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第5話 「スムージーを飲み干す」

トイレの中を月城は見回した。


「何もないね」


「ちょっといいですか」


そう言いながら水洗のパネルを改めて見る。よくよく確認すると、端末には無地のボタンが二つだけだった。通常のトイレにあるような表示が何もない。ただの丸いボタンが二つ。


あの時押したのはどちらだっただろうか。記憶を手繰り寄せた。水洗ボタンだと思って押したのは、向かって右側だ。それを試してみる。


何も起こらない。


「こっちか」


向かって左を押した。

潮の香りが引いていく。エンジンの音が戻ってくる。振動が床から伝わってくる。機体が揺れている。

月城が壁に手をついて、少し目を閉じた。顔色が変わっている。


「……今、飛んでる」


「そうみたいです」


「この飛行機が、飛んでる?」


「はい。たぶん、さっきまでいたのは未来の機体だと思います」


月城は目を開けて、悠希を見た。


「タイムトラベル」


「そうみたいです」


「……本気で言ってる?」


「さっき俺たちが見てきたもの、全部。窓のない機体、海、散乱した荷物。あれが嘘だったと言えますか」


月城は黙っていた。しばらくの間、ドアを、パネルを、悠希の顔を、順番に見ていた。


「右が未来で、左が過去」と月城はゆっくり言った。


「そうみたいです。俺が気絶してなくて未来に飛んでいたなら」


「なぜ気絶してないと思うの」


「煙の匂いがしなかった。どこも痛くなかった。それより、ドアを開けた瞬間の感覚が——気絶して目が覚めた感じじゃなかった。それと、最初に押したのは右側、そして今俺たちは左で過去に来た。たぶん間違いない」


「観察力があるのね」


「癖なんで。よく言われます」


「……だったら、もっと過去の便に乗れば、墜落前に戻れるんじゃない?」


月城がボタンに手を伸ばしかけた。悠希はその手首をつかんだ。


「飛行中の便に見知らぬ人間が乗っていたら、降りる時に捕まります。この便には入国審査があるんだから、言い訳が利かないはず。それこそハイジャック犯と疑われて最悪は一生刑務所だってCAなら分かるんじゃないですか?」


「分かってるけど、でも——」


「それに」


悠希は手を放して、月城を見た。


「不時着で亡くなった人たちを、そのままにはしたくない」


月城は手を引いた。

二人とも黙った。機内のざわめきが壁越しに聞こえる。今この瞬間、外では乗客たちが何事もなく飛んでいる。その中には、もうすぐ命を落とすことになる人たちがいる。


「……私、夫がパイロットでね」


月城は薬指の指輪に触れながら言った。さっき悠希の肩を確認した時に当たったあの指輪だ。


「ちょうど一週間ほど前、夫がこの機体を担当してたの。整備明けの最初の便だったから、機材も便名も覚えてる。一週間前に戻って、夫に事情を話して操縦を代わってもらえれば——気絶したパイロットの代わりに燃料漏れに対処してもらえるし、もともと乗っていた機材なら余計な人間が乗り込んだことにならない」


「無事に空港に着けると」


「そうね」


月城はしばらく考えた。


「自分で言っておいてなんだけど信じてもらえると思う? 妻の話だとしても、タイムトラベルよ」


「目の前でやってみせれば、信じるしかないですよ。このボタンを押して未来の機体を見せれば」


「それもそうね」


月城は少し笑った。

その瞬間に乗客の悲鳴が聞こえた。遠く、しかしはっきりと。


「時間がないですね。これってどのくらいタイムトラベルしてると思います?」


「機体に異状が出始めた時刻から逆算すれば……だいたい半日くらい戻ってる感覚」


「一週間なら、十四回」


「どこかにつかまっていてください」


悠希はボタンを数えながら押した。


「1、2、3……14」


「どう?」


「たぶん一週間前の便だとは思いますけど、確認する方法が」


「行ってくるわ」


「ちょっと待ってください。他の乗務員に見つかったらまずい」


「なら向かって左のギャレーで足止めしておいてくれない?」


「分かりました。長くは無理ですよ」


悠希がギャレー前に進むと、若い乗務員が準備をしているところだった。飲み物を注文するふりをしながら、外の景色を話題にしたりして時間を引き延ばす。乗務員は丁寧に応じてくれたが、ときおり困惑した表情が混じった。


月城がギャレーの反対側を通り過ぎていくのが視界の端に見えた。コックピットへ向かう。


―――


「あなた、時間よ」


コックピットのドアを細く開けた美空の声に、パイロットは手元を止めた。家から持ってきたスムージーの最後の一口を飲み干し、カップをホルダーに収める。


「ちょっと遅かったか? パラドックスだけは起きてないといいんだが」


「今のところは順調。パラドックスになるようなことは説明してないし起きてないと思う。時間がないしとりあえずいきましょ」


「そうだな。すまん、ちょっと体調が悪くて席を外す」


そう言いながら隣にいる副パイロットを揺すって起こす。


「ふっ……ふが! 了解しました!」

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