第20話 夜八時の予約表[後編]
午後七時を過ぎると、雨の心配はなくなった。
今日は曇りのまま持ちこたえている。
昨日より客足も悪くない。
金曜日らしく、塩サバ弁当も少しずつ動いていた。
京子は予約表と売場の残数を見比べながら、初めての感覚を味わっていた。
売場に並んでいる商品。
これから取りに来る予定の商品。
今後売れるかもしれない商品。
それらが、少しだけ立体的に見える。
もちろん、メモは完璧ではない。
来ない人もいるかもしれない。
予定時間がずれることもある。
声をかけずに普通に買う人の方が多い。
それでも、何もないよりはずっと見える。
午後七時半、一番の年配女性が戻ってきた。
隣には、小学校低学年くらいの男の子がいる。
サッカーの練習帰りなのか、ジャージ姿で、髪が汗で少し濡れていた。
「一番です」
女性は番号シールを見せた。
「ありがとうございます。小さめ鮭弁一つですね」
京子は用意しておいた弁当を渡した。
もちろん、売場から見えないところに隠していたわけではない。
売場の端に置き、番号の付箋を軽く貼っておいたものだ。
受け取り予定を過ぎたら、通常販売に戻すつもりだった。
「助かったわ。孫が今日は唐揚げがいいって言うから、私はこれくらいでいいの」
女性は笑った。
男の子は、ちょこっと唐揚げを手に取っている。
「唐揚げ!」
「はいはい。あなたはそれね」
京子は、その光景を見ながら、昨日の自分の案を思い出した。
子どもごはんのついでに。
大人も、ちゃんとひと息。
今日は、それが少し形になっていた。
午後八時。
乃々花が三番の小さめ鮭弁を受け取った。
イートインで英単語帳を広げていた乃々花は、時間になるときちんと売場に来た。
「三番です」
「はい。ありがとうございます」
「なんか、本当に予約みたいですね」
「まだメモです」
「メモって言い張るんですね」
乃々花は少し笑った。
「弟さん、鮭は食べられますか」
「食べます。皮は残すけど」
「私も子どものころ、皮は苦手でした」
「今は?」
「今は好きです」
「大人ですね」
「大人かもしれません」
京子がそう答えると、乃々花は少し笑って、弁当をリュックに入れた。
「今日は早めに帰ります」
「気をつけて」
「はい」
その「早めに帰ります」が、京子には少しだけ嬉しかった。
イートインが居場所になることは悪くない。
でも、家に持って帰るごはんがある日も、あってほしい。
乃々花が出ていったあと、京子は予約表の三番に小さく丸をつけた。
受け渡し完了。
その丸は、ただの商品管理ではなく、誰かの夜がひとつ進んだ印のように見えた。
*
午後八時半。
二番の作業服の男性は、予定どおり戻ってきた。
少し息が上がっている。
「すみません、遅くなりました」
「大丈夫です。八時半ごろで伺っていました」
「二番です」
京子は小さめ鮭弁を渡した。
男性はそれを受け取り、ほっとしたように笑った。
「あると思うと、ちょっと安心しますね」
「安心、ですか」
「はい。仕事終わりに来て、何も残ってないと、けっこう堪えるんで」
その言葉は、京子の胸に残った。
何も残っていない売場。
それは店にとっては、売り切れてよかった状態かもしれない。
でも、遅く来る人にとっては、何も残っていない夜になる。
かといって、多く作れば廃棄が出る。
だから、予約表がある。
全部は救えない。
でも、今日来るとわかっている一人には届かせられる。
「ありがとうございます。またよろしければ、お声がけください」
京子が言うと、男性は軽く頭を下げた。
「助かります」
いつもの言葉だった。
けれど今日は、少し違う響きに聞こえた。
助かります。
それは、安く買えたからだけではない。
そこにあるとわかっていたから。
仕事が終わるまで、晩ごはんの心配を少しだけ減らせたから。
京子は、予約表の二番にも丸をつけた。
午後八時四十五分。
ハツエが売場に来て、予約表を覗き込んだ。
「三件、全部受け取り済み?」
「はい」
「初日としては上出来」
「でも、まだ数が少ないです」
「最初から多い方が怖いよ。これくらいでいい」
ハツエは売場を見た。
「残数は?」
