べてなかったから」
「顔色が悪いです」
「照明のせい」
「それはさっき聞きました」
「じゃあ、年のせい」
「それも違うと思います」
京子が正面から言うと、ハツエは少し困ったように笑った。
「篠宮さん、しつこい」
「はい」
「認めるんだ」
「今日は認めます」
ハツエは水をもう一口飲んだ。
その横顔には、いつもの豪快さが少し薄れていた。
白衣の袖から見える腕が、思ったより細いことに京子は今さら気づいた。
この人はいつも大きく見える。
声が大きく、動きが大きく、売場全体を支えているから。
でも、体は一人分しかない。
当たり前のことを、京子は忘れていた。
「電話、病院からですか」
言ってから、踏み込みすぎたと思った。
ハツエは京子を見た。
少し長い沈黙があった。
「聞こえた?」
「いえ。画面は見ていません。ただ……」
「ただ?」
「ハツエさんの顔が変わったので」
「よく見てるねえ」
ハツエは苦笑した。
「売場を見る練習をしているので」
「人の顔まで見るようになったか」
「見えました」
ハツエは、しばらくコップを見つめていた。
それから、小さく言った。
「市民病院」
京子は黙っていた。
「検査の結果が出たって。来週、もう一回来てくださいってさ」
「検査……」
「たいしたことじゃないよ」
ハツエはすぐに言った。
その早さが、逆に京子を不安にさせた。
「たいしたことじゃないなら、そういう顔にはならないと思います」
「篠宮さん、今日はほんとにしつこいね」
「すみません」
「謝るくらいなら聞くなって言いたいけど」
ハツエは、少しだけ目を伏せた。
「まあ、いずれ言わなきゃいけなかったか」
京子の胸が、静かに締まった。
休憩室の外からは、内藤くんが洗い物をする音が聞こえる。
売場では、店内放送が流れている。
週末の夕方のスーパーは、何事もなかったように動いていた。
でも、休憩室の中だけ、時間が少し遅くなったようだった。
「二年前にね、手術したの」
ハツエは言った。
「乳がん」
京子は息を呑んだ。
すぐに何か言わなければと思った。
でも、軽い言葉を出したくなかった。
ハツエは続けた。
「初期だったから、取って、治療して、今は経過観察。仕事も普通にしていいって言われてる。だから、今すぐどうこうって話じゃない」
「はい」
「ただ、今回の検査でちょっと引っかかってね。詳しく見るから来週来てくださいって」
ハツエは、わざと明るく言うように笑った。
「まったく、病院ってのは呼び出し方が下手だよねえ。こっちは土曜のローストビーフで忙しいってのに」
京子は笑えなかった。
ハツエも、それを責めなかった。
「誰かに話しているんですか」
「店長は知ってる。病名までは言ってないけど、通院があることは」
「ほかのスタッフは?」
「言ってない」
「どうして」
「言ったら、みんな気を使うでしょ」
ハツエはあっさり言った。
「それに、あたしが病人みたいな顔で売場に立ったら、惣菜がまずく見える」
「そんなことは」
「あるよ。売場ってそういうもの。作ってる人がしょぼくれてると、商品もしょぼくれる」
いつものハツエらしい言い方だった。
でも、その奥にある怖さを、京子は感じた。
「怖くないんですか」
京子は聞いた。
今度こそ踏み込みすぎかもしれない。
でも、聞かずにはいられなかった。
ハツエは、少しだけ黙った。
それから、小さく笑った。
「怖いよ」
その声は、初めて聞くほど静かだった。
「怖いに決まってる。二年前も怖かったし、今も怖い。病院から電話が来るだけで、心臓が変な動きする」
京子は、何も言えなかった。
「でもね、怖いからって売場は止まらないんだよ。唐揚げは揚げなきゃいけないし、弁当は詰めなきゃいけない。真帆ちゃんは美羽ちゃんの唐揚げを買いに来るし、石動さんは塩サバを買いに来る」
「だから、無理していたんですか」
「無理ってほどじゃないよ」
「さっき倒れそうでした」
「倒れてない」
「倒れる前に止めたからです」
京子の声が、少し震えた。
ハツエはそれを見て、困ったように眉を下げた。
「篠宮さん」
「はい」
「そんな顔しない」
「無理です」
「無理か」
「はい」
京子は、手元のコップを見た。
「ハツエさんが倒れたら、困ります」
「惣菜が回らない?」
「それもあります」
「それも、か」
「でも、それだけじゃないです」
京子は顔を上げた。
「私、ハツエさんがいるから、この店で働けています」
言った瞬間、自分でも少し驚いた。
でも、本当だった。
初日に「ここでは前の仕事は関係ない」と言ってくれた。
半額シールの意味を教えてくれた。
売れ残りという言葉を嫌いだと言った。
神崎に対して「今は、うちの惣菜の人です」と言ってくれた。
京子がまた抱え込みそうになったとき、止めてくれた。
ハツエがいなければ、京子はここまで来られなかった。
「だから、一人で抱えないでください」
京子は言った。
「私にも言いましたよね。私一人で抱えないことが大事だって」
「言ったね」
「ハツエさんもです」
ハツエは、少し目を細めた。
「篠宮さんに言い返される日が来るとはねえ」
「言い返します」
「成長したね」
「茶化さないでください」
「はい」
ハツエは、珍しく素直にうなずいた。
それから、深く息を吐いた。
「わかった。来週の検査、店長にちゃんと言って、シフト調整する」
「はい」
「結果がどうかは、まだわからない。だから、今から大騒ぎはしない」
「はい」
「でも、もし治療が必要になったら、その時は相談する」
「絶対です」
「絶対ね」
「はい」
ハツエは、ようやく少しだけいつもの顔で笑った。
「篠宮さん、怖い顔すると迫力あるね」
「ハツエさんほどではありません」
「言うようになったじゃない」
その時、休憩室の外から内藤くんの声がした。
「大森さん、唐揚げの追加どうしますか」
ハツエは立ち上がろうとした。
京子がすぐに手で制する。
「座っていてください。私が見ます」
「でも」
「座っていてください」
「はいはい」
ハツエは椅子に座り直した。
京子は休憩室を出た。
バックヤードに戻ると、内藤くんが少し不安そうにこちらを見た。
「大森さん、大丈夫ですか」
「少し休んでいます。唐揚げは売場に残り二、バックに三。追加は一回止めて様子見でいいと思います」
「わかりました」
「ローストビーフは予約分以外に売場一。七時半まで様子見。小さめ鮭弁は五番分を確保、売場に二」
「はい」
指示が自然に出た。
京子は自分で少し驚いた。
ハツエがいなくても、短い時間なら売場を見られる。
もちろん、まだ完璧ではない。
でも、何もできないわけではない。
ハツエが全部背負わなくてもいいように。
そう思った瞬間、京子の中に別の力が湧いた。
*




