第5話 「お茶の約束」
しばらくして月城が戻ってきた。
「行けそうですか」
「ええ。体調が悪いからと一度席を外させたわ」
「夫は信じてくれましたか」
「半分は。残りの半分は目の前で見せれば」
二人はトイレへ戻った。ドアを閉めると、先に入っていたパイロットが悠希を見た。
三十代くらいの男だった。背が高く、落ち着いた目をしている。
「君は?」
「三輪悠希です。事情はどこまで聞いたか分かりませんが、この飛行機が一週間後に墜落する未来から来た乗客です」
パイロットは少し目を細めた。
「ふっ」
「どうかしましたか」
「いや、名前が同じだったから少し驚いただけだ。妻から聞いたことはにわかには信じ難いが、本当ならまずい事態だ。急ごう」
名前が同じ。悠希は一瞬だけその言葉の意味を考えかけたが、今は考えないことにした。
「急ぎます」
悠希はボタンを十四回押した。
月城悠希はドアを開けると、機内がすでに軽いパニック状態だった。煤のような匂いも感じる。
「……信じ難いが、本当だったな。急ごう」
三人はコックピットへ向かった。ドアを開けると、大量の煙と気絶している機長たちと、鳴り響く警報の音が出迎えた。
「二人を席から退かしてくれないか。美空は副パイロット席に座ってくれ」
二人は機長らを床へ下ろし、席に着いた。
月城悠希はヘッドホンを装着してベルトを締めた。それから計器を一通り確認する。声も動きも、落ち着いていた。見慣れない状況に置かれているはずなのに、どこかが揺れていない。
「状況は思ったより悪いな」
コックピットのドアから乗務員が顔を出した。
「月城パイロット!? どうしてここに!?」
「そんなことはいい。乗客の安全確保とパイロットの応急処置を頼む。操縦はこちらで何とかする」
乗務員が出ていくと、通信機を手に取った。
「メーデーメーデーメーデー——くっそ、繋がらんか」
「美空、燃料漏れから燃料が尽きるまで何分だった?」
「200分弱かな」
「まずいな、ここからだとジャンボが下りられる飛行場がない。燃料漏れをどうにかする方向じゃないと」
月城悠希の手が操縦パネルの上を動く。右翼の燃料を左翼に移す操作、燃料パイプのロック、各種スイッチの切り替え。一つひとつの動作が無駄なく、確実だった。
悠希はコックピットの端で、その手の動きを見ていた。
計器を読みながら機体をコントロールする。通信を試みながら状況を把握する。複数のことを同時に、落ち着いてこなしていく。これは何年もかけて積み上げたものだ。練習して、失敗して、また練習して、やっと手に入るものだ。
こういうことができるのか、と悠希は思った。
月城美空は後ろで何もできずに、操縦席を見つめながら両手で何かを固く握りしめていた。
「とりあえず、何とかなったかな」
「本当ですか」
「着陸するまでは安心できんが。気絶したパイロット二人が助かっていてくれれば、あとは任せられるんだが」
それと同時に、月城美空が握りしめていたものが床に落ちた。
悠希が拾い上げると、見覚えのある形をしていた。ボルトの形だ。ただ工業用の無骨なものではなく、きれいに磨かれた、装身具のように仕上げられたものだった。
ポケットの中から、不時着した機体の床で拾ったあのボルトを取り出して並べてみる。
同じ形だった。
月城美空のものを裏返すと、細かな文字が刻まれていた。
2015年8月13日、7044回
悠希は数字を見つめたまま動かなかった。
7044回。一回で半日ずつ動くとして、3522日。約9年と8ヶ月。
2015年。
702便ハイジャック事件は2015年だ。その便でトイレに隠れていた乗客が——月城悠希という名前が頭をよぎった——それがこのボルトを持っていたなら——
全部が繋がった。
「……ちょっと、もう一度トイレに行ってきます」
「そう?」
「気づいてるんですよね」
月城美空は答えなかった。悠希は続けた。
「全部が終わったら戻ってきます。一緒にお茶に行きましょう」
そう言いながらコックピットを出る
――――――――――
「......俺は戻ってきたぞ、忘れたとは言わせないからな。目の前で他でもない俺と約束したんだしな」
「ええ、そうね」
トイレに戻ってボタンの前に立つ。
頭の中で計算する。2015年8月13日。今から9年8ヶ月分。それを半日単位で割ると——大体7000回前後。そしてボルトに刻まれた数字が7044だ。
「7042……7043……7044」
ボタンを押した瞬間、銃声が響いた。悠希はドアを少し開けて外を窺った。
通路に見知らぬ男が若い女の子の腕をつかんでいた。男の手には銃がある。女の子は泣いておらず、唇をきつく結んで、怯えながらも正面を見ていた。男の銃口がその少女のこめかみに当てられている。
その顔を見た瞬間、悠希は確信した。
考える暇はなかった。あったとしても同じことをしたと思う。
ドアの隙間から角度と距離を測る。男の右側、銃を持つ手の側に死角がある。今しかない。ドアを蹴り開け、男の銃を持つ腕に体ごとぶつかる。同時に少女を反対側に突き飛ばした。銃が暴発する。耳のすぐ横で破裂音がして、しばらく音が聞こえなくなった。男がバランスを崩した瞬間、悠希は男の手首に両手をかけ、銃を床に叩き落とそうとした。
男の方が体格は上だった。引き戻され、肘を顔に入れられた。視界がぶれる。それでも手首は離さなかった。離した瞬間に少女が撃たれる。それだけは分かっていた。
「お前——
男の声が間近で聞こえた瞬間、周囲の乗客たちが一斉に動いた。年配の男性が背後から男の首に腕を回し、別の乗客が腰にしがみついた。悲鳴と怒号が重なり、男が床に押さえ込まれていく。最後に、男の指が引き金にかかった。
熱い痛みが左足を走り、膝が折れた。
床に手をついて立ち上がろうとする。足が言うことを聞かない。ハイジャック犯は取り押さえられた。少女は安全だ。だが早くトイレに戻らないと——
這いながら通路を進む。周囲が騒がしい。誰かが悠希に声をかけているが、聞こえているのに言葉として入ってこない。
指先がトイレのドアの縁に触れた。
そのまま、意識が遠のいた。
気絶の意味を理解した。




