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第3話 「コーラの染み」

「後はコックピットね」


機体前方へ向かう途中、カーテンの隙間から見えるギャレーは天井が煤で黒く、あちこち焦げていた。


「ここ、ひどいですね」


「火と煙がここの空調ダクトを通ったみたいで」


コックピットのドアは半開きになっていた。縁に焦げた痕と、力づくで開けられたような歪みが残っている。


中に入ると焦げた金属と配線の匂いが鼻を刺した。計器類のいくつかは焼け落ち、操縦席の脇に酸素マスクと書類が散らばっている。窓の外には海が広がっていた。


「通信機器はこの辺り」


月城がメインコンソールの側面を探るが、ボタンは溶け落ちているものが多く、モニターは真っ暗だった。


「駄目ね。回路が全部焦げてるし電源も落ちてる」


「復旧は?」


「私が見た限りは無理。でも座標ログなら残ってるかも」


補助パネルの引き出しを開け、折りたたまれた航空図とナビゲーション記録を取り出した。


「最後に自動記録された座標がここ」


地図の赤い点は太平洋の広大な海域の一角で、いくつかの小島が近くにあるが、航路と思われる点線からは大きく外れていた。


「こんなところに」


「避難信号は自動で出てると思うけれど、航路から外れてると発見が遅れるかもしれないわね」


ふと外した補助パネルに目を向けると、茶色に変色していた年季を感じさせる染みがついていた。


「……月城さん、これは」


「何?」


「もしかして血痕?」


月城は視線を落とした。しばらく沈黙があった。


「コーラじゃないかしら。今日のパイロットが飲んでたはずだから」


「こんな色になりますか、コーラが」


「飲みこぼしたのが時間が経てば変色することもあるんじゃないかしら」


「かなり古い痕に見えますが」


月城の視線はコックピットの壁のどこかに向いていた。悠希を見ていない。


「月城さん」


「......何?」


「さっきの傷も、今の血痕も。何か知ってることがあるなら教えてほしいんです。二人きりで孤立してる今、情報は多い方がいいと思うんですけど」


月城は少しの間黙っていた。


「今回の不時着とはそんなに関係無い話だからいいと思うんだけどね。夜になったら話すわ」


「分かりました」


――――――――――――――――――――――


夜になると予備電源も無くなったようで照明が完全に落ちた。

窓の外には闇と、そこに張りついたような星が広がっている。機体は静かに波に揺れており、時折、金属が軋む音がするだけだった。悠希と月城は機体の裂け目近くに腰を下ろしていた。ここからは海と空の境目も分からない。どちらも同じ暗さで、星だけが両方に広がっているように見えた。


月城が救急箱から取り出した非常用の小型ライトが、二人の足元を薄く照らしていた。


「夜は長いし少し肌寒いね」


悠希はジャケットを脱いで月城に渡した。


「え、いいの?」


「俺はそんなに寒くないので」


月城は受け取って膝の上にかけた。しばらく、二人とも黙っていた。波の音だけが規則的に聞こえる。


「さっきのことを話さないとね」


と月城が言った。


「9年前の702便ハイジャック事件って知ってる?」


「確か小学校の頃にニュースで見ました。乗客が一人で犯人を制圧したって、大々的に報道されてて。印象に残ってる」


月城は膝の上に視線を落としたまま、続けた。


「私の父が政府の高官でね。父が狙われて、私もその便に乗っていたの。当時中学生だった私は、父を脅すために人質にされた」


「……」


「これは」


月城は制服を少しずらし、肩の古い傷跡を指先でなぞった。


「その時の傷。そしてこの飛行機も、その時の機体なの。だから銃痕も血痕も、不時着の傷じゃない。9年前のものよ」


「コックピットの血痕も?」


「そう。犯人がパイロットを脅したところでやり合いになったみたいね。私は直接は見てないけど」


悠希は黙って聞いていた。


「乗り続けていれば、いつかまた会えると思って。だから、私はキャビンアテンダントになったの」


「会えると思って、というのは」


「さっき犯人を制圧した人がいたって言ったでしょ。私を助けてくれた乗客がいたの」


月城の声がかすかに変わった。


「犯人は乗客を一箇所にまとめようとしてたんだけれど、一人だけトイレに隠れていた乗客がいた。チャンスを見計らって飛び出してきて、私を引き離してくれた。その隙に周りの大人たちが犯人を取り押さえたみたいでね」


「あの時の私にとって、その人が全部だったの。怖くて泣きそうになってた時に、突然飛び出してきて守ってくれた。あんな経験を乗り越えられたのは、その人がいたからだと思ってる。だからお礼が言いたかった。ちゃんとお礼を言って、恩返ししたかった。そのために私はCAになって同じ便に乗ったのよ」


「探し続けたとして、その人が見つからなかったらどうするつもりだったんですか」


「もう何年もそのことしか考えてなかったから、そんなことは全然考えてなかった」


「そうですか」


沈黙が流れる。突風が吹いて肩の銃創がよりはっきりと見えた。


「二人ともトイレから出てきたんですよね」


とぽつりと言った。


「そうね」


「その人もトイレに隠れてたって言ってたし。なんか、不思議だなって思って

……ちょっと待ってください」


悠希が立ち上がった。


「どうしたの?」


「お手洗い、まだ詳しく調べてないですよね」


「そうだけど」


「確かめたいことがあるんです」

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