第19話 夜八時の予約表[前編]
金曜日の朝、京子は一枚の紙を持って出勤した。
正確には、一枚ではない。
何度も書き直して、丸めて捨てて、また書き直して、ようやく持ってきた紙だった。
表題は、こうなっている。
――夜八時の予約表試案
自分で書いておきながら、少し大げさな名前だと思った。
けれど、ただの「惣菜予約メモ」では、何かが足りない気がした。
夜八時。
その時間は、マルヨシ成田台店の惣菜売場にとって、境目のような時間だった。
夕食のピークは過ぎている。
けれど、半額シールにはまだ少し早い。
売場には、売れるかもしれない商品と、売れ残るかもしれない商品が並んでいる。
作る側は、迷い始める。
もう少し補充するべきか。
このまま様子を見るべきか。
値引きを早めるべきか。
明日のためにデータを残すべきか。
買う側も、きっと迷っている。
今買うか。
半額まで待つか。
子どもが寝る前に帰るべきか。
明日の朝の分まで買うべきか。
昨日、廃棄箱の中の晩ごはんを見たあと、京子は考え続けていた。
作りすぎれば、捨てる。
少なすぎれば、必要な人に届かない。
半額まで待つ人がいる。
でも、半額になる前に買える形も作りたい。
その間に、予約という選択肢を置けないだろうか。
大げさなシステムではない。
アプリも会員登録もいらない。
ただ、夜八時までに店頭で「これを何時ごろ取りに来ます」と伝えてもらい、売場側で必要数を少し読めるようにする。
今日買いたい人の分を、今日のうちに見えるようにする。
それだけの、小さな仕組み。
京子は、白衣に着替える前に、事務所へ向かった。
森下店長は、パソコンの前でチラシの確認をしていた。
画面には、来週の特売予定が表示されている。
「店長、少しよろしいですか」
「はい、どうしました?」
森下店長は椅子を回した。
京子は持ってきた紙を差し出した。
「昨日の廃棄を踏まえて、惣菜の予約販売の試案を考えてみました」
「予約販売?」
店長の目が少し丸くなる。
「はい。大きな仕組みではなく、まずは手書きの予約表で試す形です」
森下店長は紙を受け取り、目を通した。
紙には、簡単な表が書かれている。
名前、または番号。
商品。
個数。
受け取り予定時間。
連絡先は原則不要。
受け取り期限は閉店三十分前まで。
当日分のみ。
対象商品は小容量惣菜、小さめ弁当、一部人気商品。
その下に、注意書きも書いた。
取り置きではなく、当日製造数調整の参考とする。
売場優先。
キャンセル前提の大量予約は不可。
衛生管理上、受け取り時間を過ぎた場合は売場に戻す。
書いていて、自分でも少し細かすぎると思った。
けれど、細かくしないと不安だった。
店長はしばらく読んでから、うーんと唸った。
「面白いですね。でも、運用できますかね」
「最初は商品を絞れば可能だと思います。たとえば、ちょこっと唐揚げ、小さめ鮭弁、週末ごほうびローストビーフ小皿。あとは金曜の塩サバ弁当などです」
「塩サバ弁当」
「はい。常連のお客様に限るわけではありませんが、金曜の夜に買う方がいるなら、需要が見えれば廃棄も欠品も減らせます」
言いながら、京子の頭には石動の姿が浮かんでいた。
雨の日、白いセダンの助手席に置かれた塩サバ弁当。
仏花。
空いた助手席。
京子は首を振るように、少し意識を戻した。
「ただ、予約といっても、常連さんの分を隠しておくのは公平性の問題があります。だから、最初は『夜八時までにお申し付けください。閉店前受け取り分の目安にします』くらいのやわらかい運用がいいかと」
「なるほど」
店長はさらに紙を見た。
「本部に確認した方がいいですかね」
その言葉を聞いて、京子は一瞬、前職の会議室を思い出した。
本部確認。
承認待ち。
運用ルール。
例外対応。
責任範囲。
何かを始める前に、何重にも確認する。
それは大事なことだ。
でも、確認しているうちに現場の困りごとは今日も続く。
京子は少し息を吸った。
