第5章 森の娘 4
「これはちょっと、まずいわね……。」
あたしは木々の合間から見える、茜色から濃紺に変わりつつある空を見上げて、思わず独り言を呟いてしまった。
ヌーク村を出た時はまだかなり日が高かったし、アーウィンの話ではイリア様のいる場所は村からそう遠く離れてはいないはずだったので、日没前には余裕をもって彼女の元へ辿り着けるはずだった。
アーウィンからはイリア様の居場所へと至る道中の道標となりうる目印を3箇所程教えて貰った。
内2箇所はかなり早い段階で見つかったが、最後の目印が中々見つからない。
2番目の道標を通過した後で道に迷ってしまったのは確かだろうが、具体的にどこで道を間違ってしまったのか、さっぱり見当がつかない。
あたしは振り返ってミオを見た。
「かなり暗くなってきたけど、大丈夫?灯りを点けようか?」
「いや、下手に灯りを点けると魔物や虫が寄ってくるから点けなくていい。」
「でも、あんた、夜目は効かないでしょう?」
ハーフエルフのあたしや狼のジーヴァはそれなりに夜目は効くが、ドレイクのミオの場合、人間形態時はヒューマンと同じ身体能力なので、夜目はそれ程は効かないはずだ。
ヒューマンであってもクラスによっては夜目が効く者もいるが、ドルイトには特に夜目の能力は無かった気がする。
「夜目が効かなくとも、アタイは鼻が効くからね。」
薄暗い中でもはっきり分かるくらいのドヤ顔で、ミオは胸を張る。
『鼻が効く』という言葉が文字通りの意味なのか比喩的な意味なのかは分からなかったが、ミオのドヤ顔が気に入らなかったあたしは、その言葉がどちらの意味であるのかをわざわざ確認する気にはなれなかった。
「それにしても、完全に迷ってしまったな。」
ミオが薄暗い周囲を見回しつつボソリと呟く。
その声に、嫌味とか馬鹿にするといったあたしを責める様な感情が少しでも感じられればあたしも大人気なくムキになって言い返してしまったかもしれないが、生憎その声からは現状に対する純然たる感想しか感じられなかった。
こうなると、道案内役のあたしとしては罪悪感しか感じられない。
「……悪かったわよ。」
それでも素直に謝罪出来る程人間が出来ていないあたしは、拗ねた口調で形だけの謝罪の言葉を絞り出すのがやっとだった。
ミオは相変わらず周囲を見渡しながら、あたしの拗らせ気味の謝罪には無関心な様子で言う。
「いや、これは仕方ないかな?この周辺一帯に結界の呪文が張ってある。」
「結界?」
オウム返しに尋ねたあたしにミオは頷いた。
「いわゆる『迷いの森』の結界だな。結界の中に入ろうとすると方向感覚がおかしくなって、無意識の内に結界の外に向かって方向転換してしまうという大規模な自然魔法だよ。」
確かに『迷いの森』は有名な結界魔法で、ザレー大森林の深部には自然発生したこの結界が幾つも存在するという噂もある。
ただ外縁部に限って言えば、あたしは一度もその手の結界に遭遇した事はない。
ただ心当たりはあった。
「魔力溜まりの周囲に自然発生した感じかな?」
『迷いの森』の結界は、高レベルのドルイトが呪文を発動して作る場合と、魔力溜まりの様な自然の魔力が凝縮した場所に自然発生する場合の2つの原因が考えられる。
だがあたしの問いに、ミオが首を振った。
「もしそうならあのエルフのオッサンが事前に警告するだろう?それともあのオッサン、敢えて結界の事を黙っている程性格悪いのか?」
ミオの歯に衣着せぬ物言いに、あたしは思わず苦笑した。
「アーウィンの性格が良いとは思わないけど、そこまで意地悪とは思わないな。」
「だろう?それに自然発生した結界って奴は魔力剥き出しだから、突破は出来なくとも感知自体は簡単なんだ。
でも、今回の結界は強力なくせに結界自体を上手に隠蔽しているからな。事実、あたいは3回感知を試みて3回目でようやく結界の存在に気づいた。その事から考えても間違いなく人為的なもの、それも結構な高レベルの術者がかけたものだね。」
「術者って、具体的にはドルイト?」
「だな。レンジャーって可能性も理論的には可能だけど、こんなに高度な結界を形成出来るレンジャーなんて、高レベルを超えて人外レベルだな。」
レンジャーの自然魔法の能力は同レベルのドルイトの半分以下だ。
つまり、最高レベルのレンジャーでもこの結界を張るのは事実上不可能という事だろう。
あたしは一応、『スカーズ』の連中が結界を張った可能性も考えたが、あたしの知る限りでは連中の中に自然魔法の使い手はいない。
となるとやはり、この結界を張ったのは高レベルドルイトであるイリア様という事になるのだろう。
「何で、イリア様はこんな結界を張ったんだろう?」
「さあな。今色々考えても仕方がないし、会って直接訊けばいいんじゃねえか?」
ほとんど独り言の様に呟いたあたしの疑問に、ミオは即座に返事をした。
その答えがあまりにもミオらしいと思ったあたしは、思わず苦笑する。
「何かおかしいか?」
薄暗いにもかかわらず、何故かあたしの苦笑に気づいたミオが不思議そうに尋ねてきた。
「いや、別に。ところで、あんたはよく結界に気づいたね?」
「う〜ん、まあ、正直、あたいにとっても中々手強い結界だったけどな。」
誤魔化す様に強引に話題を変えたあたしに、ミオは素直に乗っかってくれた。
これがマヤなら、不自然に話題を変えたというだけでしつこく粘着してきてもおかしくはない所だ。
「ただ見たことある木の傍を何回か通ったからさ。それで同じ所をグルグル回っている可能性に気づいたんだ。
それでも感知に2回も失敗したせいで、気づくのに時間がかかってしまったけどな。でもまあ、いかに上手に隠蔽した所で最終的にはあたいの鼻は誤魔化せないって事だな。」
また安易にドヤ顔するミオにあたしは失笑したが、その前の言葉がふと引っ掛かった。
「あんた、森に生えてる個々の木の区別がつくの?」
「まあね。木っていうのはどれも同じに見えるかもしれないけど、見慣れれば木の一本一本にも色々と個性があるのが分かってくるもんだ。そういった個性を意識して観察していれば、その内簡単に見分けられるようになるもんさ。」
ミオはそう言いつつ、傍らに聳える樫の大木にそっと右掌を添えた。
「ふ〜ん。まるでドルイトみたいな物言いだね。」
「ドルイトだよ!」
あたしのからかいにミオが一々反応してくれるのが少し楽しくなってきたが、ふざけてばかりもいられない。
「ともかくこの結界を何とかしないと先へ進む事は出来ないって事でいい?」
「まあ、そうだな。」
「あんた何とか出来る?」
「まあな。これ程強力な結界だと完全に解除するには数時間かかってしまうけど、穴を開けるだけなら短時間で出来ると思う。」
ミオは自信有り気にニヤッと笑った。
「穴?」
「結界を通り抜ける為の抜け穴を作るって事だな。ただそうすると、結界を張った術者に恐らく侵入がバレてしまうだろけど、どうする?」
状況からしてこの結界を作ったのは十中八九イリア様だろうし、彼女なら話せば分かるはずだ。
