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第2話 「紅茶がこぼれて」

通路の奥から女性が急ぎ足でやってくる。長い髪を肩にまとめ、CAの制服を着ているが、あちこちが破れよれていた。膝に擦り傷をつけながらも笑顔を作ろうとしている。


「よかった、まだいたみたいで……痛いところはないですか? 怪我とか、出血とか」


「俺は大丈夫ですけど、あなたは?」


「ごめんなさい、名乗りもせずに。CAの月城です。えっと君は……」


「三輪、三輪悠希です」


「悠希くん、本当に大丈夫? 衝撃が凄かったし、痛みがなくても打撲してることがあるから」


月城は手を伸ばし、肩、胸元、腕とぺたぺたと確認する。プロの動きだが距離が近く、薬指の指輪が当たって少し痛い。結婚しているらしい、と頭の隅で思った。


「全然大丈夫ですって。というか月城さんもその傷は大丈夫なんですか?」


そう言って指を指した肩は制服が破けており、鎖骨の下辺りに白く引きつれた傷があった。


「これは古傷だから大丈夫」


「そうなんですか」


「だからそれよりもまず君、念のため少しじっとしてて。

……うん、骨も折れてなさそうだし打撲もとりあえず大丈夫そう。あとでちゃんと診ないとだけど」


「それよりも状況が全然分からなくて。トイレに入って出たら急に不時着してたみたいで」


月城は一瞬、コックピットの方に目をやってから言った。


「航行中に燃料漏れが起きて引火したの。火災はすぐ抑えられた。けどパイロット二人が煙で意識を失って。なんとか不時着まではこぎつけたんだけど」


口調が一段沈んだ。


「全然気づかなかったです。トイレに入って出たら、もうこの状態で」


「トイレの中で気絶してたんじゃないかな。煙が回ってたか、どこか頭をぶつけてたか」


「……かもですね」


そう答えながら、悠希はその説明に何か引っかかりを感じた。煙の匂いはしなかった。どこも痛くないし傷もない。それよりも、ドアを開けた瞬間の静寂と潮の匂いが、あまりに鮮明に残っている。気絶した経験はないが気絶の感覚じゃない気がした。

ただ今それを言っても仕方がない。


「乗客は救命ボートで脱出したんだけれど、名簿に見つからない人がいて。見捨てられなくて探してたの」


「それで救命ボートは?」


「……先に出ていったみたい」


「え、それって俺のせいで月城さんまで――」


「そんなことはどうだっていいの。私が決めたことだから」


月城はそれだけ言って、先に歩き出した。


「今は機体がいつ沈むか分からないから、使えるものを探しましょう。救命器具がまだ残ってるかもしれないし」


―――――――――――――――


機体の中には風の音と潮の匂いだけが漂っていた。

通路を歩くたびどこかで荷物が揺れる。天井のパネルは一部外れて配線が垂れ下がり、窓のない箇所からは潮風が吹き込んでいた。外から差し込む光が斜めに伸びて、散乱したシートと破片を白く照らしている。


「静かだな……」


「エンジンの音って安心材料だったんだって、こういう時に気づくのよね」


月城はかがみ込み、落ちている救命キットを手際よく確認していく。開けて中身を点検し、使えないものと使えるものを素早く分けていく。迷いのない動きだった。


「こっちに使えそうな救命胴衣が一つ。救急箱も残ってるわ」


「手際いいですね」


「客室乗務員はみんなこんなものよ」


と月城は言って、それから付け足した。


「昔から飛行機には縁があるし」


含みのある言い回しだったが、悠希はそれ以上訊かなかった。

二人は奥へと進みながら、使えるものを探していく。悠希は散乱した荷物を退けながら通路を進んだ。整理の癖で、座席の状態を確認し、非常扉の位置を頭に入れ、機体の傾きを足の裏で確かめる。こういう時、見たものだけに集中していると余計なことを考えずに済んだ。


ある座席の前を通り過ぎようとして、足が止まった。

座席と壁の隙間に、人が挟まるようにして倒れていた。

スーツ姿の男性だった。年齢は五十代くらいだろうか。不時着の衝撃で座席から投げ出されたのか、通路との境目で体が不自然に折れている。おそらく飲んでいたであろう紅茶のペットボトルと鞄が近くに落ちていて、どちらも中身がこぼれていた。


「月城さん」


声が少し掠れた。


月城はすでに悠希の隣にしゃがんでいた。男性の首筋に指を当て、数秒待つ。それから静かに手を引いた。首を横には振らなかった。ただ、何も言わなかった。


それで分かった。


悠希は立ち上がれなかった。散乱した荷物を退けながら、男性の体をシートに寄りかかるように動かした。折れ曲がっていた姿勢が、少しだけ楽に見える角度になった。それだけしかできなかった。


「だから救命ボートに乗れなかったのね」


月城が言った。感情を抑えた声だったが、抑えきれていない部分があった。


「名簿に残ってた一人、ですか」


「……ええ」


月城が見送ってまで機内に残ったのは、この人を探すためだった。

帰る場所があったはずだ、と悠希は思った。待っている人間がいたかもしれない。それがここで終わっている。飛行機の壁と座席の隙間で、誰にも見つけられないまま。


「行きましょう」


月城が先に立ち上がった。


「ここに留まっても、できることはないから」


「……そうですね」


立ち上がりながら、悠希はもう一度だけ男性を見た。眠っているようにしか見えなかった。


この不時着は起きるべきではなかった。その考えが頭の中でまだ動いていた。止める方法は分からなくても、ただそれだけが残った。

二人は先へ進んだ。


しばらくして、悠希の足が再び止まった。

座席の足元の金属パネルに、小さな穴と焦げ跡があった。周囲のパネルにも、何かが強くぶつかったようなへこみがいくつかある。指先で触れると、断面が滑らかだった。丸みを帯びた感触で、かなり古い傷だ。

不時着の衝撃でこういう痕がつくだろうか。にしても形が歪だし断面が古すぎる。

視線を上げると、非常扉の縁にも似たような削れ跡がある。床のパネルだけじゃない。よく見ると機体全体に、同じ種類の古い傷が散らばっていた。

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