「小さめ鮭弁は完売です。ちょこっと唐揚げ残り二。塩サバ弁当は残り二。チキン南蛮弁当一。焼きそば二」
「塩サバ、石動さんまだだね」
「はい」
京子は入口の方を見た。
金曜日。
塩サバ弁当。
石動。
予約表を始めた日だからこそ、京子は少し考えていた。
石動にも声をかけるべきか。
毎週金曜に来るなら、予約表を使ってもらえれば、欠品も廃棄も減る。
でも、それは違う気もした。
石動の金曜日は、ただ塩サバを確保することだけではない。
半額の時間に来て、売場に残っている塩サバを見つけて、「間に合った」と思う。
その流れそのものが、習慣になっているのかもしれない。
予約は便利だ。
でも、便利にすればいいとは限らない。
午後九時少し前、石動は来た。
今日は雨ではない。
グレーのジャンパーではなく、薄い紺色のカーディガンを着ていた。
いつものように、ゆっくり惣菜売場へ向かってくる。
塩サバ弁当は二つ残っていた。
京子は半額シールを貼る準備をしながら、石動が売場の前に立つのを見た。
石動は、塩サバ弁当を見つけて少しだけ表情をやわらげた。
午後九時。
京子は塩サバ弁当に半額シールを貼った。
ぺたり。
石動がそれを手に取る。
「今日も間に合いましたね」
京子が思わず言うと、石動は少し驚いたように顔を上げた。
それから、静かに笑った。
「そうだね。今日も間に合った」
その声は、やはり京子の胸に残った。
予約表のことを、京子は言わなかった。
少なくとも今日は。
石動は塩サバ弁当をかごに入れ、いつものように豆腐と牛乳、そして仏花を手に取った。
その姿を見送りながら、京子は思った。
予約表は、誰かの不安を減らすためのもの。
でも、すべての買い物を効率化する必要はない。
少し不確かなまま残しておくことで、守られる気持ちもある。
間に合った。
その言葉には、たぶん意味がある。
*
閉店後、廃棄は少なかった。
焼きそば一つ。
煮物一つ。
白身魚フライ一パック。
昨日に比べれば、ずっと少ない。
京子は廃棄記録を書きながら、胸の奥が少しだけ軽くなるのを感じた。
もちろん、天気が良かったこともある。
金曜日で客足があったことも大きい。
予約表だけの効果ではない。
それでも、小さめ鮭弁が五つ作って五つ売れたこと。
三件のメモが全て受け取りにつながったこと。
残数を見ながら追加製造をしなかったこと。
それらは、確かに今日の廃棄を減らした。
ハツエは記録表を見て、満足そうにうなずいた。
「いいね」
「まだ初日です」
「だから、初日にしてはいいね」
「はい」
「篠宮さん、昨日の廃棄、ちゃんと今日に使えたね」
その言葉で、京子の胸が熱くなった。
昨日捨てた弁当。
透明な袋の中の晩ごはん。
それを、ただつらい記憶で終わらせずに済んだ。
「でも、予約表は課題もあります」
京子は言った。
「お客様への説明が少し難しいです。確実な取り置きとの違いをどう伝えるか。受け取りに来なかった場合の扱い。対象商品をどこまで広げるか。個人情報を取らない形での管理」
「はいはい、課題大好きだね」
「好きではありません」
「でも出てくる」
「出てきます」
ハツエは笑った。
「いいんだよ。課題が出るのは、動いた証拠」
京子は記録表を見た。
番号一、二、三。
それぞれ丸がついている。
小さな丸が三つ。
それは、ただの売上三件ではない。
年配の女性と孫。
作業服の男性の朝食。
乃々花の弟の弁当。
三つの夜が、少しだけ見えた。
店長も閉店後にやってきて、記録表を見た。
「初日、うまくいったんですね」
「はい。小規模ですが」
京子が答えると、店長はほっとしたように笑った。
「よかったです。これ、本部に報告できますね」
その言葉に、京子は少しだけ身構えた。
本部に報告。
すぐに資料化して、成果として見せる。
その流れには、まだ少し怖さがある。
ハツエが店長を見た。
「店長」
「はい」
「本部に見せる前に、まず三日続けましょう」
「あ、そうですね」
「一日で騒ぐと、また続かなくなるから」
京子はハツエの言葉に、心の中でうなずいた。
小さく始める。
小さく続ける。
うまくいったら広げる。