もしそうでないとしたら、イリア様をも上回るドルイトを敵に回す可能性もあるが、そんな人間がそうそう存在するとは思えない。
「じゃあ、お願い出来るかな?」
あたしの言葉にミオはニカッと笑った。
「いいぜ。ただもし結界が魔力溜まりの力を利用して作られている場合、ただでさえ高レベルの術者の力が更に数レベル分底上げされている可能性も高い。だからあたいでも、絶対に上手くいくとは断言出来ない。」
「そこはあんたにしか出来ない事なんだから気にしなくて良いわ。」
「それから作業中はあたい、無防備になるから警戒の方はよろしく。」
「任せて。」
あたしはそう言うと、ミオの背後を守る様にジーヴァと分担して周囲を警戒を始めた。
ノエルは鳥目なので、警戒に加わった所であまり役に立たないだろうから、無駄な危険を避ける為にも大人しくあたしの肩で待機する様に伝える。
どうやらミオと相談している間に太陽は完全に沈んでしまったようで、森の中は先程より更に暗くなっていた。
幸運にもほぼ雨季が終わりかけているせいか今夜は晴天のようだ。
木々の枝葉越しに星明かりも見えたが、鬱蒼とした木々に遮られているせいで、その星明かりの見える範囲ほんの僅かだけだった。
半分エルフの血を引くおかげでヒューマンより夜目が効くとはいえ、この光量では視界はかなり限定されてしまう。
加えて、空が茜色に染まり始めた頃から森のあちこちから蛙の鳴き声が聞こえ始めていたが、完全に太陽が落ちた頃合いからその蛙の鳴き声の音量が格段に上がっていた。
雨季も半ばを過ぎるとザレー大森林のあちこちに小さな水溜りが出来るが、その無数の小さな水溜りは蛙達にとっては絶好の産卵場所だ。
そのせいで今の時期はまさしく様々な種の蛙の繁殖期真っ只中なのだが、そのせいで蛙の鳴き声がとにかくうるさい。
長年ザレー大森林外縁部で冒険をしていたあたしは、この鳴き声の中で野営しても眠れる程度には慣れてしまったが、それでも聞き耳を立てて警戒しなければばならない状況下では余計にストレスを感じてしまう。
暗闇と聴覚を遮る蛙の鳴き声が与えるプレッシャーのせいで、ミオの作業がやたらと長く感じられた。
それでもしばらくは警戒に集中しようとしていたが、つい我慢出来なくなってあたしは、ミオの作業の進捗を確認すべくチラリと横目で彼女を見た。
そしてすぐに後悔した。
かなり限定された光量の中でも、いつものお気楽な様子とは明らかに異なる、真剣なミオの眼差しははっきりと分かった。
あたしはああいう、仕事に集中している時の女の真剣な眼差しに弱い。
ミオがあんな眼差しをするなどとは予想していなかったあたしは不意を突かれ、思わず心惹かれそうになったが、ミオはノンケだと何度も頭の中で繰り返す事で、気の迷いを頭の中から追い出そうとする。
「終わったぞ。」
結界に『穴』を開ける事に成功したらしいミオが、いつものようにニカッと邪気のない笑顔を浮かべた時には、あたしも穏やかな愛想笑いを浮かべるくらいの余裕を取り戻していた。
「ご苦労さま。」
あたしがそう労うと、ミオの笑みが子供っぽい照れ笑いに変わる。
ノンケの女が無自覚なまま浮かべる魅力的な笑顔は凶器でしかない、とつくづく思う。
まあ、彼女は昨日から何度もあたしにとってムカつく言動をしてきたし、こんなものは一時の気の迷いだとすぐ思えるようになるだろう。
あたしの内なる葛藤をよそに、ミオは暗い森の奥を見つめながら独り言のように呟く。
「予想以上に強力な結界だったな。これは単に魔力溜まりの魔力を利用しただけでは無いかもしれない。」
「どういう事?」
ミオの不穏な呟きに、ノエルにいつも恋愛脳と揶揄されるあたしの頭からも、流石に場違いな煩悩が消え去る。
「いや、何でもない。」
ミオは珍しく苦笑を浮かべながら頭を振ると、あたしに向き直りつつ話題を変えた。
「なあ、ここからはあたいが前に立っていいか?」
「理由を聞かせてもらっていい?」
ミオの不自然な話題の変更が気にならなかった訳ではないが、彼女なら必要な事であればいずれ話すはずだ、という妙な信頼感があったあたしは、すぐに新たな話題に乗っかった。
「随分と迷ったせいで、あのエルフの村長の言っていた正規のルートから大分逸れてしまった可能性がある。それならいっそ、あの村長が教えてくれたルートは一旦忘れて、魔力溜まりの魔力を目標に進んだ方が良いと思うんだ。」
正直、ザレー大森林の外縁部に何度も入っているあたしでさえ、今いる場所に見覚えは無かった。
なのでミオの言う事には一理あるが、それは魔力溜まりの魔力を現時点で感知出来ている事が必要条件だ。
ちなみにあたしには今現在感知出来ていない。
「現時点で、あんたは魔力を感知出来ているの?」
あたしの問いに、ミオは森の奥の方へと視線を動かしつつ答える。
「正確な位置は分からないが、大まかな方向なら分かる。もっと近づけば正確な位置も分かると思う。」
「分かった。先導お願い。」
「ああ、任せておけ。」
ミオは振り向くとニッと笑い、やや慎重な足取りで前進を始めた。
ミオの後ろ姿を追って、あたし達も前進を再開した。
結界に開けた穴とやらを通り抜ける時に、魔力的な変調なり違和感なりを感じるかと思っていたが、特に何も感じなかった。
「え~と、もう結界は抜けたの?」
少し進んだ所で本当に結界を通り抜けたか不安になったあたしは、前を行くミオに確認してみる。
「とっくに通ったぞ。」
ミオは前方を見据えたまま、振り向きもせずに言った。
それでも不安を拭えなかったあたしは振り向いて後方の魔力を感知してみると、直径2m程のうっすらとした魔力の歪みの様なものがかろうじて感じられた。
どうやらあれが、ミオの開けたという『結界の抜け穴』らしい。
そして結界本体の方は、その偽装技術が高度過ぎるせいか、未だあたしの魔力感知ではほぼ何も感じられない。
ぼんやりとした違和感が辛うじて感じられる程度だ。
あたし独りでは結界の存在すら感じられず、完全に詰んでいたのは間違いない。
今回の探索におけるミオの重要さを痛感しつつ前方を進む彼女に視線を向けると、彼女は気楽な調子で歩を進めつつ、能天気に呟いた。
「蛙の声を聴くと故郷を思い出すな。」
森に入ってからずっとそうだが、喧しい蛙の鳴き声でさえもミオを上機嫌にしてしまうようで、彼女の声は明らかに弾んでいた。
「『ホーライ』って島国だっけ?」
「ああ。故郷に住んでいた連中の多くとはどうにも反りが合わなかったし、国を出た事を後悔している訳じゃないけど、気候と自然だけは素晴らしかったよ。」
ミオは特に懐かしむ様子もなく、相変わらずのカラッとした口調で言う。
音程の外れたミオの鼻歌を聞きながら暫く進んでいたが、変わり映えのしない景色の連続に、あたしは段々と不安を感じ始めた。
ミオのように木々を見分ける事が出来れば同じ場所を回っているのか別の場所に進んでいるのかはっきりと分かるだろうが、そんな能力が一朝一夕に身につくはずなど無い。
