この曇り空を抜け出そう!①(2000年代)
この世の中、理不尽と思えることは沢山あるものだが、それが世の理だと言われると、ちょっと哀しくなる。
季節はもうすぐ夏を迎えようとしているのに、いまいちスッキリとしない。
それはいまが梅雨の真っ只中というのもあるのだが、もちろんそれだけではない。
今年四月の人事異動で、正志が正社員として働いているガソリンスタンドに、新しい所長がやってきたのだが、当初からその所長との折り合いが悪く、いまは限りなく最悪の状態だ。
唯一の救いといえるのは、この所長がほかのスタッフみんなにも、かなり嫌われているということなのだが、これがあまりにも酷い。
強い者には弱く、弱い者には必要以上に強いという、しかも世渡り上手を絵に描いたような人間だ。
なぜここまで酷いのか。その一番の理由として挙げられているのが、数年前に逆玉結婚した所長が、実は家庭では婿養子という弱い立場に虐げられているという噂だ。
この噂は、他の店舗の社員から耳にした。
所長にしてみればその家庭でのストレスを、この職場で思う存分発散しているのだろうが、それこそかなり迷惑な話だ。
今日も所長は、その所長という立場にかこつけて、エアコンが効いた事務所に入ったまま、店が忙しいときには全然オモテに出てこないで、まるで暇になったタイミングを見計らったかのようにオモテに顔を出す。
正志がそのことに直接所長に問いただすと、「それじゃさぁ、池田君がボクの仕事を代わりにしてよ」と返してくる始末だ。
いまこの店の社員は、この所長と正志を含めて三人いる。もう一人はこの店の副所長なのだが、いまはバイクで怪我をして入院中だ。
その為、いまは他の店舗の社員が、代わりに来てくれている。
他に、学生とフリーターのアルバイトが十人ほどいるのだが、それでも営業時間が朝七時から夜十一時までの完全フルサービスの店を回していくというのは、かなりキツかった。
正志がこの店で仕事を始めてから五年になる。
最初はアルバイトから始めて、二年が過ぎたころに、いま怪我で入院している副所長の勧めで正社員になった。
元々は地元の大阪の大学を卒業して、東京のコピー機販売の会社で働いていたのだが、ある日その会社が吸収合併されてしまい、わずか三年でリストラの目にあった。
そのときに、素直に大阪に帰れば良かったのだろうが、つまらない意地もあって、そのまま東京に居座った。
そうして新しい就職先が決まらないまま、雇用保険の受給期間も終わり、取り合えず次の就職先が決まるまでのつなぎのつもりで、アパートの近所のこの店でアルバイトをすることに決めたわけだが、始めてみるとこの仕事がけっこう自分に合っていて、そのまま仕事を続ける結果となった。
店の所長も、一人二人と変わり。天敵というべきいまの所長は、四人目に当たる。
最近はこのストレスのせいで、減らしていたタバコも吸う数がまた増えた。
半同棲中の彼女には、禁煙するようにといつも注意されているが、所長が帰ったあとの事務所での一服は、特に至福の一本だ。
今日も夜の九時に仕事を上がってから、その至福の三本目。
ついつい見るのを忘れていた携帯電話を確認すると、彼女からのメールが二件と友だちからの着信が一件。
正志がその中でしたのは、着信があった番号への、折り返し電話だ。
「おぉ、英男か。久しぶりやのぉ。元気やったんか?」
正志が折り返し電話を掛けたその相手は、以前に正志が車を買ったときに良くしてくれた、カーディーラーの元営業の畑野英男だ。
正志がいま乗っている軽自動車も、ギリギリまで値引いてもらって英男から買った。
そんな英男も、現在は転職して、何を思ったのか、探偵をしている。
英男は、特に用があったわけではなかったようだが、そのまま英男が行きつけの店のキャバクラ嬢の話で盛り上がって、気がつけば話の内容は、正志の所長に対する愚痴へと変わっていた。
「もう、ホンマやってられへんわ。あの馬鹿所長、またオレに嫌味言いよってからにやなぁ。自分はなんもせんと、オイシイところばっかり持っていって、文句ばっかり言いよる。今日もアレやで、事務所に入ったっきり、忙しいときは出てきぃひんと、暇になったら出てきょってからにやなぁ……。この前もアレやで……」
本当は、こんなつまらない話をするつもりなんてなかったのだが、つい口から出てしまった。
「ホンマ、少しは人に対して、思いやりの言葉はないんですかっちゅうねん!」
それにも関わらず、英男は相づちを打ちながら、正志の話を聞いてくれている。
「そんでもな……。オレ……この仕事嫌いやないしなぁ……。ほんで小守さんにもずっと世話になっとるし……。せやから、その心の支えでもあった小守さんが、バイクで事故して、いま入院しとんのがイタイんやなぁ……」
正志はこの店でアルバイトを始めた頃から、公私共にずっと副所長の小守健さんには世話になっている。
それまではクルマに関してはズブの素人だった正志を、一通り仕事が出来るまでに育ててくれたのも、もちろん小守さんだった。
小守さんは東北の青森県出身で、まだ二十九歳の若い奥さんと、四十歳のときに出来た、四歳になる愛娘がいる。
気さくで面倒見が良く、他のアルバイトたちからも慕われていたが、ただちょっとだけ酒癖が悪いところがあって、どうやらそれが元で、他の店への転勤もなく、いまの副所長より上には出世出来ないらしいと、そんな噂があった。
「それになぁ……。最近生活に刺激がないっちゅうかなぁ……。なんか、面白味がないねんなぁ……」
実は、正志にはもう一つ、仕事のこと以外に切実な悩みがあった。




