第1話 「コーヒーを飲みすぎた」
旅立ちの朝は、案外あっさりしていた。
空港のカフェの窓から滑走路を眺めても、現実味が薄い。まるで映画のセットを見ているようで、あの飛行機に自分が乗るという事実がどこか他人事のままだった。三輪悠希は紙コップを両手で包んだまま、ぼんやりとそれを見ていた。コーヒーはとっくにぬるくなっている。
「すまん、ちょっと遅れた」
振り向くと、航平が少し息を弾ませながら入ってくるのが見えた。制服ではない私服姿が妙に久しぶりに感じられたのは、きっと別れを意識しているせいだ。
「大丈夫だって。わざわざ来てくれてありがとな」
「全然いいよ。それより荷物ちゃんと持った?」
「もうすぐ保安検査場なのに持ってたらまずいだろ。大半はもう預けたっての」
「それもそうだね、ちょっと言ってみたかっただけだ」
くだらないことを言ってはからかってくるのは昔からだ。小学生の頃、見舞いに行った病室でもそうだった。点滴の管を見て固まった悠希に、航平は「これ、コーラなんだって」と真顔で言った。笑えなかったが、おかげで固まったままじゃいられなかった。あの頃から、重たい空気が苦手らしかった。
「にしても悠希一人で留学か」
「まあな」
「緊張してる?」
「してない」
「嘘つけ、マドラーがとまってないぞ」
言われて気づく。無意識のうちに指でくるくると回していた。足もそわそわと揺れている。悠希は意識的に手を止めた。
「俺だって緊張くらいするわ」
そう言いながら軽くおどけてみせる。 ほんの少しこうやって体を動かすだけで、胸の奥の固まりが小さくなる気がした。
「にしても悠希一人で留学か」
「できるならお前と行きたかったが……」
「しょうがないさ。昔に比べてだいぶ良くなったとはいえ、海外はダメだって医者に言われてるし。俺も納得してるよ」
「でもよ……」
言葉が詰まった。視線を落として、コーヒーの表面をじっと見る。言いたいことは分かっている。ただそれを言葉にすると、この場が壊れる気がした。
「じゃあさ、帰ってきたらどこでもいい。こんな感じでカフェでもファミレスでもお茶しながら、ゆっくり土産話でも聞かせてくれよ」
悠希は思わず笑った。涙が出そうだったが、それがどこから来るのか自分でもよく分からなかった。
「ったく、しれっと重いこと言いやがって。ずるいわ」
「まあな」
航平はいたずらっぽく笑って、悠希の肩をぽんと叩いた。
「約束だ」
と悠希は言った。
「ありがとね。ほら、そろそろじゃないか?」
航平がスマホで時間を指す。搭乗時間が迫っていた。
「やっべ、ほんとだ」
残ったコーヒーを一気に飲み干して立ち上がった。
「じゃあ行ってくるわ」
「ああ、行ってら」
悠希は小さく頷いて保安検査場へ歩き出した。最後に振り返ったが、航平の姿はすでに人混みに消えていた。悠希はもう一度前を向いて、歩いた。
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「まもなく当機は離陸いたします。つきましては定刻より出発が大幅に遅れましたことを……」
アナウンスで我に返り、シートベルトを締め直した。腕時計を確認すると定刻を一時間以上過ぎている。長い待機の末にようやく動き出した機体が、ゆっくりと滑走路へ向かっていく。
隣の席の男性はもうイヤホンをつけて目を閉じている。通路を挟んだ反対側では老夫婦が雑誌を広げている。悠希はシートに背を預けて窓の外を見た。エンジン音が高まり、背中がシートに押しつけられる。地上の景色が後方へ流れ、窓の外が一面の青になった。
しばらくして安定飛行に入り、シートベルトサインが消えた。機内にざわめきが戻ってくる。悠希は少し体を伸ばして、そこでようやく気がついた。
コーヒーを飲みすぎた。
通路側の乗客に小さく会釈して席を立つ。客室乗務員に目礼しながら通路を歩き、機後方のトイレへ入った。
「ま、間に合った〜」
用を済ませ、水洗ボタンを押した。
何も動かない。
排水音がしない。それだけじゃなかった。エンジン音が消えた。空調の唸りも、壁越しのざわめきも、何もかもが一度に消えた。耳の奥が詰まるような静寂。
そして鼻をくすぐる、場違いな匂い。
潮の匂い?
湿った空気が肌に触れ、妙に肌寒い。悠希はドアに手をかけた。押しても動かない。もう一度、今度は肩を入れて。ガコン、と鈍い音と共に開いた。
「なんだよ、これ」
窓ガラスはほとんどが砕け散り、鋭利な破片がシートと床に散らばっていた。荷物棚から転がり落ちたスーツケースが通路を塞ぎ、天井から酸素マスクが数本垂れ下がっている。さっきまで満席だったはずなのに乗客は一人もいない。
足元で金属音がした。小さなボルトが床に転がっている。拾い上げると、ずっしりとした重みと、ざらりとした感触が指に伝わった。工業用の普通のボルトだ。なぜこんなものが通路に転がっているのか分からないと思いながらポケットに入れ、出所を確かめようと通路の先へ目を向けた。
通路の先がなかった。
胴体が裂け、機体後部が丸ごと消えている。金属の外殻が剥き出しになり、その先に海が広がっていた。鈍色の波がゆったりとうねり、厚い雲が空に垂れ込めている。陸地はどこにもない。水平線だけがどこまでも続いていた。
「ど、どうなってる......?」
背後から足音が近づいてきた。
「もしかして、誰かいますか?」