ふと頭の中に、実は再び結界が発動してまた同じ場所を周回しているのではという不安が浮かんできた。
自分でもこれは何の根拠の無い不安だとは分かってはいたが、それでも一度頭の中に浮かぶとあたし自身の理性では制御する事が出来ず、ゆっくりとあたしの心を侵食し始めた。
それでつい、救いを求めるように前方のミオに視線を向けた。
ミオの鼻歌はいつの間にか止んでおり、心持ち歩く速度も上がったような気がする。
ミオの姿に更なる不安を感じたあたしは、夜の森をこのまま歩き続けるのは悪手のように思えてきて、彼女に声をかけた。
「ねえ、まだ魔力溜まりに着くまで時間がかかりそう?もしそうなら、今夜はこの辺で野営して、夜が明けてから改めて探索しない?」
あたしの提案にミオは足を止め、彼女にしては珍しく神経質そうに周囲を見回した後、首を振った。
「野営するのは構わないが、この辺は駄目だ。嫌な予感がする。」
「嫌な予感?」
あたしがオウム返しに問うと、これまた珍しくミオは躊躇う様な口調で言う。
「上手く言えないが、森の気配みたいなものが急に変わった。」
曖昧な表現というのは、判断する時に要らぬ迷いを生じるので正直困る。
「それは魔力溜まりに近づいたからじゃないの?」
「確かに魔力は濃くなってきたが、普通の自然の魔力じゃない。これはもっと……嫌な感じのものだ。」
ミオの答えはやはり具体性を欠いていた。
どうにも判断がつかなくて黙っていると、ミオが振り向いてあたしの事をジッと見つめた。
その表情は何だか申し訳無さそうにも見えた。
おそらくミオは確かに何かを感じてはいるが、それを上手く言葉で表現出来ない事を後ろめたく感じているのだろう。
「分かった。あんたの嫌な感覚がなくなるまで先へ進もう。」
あたしの言葉にミオは、少しだけ驚いた様な表情を浮かべた。
「いいのか?」
ミオは探る様な表情で確認してくる。
「森の中ではあんたの感覚の方があたしのより正確だろうしね。任せるよ。」
あたしが意識して言葉に力を込めつつ言うと、ミオはニカッと笑った。
「任せろ。」
そう言うとミオは、引き続き先に立って歩き始めた。
あたしは跪いて足元のジーヴァに囁く。
「ミオのサポートをして上げて。特に彼女の足元。暗いから何かに躓いたりしないように。」
あたしの言葉を聞くと、ジーヴァは少し速足になり、ミオの斜め後ろにピッタリと付いた。
あたしは周囲や背後を警戒しつつ、少しだけ間を開けてミオ達に続く。
嫌な魔力というミオの言葉に引っ掛かったあたしは軽く魔力探知してみるが、特におかしな点は感じられなかった。
蛙も同じように鳴き続けている。
「言われてみれば、何となく不気味な場所だね。」
右肩のノエルに言われて、あたしは改めて周囲を見回した。
僅かだが、先程より明るくなっている様な気もする。
上を見上げてみると、頭上を覆っていた木々の枝の密度が心持ち薄くなり、星明かりの届く量がほんの僅かだが増えているのに気づいた。
ヘスラ火山から見下ろすとザレー大森林は切れ目の無い森に見えるが、外縁部には時々木々の密度の低い小さな空き地も点在している。
ここは空き地とまではいかないが、木々の密度が林程度になっている場所なのだろう。
更にこの周辺には、大きな岩のような影も点在している事にも気づいた。
ヘスラ火山はハーケンブルクが建設されて以来、街に大きな影響を与える程の大規模な噴火は起きてはいないが、伝聞によると遥か昔には周囲の環境を激変させる程の大規模な噴火も複数回あったらしい。
その際、巨大な岩が火口から周囲に無数に降り注いだという伝説も残っており、それを証明するかのようにザレー大森林を歩くと実際に巨大な岩に出くわす事もままある。
周囲に散在する影は巨岩という程の大きさではないが、あたしの身長程の大きさはあるし、パッと見だけでも5、6個は存在する。
まあこの影が本当に岩なのか、暗すぎて確認は出来ていないのだが。
「ヌーク村からそんなに離れていない所に、こんな場所があるとは知らなかったわ。」
あたしはため息混じりにノエルに返事をする。
そう言えば、これ程特徴のある場所ならアーウィンから道標として教えられてもおかしくはない気もするが、教えられた3箇所の道標にこの様な地形は含まれていなかった。
まあ、アーウィンが言っていた正規ルートを既に外れてしまっている可能性が高い以上、それも不思議ではないが。
「それにしても驚いたよ。」
てっきりこの状況にノエルも怯えているかと思ったが、意外と彼の口調は普段通りの気楽なものだった。
「何が?」
「ゾラはミオの事嫌っていると思っていたのに結構ミオの事信用しているみたいだし、意外と良いコンビだなあって思って。」
ノエルのいつも通りの上から目線に少しイラつきつつも、あたしは答えた。
「前も言ったけど、価値観が合わない部分があるだけで、最初から嫌っていた訳じゃないよ。」
「ふうん。」
ノエルの訳知り顔な言い方にムッとしたあたしが彼に言い返そうとした瞬間、唐突に前を歩くミオの足が止まり、前方を見据えたままあたしを制する様に右手を挙げた。
あたしも足を止めて斜め後からミオの表情を伺うが、彼女は前方の闇を見据えたままピクリとも動かない。
あたしは腰の短剣の柄に手を伸ばす。
逃亡生活が始まったばかりの時にルカ達にこの短剣を買って貰った時は街中でのトラブルしか想定していなかったが、ここザレー大森林の魔物相手には正直メインウェポンとしては威力不足だ。
エマ達に頼めばザレー大森林に入る前に新しい武具を購入してもらう事も出来ただろうが、正直そこまで思い至らなかった。
逃亡生活に慣れすぎたせいで少々危機意識が不足していたかもしれない。
自分自身の無精を後悔していると、あたしにも前方から迫りくる何かの気配が感じられるようになった。
最初に気づいたのは音だ。
木々がガサゴソと揺れる音だが、相変わらずうるさい蛙の鳴き声に掻き消されていたのだろう、その音がはっきりと聞き取れた時には、その音源は明らかに10歩以内に存在していた。
その音のする方向をジッと見つめていると、闇の中から紅く光る2つの目が現れた。
その目の光っている場所はあたしの身長より一回り以上高い位置に存在し、人族より巨大な肉体を持つ何かであるのは明らかだった。
ミオはどうするつもりなのかと彼女に視線を向けると、彼女は腰を落として戦うにしろ逃げ出すにしろいつでも迅速に動ける姿勢を取りながら、ジッと暗闇に浮かぶ一対の赤い目を見据えていた。
自分の実力では対処出来ない様な相手と戦うのは無論避けるべきだが、土地勘の無い夜の森の中を闇雲に逃げ回るのも別の意味で危険だ。
それに一部の野生動物や魔物の中には、慌てて逃げ出す相手を見ると本能を刺激されて凶暴化するものも珍しくないので、逃げ出すにしてもやり方を考えねばならない。
あたしはミオに対してどうするつもりか訊きたかったが、彼女が唇を引き結んだまま暗闇の中に浮かぶ一対の目を凝視している姿を見ると、安易に声掛けると彼女の集中を切らす事になりそうな気もして、それも憚られた。