前職の京子は、最初から完成形を求めすぎていたのかもしれない。
きれいな資料。
完璧な運用。
例外のないルール。
でも現場は、もう少し柔らかく動く。
試す。
直す。
また試す。
それでいい。
*
アパートに帰った京子は、今日は塩サバ弁当を買っていた。
半額ではない。
石動が買ったものとは別に、閉店前に定価で一つ買った。
金曜日だったから、どうしても食べたくなったのだ。
電子レンジで温め、大根おろしを添える。
テーブルに置くと、部屋に焼き魚の匂いが広がった。
「いただきます」
京子は塩サバを一口食べた。
ほどよい塩気。
大根おろしの冷たさ。
白いごはん。
金曜日の味。
そう思えるようになった自分が、少し不思議だった。
食べ終えてから、京子はノートを開いた。
金曜。
夜八時までに、ほしいものメモ初日。
一番:小さめ鮭弁一、十九時三十分。年配女性、孫の唐揚げと一緒。
二番:小さめ鮭弁一、二十時三十分。作業服男性、翌朝用。
三番:小さめ鮭弁一、二十時。乃々花ちゃん、弟用。
全件受け渡し完了。
小さめ鮭弁五個完売。
廃棄少なめ。
そこまで書いて、京子はペンを止めた。
今日の予約表は、ただ廃棄を減らすためだけのものではなかった。
あると思うと、ちょっと安心しますね。
作業服の男性の言葉を思い出す。
そうだ。
予約は、安心を作る。
遅く来ても、何もないかもしれないという不安。
子どもの迎えのあと、自分の食事まで手が回らないかもしれない不安。
家で待つ弟に、何を食べさせるか決まっていない不安。
その小さな不安を、少しだけ減らす。
京子はノートに書いた。
予約表は、売上のためだけではない。
今日の晩ごはんがあるとわかる安心のため。
そして、もう一行。
ただし、全部を予約にしない。
間に合った、と思える買い物も残す。
石動の顔が浮かんだ。
塩サバ弁当を見つけたときの、あの少しだけゆるむ表情。
便利さと、習慣。
安心と、偶然。
効率と、余白。
店はその間にある。
京子は、少しだけ笑った。
考えることが増えている。
でも、不思議と嫌ではなかった。
前職では、考えれば考えるほど追い詰められた。
今も疲れはある。
でも、考えた先に売場がある。
人がいる。
明日試せることがある。
それが、以前とは違う。
スマホが震えた。
前職の同僚から、いつものメッセージだった。
『今日は何の日でした?』
京子は少し考えて、返した。
『今日は、晩ごはんの予約表を作った日でした』
少しして返信が来た。
『篠宮さん、だんだんお店を作ってますね』
京子は、その言葉をしばらく見つめた。
お店を作っている。
自分にそんな大きなことができているとは思わない。
でも、売場の端に小さなポップを置いた。
メモ用紙に番号を書いた。
誰かがその番号を持って戻ってきた。
弁当を受け取って、「助かります」と言った。
それは確かに、店の一部を少し作ったことなのかもしれない。
京子は返事を打った。
『まだ小さなメモ一枚分です。でも、昨日捨てた晩ごはんを、今日は少し減らせました』
送信して、スマホを伏せた。
窓の外では、金曜日の夜が静かに更けていく。
石動はもう塩サバを食べただろうか。
年配の女性は孫と唐揚げを食べただろうか。
作業服の男性は、明日の朝の弁当を冷蔵庫に入れただろうか。
乃々花は弟に鮭弁を渡しただろうか。
わからない。
でも、今日の売場から出ていったごはんが、それぞれの家に届いたことは確かだ。
京子はノートを閉じた。
明日も予約表を出す。
もっとわかりやすい説明にする。
対象商品を少し調整する。
受け取り時間の扱いも、ハツエと相談する。
一度で完成しなくていい。
今日のメモ一枚が、明日の売場を少し変える。
それでいい。
布団に入ると、今日の髪には塩サバの匂いが少し残っていた。
金曜日の味の匂いだった。
京子は目を閉じた。
夜八時の予約表。
大げさな名前だと思ったけれど、今は少しだけ好きになっていた。
夜八時。
半額になる前。
諦める前。
捨てられる前。
誰かの晩ごはんが、まだ誰かに届く途中の時間。
明日も、その時間に売場に立とう。
京子はそう思いながら、静かに眠りに落ちた。