「正式サービスとして大きく打ち出すなら必要だと思います。でも、まずは店内の試験運用として、紙の記録を取るだけなら、店長判断で始められる範囲ではないでしょうか」
森下店長は少し困った顔をした。
「そうですよね……」
「もちろん、衛生面や取り置きルールは守ります。予約表もお客様の個人情報を集めない形にしています」
「連絡先なし、というのは?」
「個人情報を管理する負担を増やさないためです。名前も本名ではなく、番号札のような形でもいいと思います。たとえば、予約カードを渡して、同じ番号を表に書く」
「番号札……」
店長は考え込む。
そこへ、ハツエが事務所の入口から顔を出した。
「店長、篠宮さんを困らせてます?」
「困らせてはいませんよ」
「じゃあ、店長が困ってるんですね」
ハツエは中に入り、店長の手元の紙を覗き込んだ。
「予約表?」
「篠宮さんの案です」
ハツエは紙を取り、ざっと読んだ。
「いいじゃない」
早かった。
「いいんですか?」
京子が驚くと、ハツエは紙を軽く振った。
「だって、昨日あれだけ捨てたんだよ。今日何もしない方が変でしょ」
「でも、運用が」
森下店長が言いかける。
「だから小さくやるんです。最初から完璧にしようとするから動けなくなる」
ハツエは、京子を見た。
「篠宮さん、今日やるなら対象は?」
「ちょこっと唐揚げ、小さめ鮭弁、塩サバ弁当。ローストビーフ小皿は週末用なので、今日は二つだけ出して様子見でいいと思います」
「金曜だから塩サバね」
「はい」
「石動さんの分を取り置くわけじゃないよ」
「わかっています」
「でも、塩サバが欲しい人がいるかを見えるようにするのはあり」
「はい」
ハツエはうなずいた。
「じゃあ、今日試そう。予約表って名前はちょっと硬いから、売場には『夜八時までのおとりおき相談』くらいにする?」
京子は少し眉を寄せた。
「お取り置きと書くと、確実に保管する印象が強いかもしれません」
「じゃあ、『夜八時のごはん相談』」
「それは少し曖昧すぎます」
「じゃあ何」
京子は少し考えた。
予約。
取り置き。
相談。
どれも少しずつ違う。
買う側にとってわかりやすく、でも店側が抱え込みすぎない言葉。
「……『夜八時までに、ほしいものメモ』はどうでしょう」
ハツエは一瞬きょとんとしたあと、笑った。
「急にかわいいね」
「変ですか」
「いや、悪くない。予約っていうより、メモなら気軽」
森下店長も少し笑った。
「いいかもしれません。お客様への圧も少ないですし」
「じゃあ決まり」
ハツエは即座に言った。
「店長、紙出してください。篠宮さん、売場用の文面考えて。あたし、ポップ書くから」
「今からですか」
「今から。今日の晩ごはんは今日しか救えないでしょ」
その言葉に、京子は胸を突かれた。
今日の晩ごはんは、今日しか救えない。
昨日の廃棄袋の中の弁当が浮かぶ。
誰にも届かなかった晩ごはん。
今日は、ひとつでも多く届かせたい。
*
午後五時。
惣菜売場の端に、新しいポップが置かれた。
――夜八時までに、ほしいものメモ
――「あとで取りに来たい」「少なめ弁当がほしい」など、お気軽にお声がけください。
――当日分のみ。数に限りがあります。
ハツエの丸い字で書かれたそのポップの横に、小さなクリップボードが置かれている。
予約表、というより本当にメモだった。
番号。
商品。
個数。
受け取り予定時間。
名前欄はない。
番号札の代わりに、余っていた惣菜用の小さな丸シールに番号を書き、控えとしてお客に渡すことにした。
京子は売場に立ちながら、少し緊張していた。
本当に声をかけてくれる人がいるだろうか。
わかりにくいと思われないだろうか。
予約なんて面倒だと思われるかもしれない。
午後五時半。
最初に反応したのは、意外にも年配の女性だった。
いつも煮物を買っていく人だ。
白髪をきれいにまとめ、手押しカートを押している。
「これは何?」
女性がポップを指さした。
京子は少し背筋を伸ばす。