暗闇に浮かぶ一対の紅い目は、下生えの草を掻き分ける微かな音だけを立てつつ、ゆっくりと近づいてくる。
何か行動を起こす時はミオの方から指示が飛んでくるだろうと思っていたので、あたしはミオの集中を切らさないように言葉を発するのを我慢しつつ、すぐ動けるよう準備だけはしながら待つ。
だが近づいてくる1対の紅い目の持ち主がもたらす圧迫感はあたしの忍耐力を容易に削り取り、つい恐怖に耐えかねたあたしがミオにどうするつもりか尋ねようと口を開きかけた時だった。
くぅ~ん、と場違いな甘えた声を上げつつジーヴァがミオの脇をすり抜け、無防備に紅い目の持ち主である巨大な何かに近づいていった。
「「ジーヴァ?」」
あたしとミオがほぼ同時に困惑の声を上げた。
その声の調子からすると、ジーヴァの行動はミオにとっても意外だったらしい。
ジーヴァが近づくと紅い目の位置もすぅっと低くなり、ジーヴァよりはいささか野太いがその巨大な何かも『くぅ~ん』と甘えた声を上げた。
狼同士の気の抜けた挨拶交換の鳴き声を聞いて、あたしとミオの緊張感は一気に弛緩してしまった。
「あらあら、結界の中に何か侵入してきたと思ったらジーヴァちゃん?」
その弛緩した緊張感を更に緩める様な間延びした声が、闇の向こう側から聞こえてきた。
その声には聞き覚えがあった。
「イリア様?」
「その声はゾラさん?」
闇の向こうの声が嬉しそうに1オクターブ程高くなったのを聞いてあたしの緊張感は完全に霧散し、全身から力が抜けるのを感じた。
「何だよ、知り合いなら早く言ってくれよ。」
ミオも気の抜けた様な声であたしを咎めるが、その声を聴いたらしいイリア様の声が明らかに強張る。
「ゾラさん?誰か一緒にいるの?」
再び警戒心を顕にしたイリア様の声はあたしにとっては予想外で一瞬戸惑ったが、すぐに気を取り直すと落ち着いた声を意識しつつ、暗闇の向こうに呼び掛ける。
「同行者は1人で、信頼出来る者です。」
少し間を置いてから、まだ警戒心を感じさせる声が闇の向こうから聞こえてきた。
「申し訳ないけど、ゾラさん。まずそこで灯りを点けて下さらない?それから同行者さんと一緒にこちらへ来て下さい。」
イリア様の口調が少し余所余所しい感じになったが、あたしはそれに従う事にする。
灯りの呪文を唱えると、一対の紅い目の正体が顕となった。
イリア様の声が聴こえた時から確信してはいたが、イリア様の相棒である巨大化したムーン・ウルフのグリンガだ。
久々に再会したジーヴァと互いの匂いを嗅ぎ合う狼流の挨拶を交わしていたグリンガの更に奥に、いつもの様に白木のクォータースタッフを携えたイリア様らしい姿がボンヤリと見えた。
「ミオ、あの人がイリア様。挨拶に行くよ。」
「ああ、分かった。」
ミオの声はすっかりいつも通りの気楽なものへと戻っていた。
あたしとミオはグリンガとジーヴァの横をすり抜けてイリア様へと近づいていくが、イリア様はまだ警戒を解かずにあたし達を凝視していた。
最初、そんなにミオが怪しく見えるのかと思っていたが、イリア様の顔がはっきり認識出来るまで接近した所で、彼女の視線があたしに集中している事にようやく気づいた。
「イリア様?」
あたしが訝し気に問いかけると、イリア様の眉間の皺が更に深くなった。
「声は確かにゾラさんだけど、髭が……。」
真面目くさったイリア様の声にあたしは思わず笑みを浮かべ、もう何度目か分からない種明かしをする。
「これは付け髭です。訳あって今は変装中でして。」
そう言って唇の上の付け髭を剥がすと、イリア様の緊張がようやく解けたらしく、彼女らしいフニャっとした笑みを浮かべた。
「そうだったんだ。ゾラさんの声はするのに姿が見えないから混乱しちゃって。」
村長として振る舞う時は柔らかい態度ながらも何処か威厳を感じさせるイリア様だが、完全にプライベートの時のイリア様はやや天然で抜けている所も多い人だったりする。
「この結界の中に入れる奴はそうそういないし、もう変装は解いていいんじゃないのか?」
少し呆れた様にミオが口を挟むと、イリア様はキリリとしたよそ行きの表情を瞬時に作ってミオに向き直った。
「その結界も『抜け穴』を開けられましたけどね。あなたですよね、抜け穴を開けたのは?」
「まあね。」
ミオは謙遜する訳でも逆に自分の力を誇示する訳でもなく、極めて自然体で頷いた。
ミオの返事を聞いて、イリア様はニッコリと微笑みながら右手を差し出した。
「イリアです。お見知りおきを。」
「ミオだ。よろしく。」
ミオはニカッと笑みを返しつつ、イリア様の華奢に見える手を容赦なく力を込めて握った。
こういう時のミオは悪気が無い分却って質が悪い。
イリア様は高レベルだから問題無さそうだが、一般女性なら痛くて悲鳴を上げてもおかしくない程力を込めた握手に見えた。
ミオとの握手を終えるとイリア様はあたしに視線を戻す。
「色々話したい事はありますが、ここはあまり場所がよろしくありません。すぐに移動しましょう。」
イリア様は相変わらず笑顔を保ったままだったが、その口調には有無を言わさぬ強さがあった。
「灯りの呪文は点けたままでも?」
「それはどちらでも構いません。
人族や魔物の類は余程強力でなければあの結界を通過出来ませんが、魔物でないただの動物や虫の類は普通に結界を通過出来るので、それを踏まえて判断して下さい。」
イリア様の言葉を聞いてミオを見ると、彼女は即答した。
「消した方が良い。」
「分かった。」
あたしは頷き、灯りの呪文を解除する。
「先頭にはグリンガ、殿には私が就きます。ゾラさん達はその間に。」
「じゃあ、あたしが2番目に就く。ゾラは3番目に。」
「分かった。」
素早く列決めが決まった所で、あたしがジーヴァに再びミオのサポートに戻るよう目配せすると、聡いジーヴァは目配せだけで完全にあたしの意図を察してミオの横に移動する。
おそらく10分も歩く事なく先頭のグリンガが脚を止めた。
そこにあったのは周りにある木々とは比較にならない程太い幹を持った大木だ。
一見ブナに見えたが、あたしが今まで見てきたブナに比べてあまりに幹が太すぎるので、本当にブナなのか確信が持てないでいると、ミオがしみじみとした口調で言った。
「良いブナだな。」
「あら、分かりますか?」
ミオの言葉に、イリアさんが嬉しそうに声を弾ませた。
「うん、もしかしてこのブナの木、霊樹か?」
「ええ、そうよ。」
イリア様の声のトーンが更に嬉しそうに一段階上がった。
「霊樹?」
聞き慣れない言葉にあたしが尋ねると、ミオはブナの大木を見上げつつ言う。
「普通の木の寿命を遥かに越えて成長を続けた木は、高い魔力とある種の意思を持った森の守り神的な存在になるんだ。それが霊樹だよ。」
「へえ。」
流石ドルイトだけあって、森の中にある神秘には詳しいと感心しつつ、あたしもミオを真似てブナの『霊樹』を見上げたが、暗い過ぎるせいで期待したような荘厳な光景は特に何も見えなかった。
