この曇り空を抜け出そう!③(2000年代)
今朝は店開けで、起きたのが五時半。もう朝から何度もあくびを連発してしまっている。
「おっはよー!」
店の前を通る小学生の男の子が、元気いっぱいに声を掛けてくる。
正志は店の前を通学で通る、近くの小学生たちの人気者だ。
このいま声を掛けてきた子は、特に仲の良い一人で、この登下校のときの「あいさつ」の付き合いも、もう三年になる。
「おぅ。おはよう」
正志も、あくび混じりにあいさつを返す。
「なんか眠そ~う。あんまり寝てないの?」
足を止めて、男の子が正志の顔を覗き込む。
「そんな眠くなんかないよ。暇だから、ちょっとノンビリしとったところや」
「ふ~ん。暇なんだぁ? 良いねぇ、大人は気楽で」
「なに言っとんのや? 小学生の方が気楽やろ」
「そんなことないって。いまどきの小学生っていうのは、いろいろと大変なんだよ」
そんな見事に大人びた答えが返ってくる。
「なんやそれ!? 航太郎、お前まだ三年生やろ。そんなん言ってたらあかんで。もっと楽しく遊ばな」
子どもには、遊ぶことも大事だ。
それは大学生のときに、小学校に教育実習に行ったときにそう思った。
「そっちもお仕事頑張らないとね」
すぐに揚げ足を取って返してくる。
「わかっとるがな。ほな、気をつけてな」
こういう小学生との会話も、ちょっとした息抜きになる。
その上、今日は所長が休みということもあり、精神的にも気楽だ。
夕方からは雨の予報だったが、それでもテンションが上がる。
最悪だったのは、その次の日。事件は起きた……。
正志が昼の十二時のからの仕事に、かなり余裕を持って出社すると、店はかなりの混みようで、特にきのうの雨で汚れたクルマが洗車待ちで並んでいる。
この店は都心から少し離れた郊外にあるのだが、近くに閑静な高級住宅街もあり、よく洗車をしてくれるお客様も多い。
珍しくオモテに出ていた所長も、それに追われているようで、目で正志に助けを求める。
もちろん、この忙しい状況を見ればそれはわかるので、すぐに着替えてオモテに出る。
洗車の拭き上げの作業にまわリ、急いで一台作業を終えてお会計を済ませ、すぐに洗車機に入っていたもう一台を取りにいくと、その一台が大変なことになっている。
サンルーフが開けられたままの高級車のその車内に水が入り、びしょ濡れの状態。
「なんやねんなこれはぁー!? 誰や、このクルマ洗車機に入れたの!?」
そう怒鳴って辺りを見渡したが、返事をするものは誰一人としていない。
給油作業をしていたアルバイトのスタッフに聞くと、この犯人はあの所長だ。
その所長はどこにいるのかとオモテを見回すが、いつのまにかその所長の姿がどこにもない。
所長を捜して、一番いる可能性が高い事務所に行ってみると、案の定所長を発見。
「あははは、馬っ鹿じゃないのそれって」
椅子に座って馬鹿笑いを上げながらくつろいでいる所長は、携帯電話で談笑中のようだ。
この姿を見ると、本当に呆れるばかりだ。
「馬鹿はアンタや……」
そう呟いて、所長の後ろに近づき声を掛けるが、所長はまったく気がつかない。
少し声を大きくして声を掛けても反応しないところをみると、どうやら無視されているようだ。
「あのぉ、所長! ちょっとだけよろしいでしょうか!」
所長の鼓膜が破れんばかりに、耳元で大声で叫ぶ。
「んもっ!? なに池田君!? 悪いけど、いま電話中!」
所長はそう冷たくあしらって、なにもまったく聞こうとしない。
こうなれば、是が非でも所長に話を聞かせるしかない。
「あの、所長! ちょっとよろしいでしょうか!」
もう一度大声で声を掛ける。
「なに!? いま電話中って言ってるでしょう」
まるで野良犬でも追い払うように、正志に向って手を払う仕種をみせる。
さすがに正志も、もう我慢の限界だ。
「あの! 所長が洗車機にお入れになったおクルマが、大変なことになってますが、それでもよろしいんでしょうか!」
含みを持たせて、事態を強調する。
「なに大変なことって?」
所長には、まるで他人事のようだ。
「はい。サンルーフが開けっ放しになっておりまして、中がびっしょりと濡れておりますが、いかがするおつもりでしょうか?」
そのありのままの事実を報告する。
「マジで!? 本当なの?」
所長はまだ正志が言っていることを、疑っているような口振りだ。
「本当にぃ~?」
再度、冗談のように聞いてくる。
「はい。では、ご自分で確かめたらよいのではないでしょうか。まだ、そのままにしていると思いますので」
「あっ、そう……」
所長はようやっと、椅子に張り付いていた腰を上げる。
洗車機のところに行ってみると、そのクルマはまだそのままので放置の状態だ。
「あっ、ホントだねぇ……」
ここまで来ても、所長にはまだ他人事のようだ。
「池田君、ちょっと一緒にいいかな」
なんの疑いもないまま、手招きされてついていくと、所長はそのクルマのお客様のところに行き、正志を後ろに立たせてから、なにを言うでもなく深々と頭を下げた。
「すみません、お客様。こちらの馬鹿がですね。サンルーフの方を開けっ放しにして洗車機に入れてしまいまして」
有ろう事か、いきなりそのことを正志に擦り付けたのだ。
「申し訳ありません、わたくしの教育が足りませんで」
余りにも突然のことで、どう反論してよいのかわからない。
所長の方は、天才詐欺師というべきじょう舌ぶりだ。
「お車の方は、一度こちらできれいにさせていただきまして、その上で後日改めまして、専門の業者の方に出して、完璧に処理をさせていただきますのでご安心ください。ほら、なにやってんの!? 君からもちゃんと謝って!」
そこまで言い切られたら、もう一緒に頭を下げる以外に他はない。
「どうも、申し訳ございませんでした!」
歯を食いしばって、そのお客様に深々と頭を下げる。
もちろん、それにこんなことぐらいで、あっさりとこのお客様の怒りが納まるはずもなく、そのあと正志はお客に酷く怒鳴られ続け、最後の最後には、正志の関西訛りが気に入らないとまで罵られ、真犯人である所長はというと、その怒鳴り続けるお客様をなだめる方にまわるという、なんとも理不尽極まりない形となった。
そのあと、ようやっとのことでそのお客様の怒りが静まり、店が用意した代車のレンタカーで無事に帰ってくれたのだが、所長は謝るでもなく、逆に身勝手な屁理屈を言ってきたのだ。
「もぉ~、池田君、そんな怒んないでよぉ」
「これが怒らずにいられますか! なんなんですか、アレは一体!?」
「そんなこと言ったってさぁ。ボクの立場も考えてよ。ボク、所長だよ。その所長が、あんなミスを犯すわけにはいかないよね~」
どういう理屈だ。理不尽にもほどがある。
「そんなこと言って、現にしっかりと犯してるじゃないですか!」
「だって、ボクがそんなミスをしたってなったら、お店として今後お客様に顔向けできなくなるんだよねー」
今更ながらにして、あくまでもこの所長は、自分の保身が一番大事なんだと痛感した。
「それにいいじゃないの。君はまだどうにでもなるんだしさ。もしここがダメでも、他にいくらでもあるでしょ」
それを聞いて、正志にはもう出る言葉はない。