「本日から試しに始めたものです。夜に取りに来たい商品がある場合、八時までにお声がけいただければ、製造数の参考にさせていただきます」
自分で言って、少し硬いと思った。
女性は首をかしげた。
「つまり、頼んでおけば残してくれるの?」
京子は一瞬迷った。
「確実なお取り置きではないのですが、できる範囲でご用意します。受け取り予定の時間を過ぎた場合は、売場に戻す場合があります」
「ふうん」
女性は売場を見た。
「小さい鮭のお弁当、昨日あったでしょう。あれ、今日はある?」
「はい、今日は三つ出しています」
「夜七時半ごろ、孫を迎えに行った帰りに寄るから、一つあると助かるんだけど」
京子は胸が少し弾んだ。
「ありがとうございます。では、小さめ鮭弁一つ、七時半ごろでメモしておきます」
「名前は?」
「番号で管理します。こちらの一番のシールをお持ちください」
「一番ね」
女性は少し面白そうに笑った。
「なんだか病院みたい」
「すみません」
「いいのよ。忘れなくて済むから」
京子は予約表に書いた。
一番。
小さめ鮭弁一。
十九時三十分。
最初の一行。
それだけなのに、京子は少し感動していた。
これで、夜七時半に小さめ鮭弁を一つ求める人がいるとわかる。
作りすぎるのではなく、見込みではなく、今日の誰かの予定として。
ハツエがバックヤードから小声で言った。
「一件目?」
「はい」
「よしよし」
ハツエは嬉しそうにうなずいた。
*
二件目は、午後六時過ぎに来た。
作業服の男性だった。
彼はポップを読んで、少し迷ったように京子を見た。
「これ、弁当もいいんですか」
「はい。対象商品であれば」
「じゃあ、小さめ鮭弁、八時半ごろに一つお願いできますか。今日、少し残業で、またあとで来るので」
「ありがとうございます」
京子は二番のシールを渡した。
「昨日の、朝にちょうどよかったです」
「本当ですか」
「はい。普通の弁当だと重いので」
作業服の男性は、少し照れたように言った。
「朝、コンビニでパン買うより、ちゃんと食べた感じがしました」
京子は、その言葉を胸の中で何度も繰り返した。
ちゃんと食べた感じ。
それは、数字には出ない価値だった。
でも、記録すれば見せられる。
二番。
小さめ鮭弁一。
二十時三十分。
朝食用。普通弁当は重い。
京子は余白に小さくメモした。
三件目は、乃々花だった。
午後六時半に来店した乃々花は、今日はイートインに座る前にポップを見つけた。
「ほしいものメモ?」
「今日から試しです」
「予約ですか?」
「予約に近いですが、まだ試験なので、メモです」
「メモ」
乃々花は少し笑った。
「じゃあ、ローストビーフはありますか」
「今日は金曜なので、ローストビーフ小皿は二つだけです」
「もうあります?」
「一つ売れて、残り一つです」
乃々花はしばらく迷った。
「今日は、テストじゃないんですけど」
「はい」
「部活で、ちょっと嫌なことがあって」
京子は黙っていた。
乃々花は自分の靴先を見ながら、小さく続けた。
「だから、八十点とかじゃないけど、買ってもいいですか」
京子は、静かに微笑んだ。
「いいと思います」
「基準、破ってますけど」
「ごほうびのルールは、直してもいいと思います」
「そうですか?」
「はい。続けるためのルールなら、苦しい日は少し変えてもいいんじゃないでしょうか」
乃々花は、少しだけ目を伏せた。
それから、ローストビーフ小皿を一つ手に取った。
「今日は、今買います」
「はい」
「でも、明日の小さめ鮭弁を一つ、八時ごろにお願いしてもいいですか。弟の分で」
「もちろんです」
京子は三番のシールを渡した。
三番。
小さめ鮭弁一。
二十時。
弟さん用。
書きながら、京子はまた胸の奥が熱くなるのを感じた。
小さめ鮭弁は、京子が考えたときとは違う使われ方をしている。
親の分だけではない。
朝食。
弟の分。
軽めの食事。
誰かがちゃんと食べるための小さな弁当。
商品は、売場に出たあと、買う人たちの生活の中で意味を変えていく。
*