考えてみればこの暗さでは何も見える訳もないと自分の安直さに思わずあたしは苦笑する。
それでも『霊樹』からは、特に魔力感知を試みなくとも圧倒的な自然の魔力が感じられた。
あたしはイリア様の方に向き直り、軽い気持ちで尋ねた。
「このブナの霊樹が魔力溜まりの中心ですか?」
何気なく尋ねた質問に返ってきたイリア様の最初の返答は、重苦しい空気をまとった沈黙だった。
「……誰から聞いたの?」
短い沈黙の後、警戒心を隠そうともしないイリア様が低い声で尋ねてきた。
イリア様の予想外の反応に虚を突かれたあたしは、一瞬思考が停止してしまう。
するとまた、ミオがまた何も考えてなさそうなお気楽な口調で口を挟んできた。
「何とかっていうエルフの村長だよ。」
「アーウィン?」
「ああ、確かそんな名前だったな。」
ミオの答えを聞いて、イリア様が黙ったまま確認を求めるようにあたしを凝視する。
「ええ、確かにアーウィン様です。」
イリア様の予想外の反応に混乱していたあたしは、果たして正直に答えて良いものか一瞬迷ったが、嘘を吐くメリットも思い浮かばなかったので取り敢えず正直に答えた。
するとイリア様は小さくため息を吐いて、独り言のように呟いた。
「あの人も困ったものね。エルフである事を誰よりも誇りに思っているのに、エルフとしての大切な価値観を意外と蔑ろにする所もあるから。」
彼女の独り言の様な言葉に返事をするべきか迷っていると、イリア様の雰囲気が急に元の柔らかなものに戻った。
「立ち話も何だから、取り敢えず座って。この近くにはあたしが物置きに使っている小さな掘っ立て小屋しか建物は無いの。当然そこは大人3人が入れる程広くはないので、悪いけどここで話をします。」
「いえ、突然押しかけたのはこちらですのでお気になさらずに。」
あたしはそう言いつつチラリとミオを見ると、ブナの霊樹への関心がようやく薄れたらしい彼女は、今度はジーヴァと戯れているグリンガを見つめていた。
「後でね。」
あたしがそう囁くと、ミオは不貞腐れたように答えた。
「分かっているよ。」
あたし達全員が柔らかい下生えの草の上に車座になって座ると、イリア様が柔らかいながらも明らかに警戒心のこもっている声で尋ねてきた。
「それでゾラさん、どうしてこんな所までいらしたの?」
「まあ、色々ありまして……。」
あたしは現在のハーケンブルクの状況の説明から始め、次いで自分がお尋ね者になってしまった事、最後にアーウィンに言われてイリア様に会いに来たことを告げた。
ハーケンブルクの状況については、2つの陣営の間で既に前哨戦が始まりつつある事、その事と関係あるかは不明だがあたし達と対立している冒険者パーティがヌーク村に逗留しながら森の中で何か活動しているらしい事、もうすぐハーケンブルクで本格的な戦争が始まる事までかなり詳しく話した。
一方、あたし自身の事についてはイリア様の協力が必要になるであろう魔剣の事については一応それなりに話したが、ミオ達との関係については必要最小限の事しか話さなかった。
時折質問を挟みつつあたしの話を聞いていたイリア様は、あたしの話が終わると考えをまとめるかのように暫く黙り込んでいたが、やがて大きくため息を吐いた。
「しばらくノンビリ出来そうだと思っていたけど、無理みたいね。」
それからあたしを正面から見据えた。
「あなたの言っていた冒険者の一団、確かにこの近くに来たわよ。」
イリア様の言葉にあたしは身体を固くした。
「間違いありませんか?」
「顔に呪紋を彫っている連中がゴロゴロいるっていうなら話は変わるけど、そうなの?」
聞き返すイリア様の言葉に横にいたミオがプッと小さく吹き出すが、あたしがジロリと彼女を見るとわざとらしく視線を逸した。
「少なくとも4人全員が顔に呪紋を入れている冒険者パーティは、あたしの知る限り連中だけです。
やはり連中の狙いはここの魔力溜まりの本体である霊樹なのでしょうか?」
あたしの問いに、イリアは再び渋い顔をする。
「そうとは限らないのよね。
というのも、何か悪巧みを企んでいる連中の狙いそうな場所は、この霊樹以外にも近くにもう1箇所あるから。」
「さっきの嫌な魔力が漂っていた場所か。」
再び横から口を挟んできたミオを、イリア様はジッと見つめてから小さく息を吐く。
「まあ、霊樹の力を借りた上で作った私の結界に抜け穴を開けるくらいの力量があれば、気づいてもおかしくはないか。」
そういえば、ミオはあの場所を何故か嫌っていた。
あたしには何も感じられなかったが。
「あそこには何があるのですか?」
あたしが質問するとイリア様はあたしを見て、如何にも気が進まないといった重苦しい口調で言った。
「あそこには村があったのよ。」
「村?エルフのですか?」
あたしの問いに、イリア様は再び少し間を置いてから答えた。
「ええ、そうよ。エヴェンという名前の村で、ヌーク村と同じく住民は全てエルフだった。ただエヴェン村の住民は私達と違ってハーケンブルクが建設された時、新たな都市の住民である他種族達との交流を拒絶した。それだけでなく、ハーケンブルクとの交流を選んだ私達のような同族のエルフとも、断絶する事を決めたのよ。
彼らは当初、ハーケンブルクの住民が易々と入ってこれないような森の奥へ移住すると私達に告げて姿を消した。でも、それは嘘だったの。
エヴェン村の住民は以前と同じ場所に住み続けていた。ただ、強力な結界の呪文を張り巡らして自分達の存在を隠していたのよ。
彼等の作った結界は、この霊樹の魔力を借りた事もあって高度で強力なものであり、完璧にエヴェン村を隠蔽出来ていた。
でもそれが、彼らの命取りとなった。」
「どういう事ですか?」
「すぐ近くに住んでいた私達ですら、エヴェン村が存在し続けた事も、村を覆い隠す結界の存在すら気づかなかったというのに、ハーケンブルクのとある闇ギルドがエヴェン村の存在に気づいて密かに村を占領したのよ。
闇ギルドは隠蔽の結界を悪用して、あの村を麻薬の原料となる植物を栽培する為、そして麻薬を精製する為の隠し拠点としていた。その事に最初に気づいたのはヌーク村を始めとする近隣の別の村のエルフ達ではなく、ハーケンブルクの冒険者ギルドだった。」
そこでイリア様は言葉を切り、あたしを見た。
「ゾラさんは、私が昔ハーケンブルクで冒険者をしていた事は知っているわね?」
「ええ、聞いた事があります。」
イリア様は小さく頷くと話を続けた。
「冒険者ギルドがその闇ギルドの壊滅作戦を行った時期、私も丁度街で冒険者をしていたの。そして、あの周辺に土地勘があった事からあたしも討伐隊に選ばれて作戦に参加する事になったのよ。」
そこで再びイリア様は言葉を切った。
少し俯いたイリア様の表情が僅かに険しくなったような気がしたが、この暗さでは僅かな表情の変化を読み取る事は難しい。
「あたしはあそこで見た光景を、ヌーク村の住民達に話した事は無い。話せは、ハーケンブルクとの交流を断絶するよう主張する者も少なからず現れると思ったから。」
そこでイリア様は再び沈黙してしまったが、だからといって彼女の沈痛な表情を見れば続きを促す気分にはなれなかった。
具体的な事は分からなくとも、トラウマ級の光景を見た事は容易に想像出来たからだ。
「そんなに酷かったのか?」
黙っていたあたしに代わってミオが尋ねた。
また何も考えずに、と一瞬あたしは憤ったが、ミオの口調には明らかに興味本位とは一線を画した真摯に心配する感情がこもっていたので、あたしの反射的な憤りはすぐに鎮まった。
イリア様もミオの不器用な気遣いを感じたらしく、その口調も少し柔らかくなったが、その口から話された内容は、敢えて具体的な事柄は省いていたにもかかわらず、中々にえげつなかった。
「エヴェン村を占拠していた連中が一般のハーケンブルク人とは異なる、闇ギルドという犯罪者の集まりだった事は分かっていたあたしでも、あの直後はハーケンブルクとの関わりを断つべきかと本気で考えたものよ。
闇ギルドの連中は、エヴェン村を麻薬製造の為の秘密の拠点として使うだけでなく、エルフの住民達を奴隷にして彼らに重労働を課していた。そして奴隷にする際、反抗を防ぐ為もあって村人達に麻薬を投与し続けて重度の依存症にしてしまったの。
あたし達が踏み込んだ時、エヴェン村の人口は以前の半分以下になっていた上に、生き残ったエルフ達のほとんどは麻薬のせいで正気を失っていた。
あの時、あそこで見た光景は一生忘れられないでしょうね。」
イリア様の感情を押し殺したような声は、単純に声を荒げるよりも強い怒りを感じさせた。
「それであの場所には未だ負の魔力が残っているという訳か。」
「あれでもかなり薄くはなったんだけどね。一応、高位のクレリックがわざわざ出向いてくれて浄化の魔法もかけてくれたし。」
ミオの言葉に、イリア様はため息混じりに答えた。
大量虐殺や恒常的な拷問等が行われた場所では魔力が負の性質を帯びてしまう事がしばしばある。
負の性質を帯びた魔力に接した人は精神に歪みを生じたり、病を発症したりするので、多くの人々はそのような場所を禁忌の地として避ける。
一応、高位のクレリックならばそのような地を浄化させられる可能性もあるが、負の魔力が強すぎればその浄化には数年単位の時間が必要だし、それだけの労力をかけたとしても完全な浄化が出来るとも限らない。
「それで、その闇ギルドはどうなりましたか?」
あたしが質問すると、イリア様は少しだけ口調を和らげつつ答えた。
「かなり徹底して潰したはずよ。もしかしたら残党が残っているかもしれないけど、私はこの件の後始末を終えた後、冒険者を引退してヌーク村に戻ったからその後の詳しい事は分からないわ。」
「その件って、今でも知っている奴はあんた以外にもいるのか?」
今度はミオが尋ねた。
質問の内容自体はおかしくはないが、もう少し敬意を払った口調を心掛けて欲しい。
悪意が無さそうなのは何となく分かるが、皆が皆寛容という訳ではないのだ。
幸いにも寛容なイリア様は暗闇の中で小さく首を振りつつ、それまでと同じ穏やかな口調で答えてくれた。
「元々この闇ギルドに対する討伐作戦は、秘密裏に行う為に参加者を厳選していたし、口止めも厳重に行われていたから、そもそも部外者でこの件を知っている人はほぼいないと思う。
生き残ったエヴェン村の住民達もその多くは麻薬の後遺症で、その後長くは生きられなかったと聞いているわ。
そもそも、もう50年も昔の話だから、作戦に参加したヒューマンや獣人の多くは寿命を迎えているでしょうね。もしかしたら冒険者ギルドに極秘扱いの記録が残っているかもしれないけど。」
つまり逆に言えば、作戦に参加した者の中でもイリア様のような、長命な種族なら未だ覚えているだろうという事か。
そして普通なら、極秘とはいえソニアとかヨハンナのような冒険者ギルドの幹部に情報が引き継がれていてもおかしくはないレベルの案件だが、ソニアがギルド長に就任した経緯を考えると、嫌がらせの意味も込めて前任者からまともな引き継ぎが行われなかった可能性もある。
「あの、何とかっていうエルフの村長のオッサンはこの件は知っているのか?」
再びミオが、遠慮のないズケズケとした口調で尋ねる。
「アーウィンの事?いいえ、この件があった時期、彼は冒険者として大陸西方のあちこちを放浪していたからそもそもこの作戦には参加してないし、ヌーク村に戻ってきたのもこの件が解決して随分経った後だから多分知らないはずよ。」
イリア様の答えにミオは小さく鼻を鳴らした。
「ふ〜ん、ゾラからあいつはエルフ以外を嫌っているって聞いてたから、その原因がこの件にあるのかとかと思ったんだけど。」
ミオの言葉にイリア様の口から苦笑じみた溜め息が漏れた。
「あの人はね、元々エルフ社会の外への憧れが強かったのよ。」
イリア様の声がようやく元のおっとりとしたものに戻る。
「憧れが強すぎたせいで、エルフ社会の外の世界の現実が、自分が思い描いていた理想とはかけ離れている事に気づいた時の失望も大きかった。その結果、彼は少し拗れてしまったのよ。
でも拗れてしまっても、彼は若い頃の外の世界への憧れや、外の世界で経験した数少ない楽しい思い出を完全には捨てる事は出来ないんでしょうね。その証拠に色々文句を言いつつ、ハーケンブルクとは結果的に上手くやっているでしょう?あの人は私以上に外の世界を知っているから、元々村長向きなのは確かよ。」
「本人はイリア様に村長を押し付けられた事を未だに根に持っている様子でしたよ。あたし達をここに向かわせたのも、イリア様に戻ってきて欲しいという下心が一因である事は確かだと思います。」
あたしの言葉に、イリア様はクスクス笑う。
「確かにあの人は外向的な性格じゃないから、人の上になんて立ちたくないでしょうね。でも、性格的な向き不向きと能力の有無は別の話よ。
どうしても嫌ならさっさと自分に代わる後継者を育てればいいのよ。」
イリア様らしからぬ意地悪な口調が、却ってアーウィンへの親愛の情を感じさせた。
イリア様がリラックスしたのを感じた所で、あたしは少し踏み込んだ質問をする。
「アーウィン様に村長を押し付けてまでイリアが隠棲したのは、エヴェン村の鎮魂の為ですか?」
あたしの問いに、イリア様は少し考える様に一拍置いてから答えた。
「それもあるけど、一番はこれね。」
そう言うとイリア様は傍らのブナの霊樹に手を触れた。
「なるほど、そうか。」
イリア様の言葉にミオは頷く。
「どういう事?」
ミオが納得したように呟いた言葉の意味が理解出来なかったあたしが尋ねると、ミオはブナの霊樹を見上げつつ言った。
「このブナの霊樹、一度枯れかけただろう?」
「流石ね。」
ミオの指摘に、イリア様が感心したように答えた。
「今は大分回復しているけど、まだ完全に回復した訳じゃないの。出来ればもっと前からこのブナに寄り添いたかったけど、村の方も見捨てる訳にはいかなかったからね。」
「枯れかけたって、理由は分かっているのですか?」
あたしの質問に、イリア様の声がまた少しだけ険しくなった。
「エヴェン村を占拠していた闇ギルドの連中、このブナの霊樹の魔力を利用して、恒常的に魔法のアイテムを使用していたのよ。霊樹の魔力は圧倒的だから、例えばエヴェン村の住民がしていたように隠蔽の結界の魔法に使うくらいならそれ程影響は無いけど、闇ギルドの連中はそれに加えて複数の魔法のアイテムを並行して使用していた。それで魔力を吸い取られ過ぎて、枯れる寸前までいったの。」
「よく回復しましたね。」
「まあ、50年間コツコツと魔力を注いできたからね。」
嬉しそうに答えるイリア様を見て、あたしはとても魔剣の為に霊樹の魔力を分けて欲しいとは言えなくなった。
「その闇ギルドの連中が使っていた魔法のアイテムってどんなだった?」
あたしが口を閉ざしたタイミングで、ミオが厳しい口調で質問した。
「色々と使っていたわね。例えば麻薬の原料となる植物の成長を促進するものとか、効率的に麻薬を精製するものとか。だけど、飛び抜けて大量の魔力を吸い取っていたのは長距離瞬間移動のアイテムね。」
「長距離瞬間移動?それって、物凄くレアなアイテムじゃ?」
最近ヨハンナが何度もその呪文を唱えているのを見たし、実際にその呪文を身を以って体験もしたせいで感覚がおかしくなりつつあるが、長距離瞬間移動の呪文はヨハンナを含め大陸西方でも現状数名しか使い手がいないと言われている程高度な呪文であり、そう簡単に使えるものでは無い。
それを誰でも使えるようにする魔法のアイテムなど、どれ程の価値があるのか。
しかしあたしの驚いた様な声を聞いて、イリア様はあたしの誤解に気づいたようだ。
「ああ、何処にでも瞬間移動出来る訳じゃなくて、対になるアイテム同士の間で瞬間移動出来るだけのものよ。
厳密には違うけど、アビスに出入りする為のテレポート装置と似たようなものだと思って良いわ。」
「なるほど。」
特定の2箇所間だけをテレポートで移動出来る装置という事か。
それでもかなりレアな装置なのは確かだが、何処へでもテレポート出来る装置に比べれば犯罪組織程度の集団が所持していたのも有り得ない話ではない気がする。
「闇ギルドのメンバーはこの装置を使用して、ハーケンブルクのスラムにあるアジトと隠蔽の結界に覆われたエヴェン村とを秘密裏かつ安全に行き来していたのよ。でも、スラム側のアジトが冒険者ギルドの手入れを受けた際にそのテレポート装置の存在がバレてね。結果的にはそのテレポート装置のお陰で隠されたエヴェン村の存在を知る事が出来たって訳なの。」
イリア様の言葉を聞き、あたしは本題とは別の部分が気になった。
「冒険者ギルドも、昔はスラムの闇ギルドを捜査出来たんですね。」
現在、スラムはハーケンブルクで唯一冒険者ギルドの影響力が完全に及ばない地域だ。
「まあ、あの件の頃にはギリギリスラムの衛兵詰め所も残っていたしね。」
なるほど、冒険者ギルドの動きがもし遅かったとしたら、スラムの治外法権化が進んで闇ギルドへの手出しも不可能となり、その結果エヴェン村の件は未だに解決されていない可能性もあったという事か。
「それでそのテレポート装置はどうなったんですか?」
「又聞きの知識しかないけど冒険者ギルドが押収したはずよ。便利なアイテムだから何処かで使っていてもおかしくはないけど。」
「そういうアイテムについては聞き覚えがありませんね。」
まあ、単にあたしが知らないだけの可能性も大いにあるが、イリア様は妙に納得したように頷いた。
「まあ、そうかもね。入手経路が公に出来ないアイテムだから使うにしても秘密裏にだろうし、一回も使われる事無く倉庫の奥で埃を被ったま忘れられている可能性だってあるかも。」
イリア様は軽く考えているようだが、大量の魔力を消費するという欠点はあってもこれは戦略的にかなり重宝するアイテムである気がする。
このアイテムさえあれば、不可能だと思われたザレー大森林経由で兵士を送るというという作戦も、通過不能な森の最深部をスキップする事で可能になるかもしれない。
勿論、魔法のアイテムも万能ではない。
霊樹を枯らす寸前まで消費する必要があったという大量の魔力をどうするかという問題もあるし、同じ魔法の効果のあるアイテムであっても、制作したエンチャッターの能力によってその性能にはピンからキリまであるからだ。
イリア様はどうもその辺については疎そうだが、確認しておく必要はありそうだ。
「イリア様はその瞬間移動の魔法のアイテムについて、具体的な性能はご存知ですか?」
「具体的な性能?」
念の為に質問してみた所、案の定イリア様はキョトンとした感じで聞き返してきた。
「対になるアイテムが物理的にどれだけ離れていても機能するかとか、一度にどれだけの人数を瞬間移動させられるのかとか、作動させる為の合言葉なりキーアイテムが必要なのかとか。」
あたしの質問に、イリア様は首を振った。
「ごめんなさい、その辺りの詳しい事は聞かなかったし、そもそもメイジでない私では聞いた所で理解出来たかどうか……。」
申し訳なさそうに答えるイリア様に向けて、ミオが言う。
「そこなんだよな。」
「何が?」
あたしが尋ねると、ミオが首を捻りつつ尋ねる。
「さっきから何かが引っかかっていたんだけど、今のイリア様の言葉でピンときた。そのテレポート装置って、秘術魔法を基にしたアイテムだろ?だったら自然魔法の魔力溜まりであるブナの霊樹の魔力を使うのは本来出来ないはずだが?」
ミオの言葉にあたしはハッとした。
確かにヨハンナも、魔力溜まりの魔力は対応する系統の魔法でしか使えないと言っていたし、ミオと共にわざわざここまで来たのは正にその為だ。
「その闇ギルドの首領がメイジ兼ドルイトのヒューマンだったのよ。」
「ああ、それなら問題無いか。」
イリア様の返答にミオがあっさり頷いた。
ミオやマヤが魔力溜まりから吸収した魔力を、仮契約という薄い魔力的絆を通してあたしが使う事が出来るのなら、異なる系統の魔法系クラスを2つ持った一人の人物が、別の系統間で魔力を融通し合えるのは当然だろう。
「その首領は処分されたんですよね?高レベルのメイジの場合ヒューマンでも寿命が延びる可能性がありますが。」
あたしの言葉にイリア様は頷いた。
「詳しくは知らないけど、幹部連中は全て処刑されたはず。ただ、さっきも言ったけど下っ端には取りこぼしはあったかもね。作戦自体少人数で秘密裏に行ったせいで、広範囲に網を広げる事が出来なかったから。」
「まあ、残党がいたとして、活動してるとしたらここじゃなくて街中じゃないのか?」
疑問点が解消したらしいミオが気楽な口調で言う。
「確かに街中はともかく、森の中で連中の残党が何らかの活動をしているっていうのは噂でも聞いた事が無いわね。」
答えるイリア様の口調も安心したように少し和らぐ。
ここで話は一段落したのでもう切り上げても良かったが、ただあたしにはもう一つ、少し前から気になっていた事があった。
「イリア様、答えたくなければそう仰って欲しいのですが……。」
「なあに、改まって。」
あたしの仰々しい前置きに、イリア様は柔らかいながらも少し警戒した口調になる。
「エヴェン村で随分と酷い事が行われたせいでイリア様はハーケンブルクとの交流を一時断つ事を考えられたと先程仰いました。ですが、村長となられてからのイリア様は一貫してハーケンブルクとの友好関係を維持されています。
その理由は何でしょうか?」
あたしの問いに、イリア様は意外な程あっさりと答えた。
「エヴェン村が闇ギルドに占拠されても長らく誰にも気づかれず、村人が外部に助けを求める事も出来なかったのは、彼らが外部との接触を断っていたからよ。彼らは外部との接触を絶つ事で平穏を得ようとしたけど、そのせいで彼らの苦境は誰にも知られず、結果的に外部からの助けが入ったのは手遅れになってからだった。
私は友好関係を選んだ訳じゃない。ここから立ち去る事を選択しない限り、近隣の勢力と最低限の友好関係を維持するのは、生き残る為に必須だったからよ。」
イリア様の口調は淡々としており、少なくとも苦渋の決断をしたという印象はなかった。
そう言えばヌーク村で貴族のボンボン冒険者共が無法を働いた件で訪れた際も、『好むと好まざるとにかかわらず、ハーケンブルクとは共存しなければならない』みたいな事を言っていた。
こうした覚悟がある所がイリア様に村長らしい度量を感じさせる所以である気もするが、長らく村長を辞めたがっていた事を考えれると、道理としては分かってはいてもそれを実行し続けるのは中々のストレスだったのかもしれない。
そこでふと、ミオが再び静かに黙り込んでいるに気づいて彼女を見ると、普段の能天気な印象の彼女らしくなくまた眉間に皺を寄せて何やら考え込んでいた。
気楽な調子に戻ったと思ってから幾らも経っていなかったので、つい何事かと凝視していると、あたしの視線に気づいたミオがあたしを睨む様に見た。
「何だよ?」
ミオは攻撃的にも聞こえる低い声で言ったが、何故だかあたしには彼女の声が狼狽えている様にも聴こえた。
「いや、何でもない。」
ちょっと彼女の声に可愛げを感じたあたしはつい半笑いで答えてしまい、我ながらウザい反応をしてしまったとすぐ後悔したが、ミオは小さく舌打ちしただけで何も言わなかった。
「さあて、そろそろ夜も遅いし、後の事は明日の朝に回してしまって今夜は食事をして寝ましょうね。一応、物置き小屋には調理道具は揃ってますので簡単な料理くらいは出来ますが、さっきも言った通り人が横になれるスペースはとても無いので、寝るのは野宿になってしまいますが。」
あたしとミオの間に流れた微妙な空気に気づいていないのか、気づいた上で敢えてそうしているのか、イリア様が能天気な口調で言った。
「それは良いんだけどよ。イリア様、あたいが開けた結界の抜け穴はもう塞いだのか?」
ミオの指摘にイリア様はハッとした表情になる。
「ああ、ごめんなさい。最近刺激の無い日常を送ってきたから、色々な事が一度に起こると同時進行で対応出来なくて。」
「まあ、抜け穴を開けてから一時間と経っていないはずだし、抜け穴の存在自体、自然魔法の使い手でなければそうそう気づかないはずだ。その『スカーズ』とかいう連中に、自然魔法の使い手っていなかったよな?」
「あたしの知る限り、ドルイトもレンジャーもいなかったはず。」
あたしの言葉にミオは頷く。
「なら大丈夫かな。」
「でも、秘術系の魔力探知の魔法でも調べられるんじゃない?」
「それも可能なはずだけど、結界と同系統の呪文である自然魔法に比べて、別系統の秘術魔法では一度に調べられる範囲は狭い。結界はかなり広範囲に渡っているし、夜の森をその結界に沿って長距離移動しながら虱潰しに探知し続けるのはかなり難儀だぞ?」
「それもそうか。」
感性派だと思っていたミオが行った理路整然と説明にあたしは少し驚いたが、それでも安心した。
イリア様もミオの言葉に安心した様子で、リラックスしている時の特徴であるやや間延びした口調で言う。
「それでも早い内に抜け穴は塞いでおいた方がいいわね。食事はその後にしましょう。ミオさんも手伝って下さる?抜け穴を開けた本人であるミオさんが手伝って下さればそれだけ早く終わるわ。」
「ああ、勿論。」
ミオが即座に同意すると、2人は何やら小声で相談しつつ、あたし達が来た方向に向けて空中に魔法陣を描くような動作を始めた。
あたしはぼんやりとその2人の姿を眺めていたが、急に胸騒ぎを感じ始めた。
あたしは周囲を見回し、耳を澄ましてみたが特におかしな物音は聴こえなかった。
いや、違う。
おかしな物音は確かに聴こえなかったが、今まで聞こえ続けていた音が急に止んでいたのだ。
日が落ちてからずっと聞こえていた蛙の鳴き声がピタリと止んでいる。
正確には、未だに遠くの方からは蛙の鳴き声が聞こえるが、近くで聞こえていた蛙の鳴き声が急に聞こえなくなったのだ。
あたしは右肩に載っていたノエルを地面に下ろした。
「ゾラ?」
「その辺の藪の中に入って身を隠して。静かにね。」
あたしは訝し気なノエルにそう告げるとジーヴァの姿を探す。
彼はグリンガとの再会が嬉しいのか、グリンガと寄り添うようにしてイリア様の傍らにいた。
ジーヴァもグリンガも特に警戒している様子は見られない。
それでもあたしは、耳を澄ましつつ周囲を見回した。
蛙の鳴き声が収まった以外は、やはり特に変化は感じられない。
ジーヴァやグリンガだけでなく、ミオやイリア様も特に警戒している様子もないし、暗い森の中という事で神経質になり過ぎているだけかもしれない、と思い気を緩めかけた瞬間、唐突に矢が空気を切り裂きつつ飛んでくる音が聴こえた。
「あっ。」
音がする方向に視線を向けた瞬間、イリア様が驚いたように短く声を上げた。
イリア様を見ると、彼女の胸元に一本の矢が突き刺さっていた。
矢が刺さった当人であるイリア様も、そのすぐ傍にいたミオやグリンガ、そしてジーヴァの全員が時が止まったかのように動きを止め、呆然とイリア様に突き刺さった刺さった矢を見つめていた。
あたし自身、イリア様の胸元に矢が刺さった光景を、咄嗟に現実のものと捉える事が出来ずに呆然と立ち尽くしていた。
次の瞬間、あたしの背筋にゾワゾワとした悪寒が走った。
レンジャーの危険察知能力が発動したサインだ。
同時に背後から微かな物音が聴こえた気がしたあたしは、咄嗟に身体を捻った。
直後、腰の少し上の左脇腹辺りに灼けるような激しい熱を感じた。
振り返ると、いつの間にかそこにいた小柄な男と目が合った。
顔中に刺青を施したその男は、あたしの脇腹に細身のナイフを突き刺しながらあたしの目を真正面から見据え、ニタリとサディスティックな笑みを浮かべた。
読んで下さりありがとうございます。
次回の投稿は10月上旬を予定しています。




